灰色の港町は野良猫のすみか
骨をくわえて路地を駆け
甘い声して餌ねだる
ほらほら 毛並みがいいでしょう
しばれた身体
温めて差し上げますわ



 わたしの生まれ故郷は、寒さが厳しく、寂れた港町だった。
 海は天気が良くても重たい鉛色で、いつも風が強く吹いていて、町は生臭かった。漁師たちは荒々しい性格で皆同じような肌の色に焼け、その妻たちも負けないほど浅黒い肌をして、露骨に下品な言葉を使い、大口を開けて笑った。
 わたしの家は岬にぽつんと建っていて、家というよりも小屋に近いほど、古くさく湿っていた。わたしは友達もいなく、学校が休みの日は薄暗く隙間風が入り込む小屋の中で、風と波と海猫の鳴き声を聞いていた。深夜になると、ママが帰ってくる。強い風に押されてドアが大きな音を立てて閉まるので、わたしはそれで目を覚ましてしまうのだ。
「お帰り、ママ」
 薄い掛け布団を身体に巻き付けたまま、わたしはママに近付く。
「あら、マリー。起こしちゃったのね。ごめんね」
 大丈夫、とわたしが首を横に振ると、ママは真っ赤な唇を引き上げた。ママはとても美しい人だった。灰色の、全ての色彩が重く沈む町で、一際色鮮やかに輝いていた。金の巻き毛は眩しいほど艶やかで、整った顔立ちとしなやかな身のこなしは人目を引いた。
「さ、お部屋に戻って、眠りなさい」
 ママはわたしを抱き締め、頬にキスを落とした。煙草と、アルコールと、夜の匂いが、ママのつけるばらの香水の中に潜んでいた。わたしはママが大好きだった。わたしの世界を絶対的な力でもって構築し、君臨し、跪いて見上げて祈る敬虔な信者のようにさせてしまうほどに光り輝いていた。わたしはママの娘であることを誇りに思っていた。パパのことなんて、見たこともないし、聞いたこともないからどうでもよかった。ママさえいれば、わたしは何もいらなかった。
「おまえの母親、あばずれだよな。ひらひらした服着て、路地で手招きしてるんだろ。なあ、おまえもそうなわけ。きったねえ」
 学校で、わたしはいじめの対象にされた。親たちと同じ生臭い匂いをさせて、黒とも白ともつかぬぼろぼろの服を着ていた。彼らはわたしの金髪や、明るい色合いの服をよく蔑み、笑い者にした。
「ママ、わたし、黒いお洋服、着ようかな」
 夕方、学校から帰ってくると、母は決まってドレッサーの前に座って化粧をしていた。たくさんの綺麗な形の瓶や、赤いルージュや、色とりどりのシャドーが、ママの目の前に広がっている。
「黒い洋服なんて、あんたには似合わないわ。また何か言われたのね」
 わたしが黙っていることを、肯定と受け止めたようだ。ママは続ける。
「それが何よ。あんた、ひとつも悪いことしてないでしょ。だったら堂々と胸を張ってなさい。そんなこと言うやつらの方が、よっぽど卑しいわ。マリー、あんたはあたしの娘よ。いい、負けちゃ駄目。惑わされないで、意地でも自分のプライドを守り抜きなさい。泣き顔なんか、見せちゃ駄目。でも私の前では、思い切り泣いていいのよ」
 そう言い切るママは、あまりにも強かった。わたしの心の弱い部分を、迷いや、哀しみを、ママはきっぱりと跳ねのける。信じられるのは自分だけ。世間が自分をどう見ようが知ったこっちゃない。自由気ままな猫のようでいて、しかし身体の中に真っ直ぐな芯が一本通っているような女性だった。わたしはママのように強くはなれなかったけれど、何かを言われてもぐっと我慢ができるようになった。誰が何と言おうと、強く、気高く、美しいママが誇らしかった。

「おまえの母親なんか、死んじゃえばいいんだ」
 学校の帰り道、痩せた木の下で、ひとりの少年が誰かを待っているように立ちつくしていた。その前を通り次ぎようとしたとき、少年がわたしに向かって射るような強い視線を向け、わなわなと震える唇でそう言った。わたしは驚いてその少年を凝視した。同じクラスの、とりわけ大人しく、微かに品のある少年だった。確か家は医院を開いていたような気がする。
「死んじゃえ! 死んじゃえ!」
 石つぶてがいくつも飛んできて、わたしの頭や肩に当たった。今まで蔑まれることはあっても、あからさまに死ねと言われたことはなかったので、わたしは言い返せないほどに動揺していた。やがて少年は泣きながら、その場を後にした。
 その夜、物音がして目を覚ました。時計を見ると、まだママが帰ってくる時間には早かった。泥棒か、わたしたちを嫌っている誰かが入ってきたのかもしれない。わたしはベッドを下り、そっと気付かれない程度に少しだけ、寝室のドアを開けた。
 次の瞬間、わたしは凍り付いた。閉めなければ。そっと、気付かれないようにベッドに戻らなければ。そう思うのに身体が動かなかった。見開いた目が乾いて痛い。けれど、目が離せない。ママが、見知らぬ男と抱き合っていた。ママはそういう仕事をしていた。けれどわたしがいる家に、客を連れてくることは一度もなかった。それなのに。その男は特別なの、ママ。わたしは神が床に崩れ落ち、金髪が美しい水紋を描くさまを見ていた。

 その日は、雲一つない月夜だった。仕事に行く準備を終えたママは、わたしに向き直って笑顔を見せた。月光の下、泣き出したくなるほど美しい笑顔だった。
「行って来るからね、マリー。いい子にしてるのよ」
「愛してるわ、ママ」
 いってらっしゃい、そう言おうとしたのに、わたしの唇は違う言葉を紡いだ。ママの瞳をじっと見上げる。ママは驚いたように目を見開くと、やがて困ったように小さく微笑んで、あたしもよ、と言った。しかしママはわたしの頬にキスを落とすと、真っ赤なドレスを翻し、月に向かっていくように、堂々と歩いていった。わたしを、一度も振り返らなかった。
 それから一日経って、二日経っても、ママは帰ってこなかった。わたしは学校に行かず、一日中、ママのことを考えていた。ママと、あの男のことを考えていた。一週間目で、学校の先生や役人がやってきて、わたしを家から引きずり出した。
「仕様のない女ですね。男と駆け落ちなんて、普通なら考えないでしょう」
「小さな子ども一人残していくなんて、同じ女として許せませんわ」
「男の方にも家庭があったんでしょう。病院をやっていたんでしたか」
「その子どもは、わたしが受け持っていました。彼女もです」
「親も親なら、子も子です。こんなこと、二度と起こらないように願うばかりですね」
どこかへ連れて行かれる途中、その人たちの会話の中で、ママが男と失踪したこと、その男がこの間の少年の父親だということが分かった。
 わたしはみすぼらしい孤児院に入れられ、同じように親がない子どもたちや、事情があって家族と離れて暮らさなければならない子どもたちと共同生活を送ることになった。一年、二年、時が過ぎるのは遅かったし、あまりにも退屈すぎた。服はみんなお揃いの灰色のワンピース、同じような濁った瞳の子どもたち、聖書の言葉を繰り返すことしかできないシスター。平凡で、肌の上を柔らかく通り過ぎていくだけの、生温い空間。わたしは来る日も来る日もママのことばかり考えていた。わたしを置いて、男と駆け落ちをしたママ。誰よりも美しくて、強くて、しなやかで、誰よりもきっと、女だった。どうしてわたしを置いて行ってしまったのだろう。
「新しい朝を迎えさせてくださった神よ、今日一日わたしを照らし、導いてください。いつも朗らかにに、健やかに過ごせますように。物事がうまくいかないときでも微笑みを忘れず、いつも物事の明るい面を見、最悪のときにも、感謝すべきものがあることを、悟らせてください。自分のしたいことばかりではなく、あなたの望まれることを行い、まわりの人たちのことを考えて生きる喜びを見出させてください。アーメン」
 朝の祈りが終わると、シスターがわたしのところにやって来た。
「マリー、あなたはなぜお祈りをしないのですか。こうしてみんな元気でいられるのも、食べることができるのも、全て神のおかげなのです。神は哀しんでおられますよ」
 それでは、わたしの神は、どうしてわたしを置いて行ったのだ。愛していると、微笑みだけを残して。突然、わたしの中で爆発が起こった。
「神さまなんか、いないわ!」
 わたしは大人しく、従順な子どもだった。悪く言えば無気力とも言えた。そのわたしが初めて意志を露わにしたことで、シスターは驚きを隠そうともしなかった。
「仕方ありません。マリー、あなたには罪を償ってもらわなければいけません」
 わたしは小さな部屋の中に閉じこめられ、反省を強いられた。けれどわたしには反省の言葉など微塵も沸いてこなかった。わたしの神はただ一人。自由で、美しく、既存の枠に嵌らず、最後まで女で有り続けた。わたしという存在を捨て、月に向かい歩いていった、ママだけなのだ。
 ガタン、と後ろで物音がした。建て付けの悪い窓が、風に吹かれてうるさかった。その窓に近付くと、錆び付いた鍵が小刻みに揺れることで外れてしまっていた。わたしは窓を開けると、窓枠に足をかけてひと思いに飛んだ。巣立つ小鳥のように。迷いも、恐れもなかった。ただ青い空が眩しかった。初めて空というものを見た気がした。
 ママ、わたしはあなたを憎んでいるの。だから、行くわ。あなたのように、自由になるために。あなたから、解放されるために。
 落ちたとき、ばらの垣根で身体中が傷付いた。血と、ばらの匂いが混じり合い、頭の芯が痺れたように震えた。わたしはばらの花弁部分をつかみ、むしった。強烈な花の香りが悲鳴のように溢れ出す。わたしはその拳を空に掲げ、開いた。
 ママの名は、ローズといった。



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