一人迷い込んだ夜の街
ネオンの洪水 煙草と金の匂い
みんなピエロよ 笑うがいいわ
朝が来れば幻の
たった一夜のフリークショー
さあさ ごらん遊ばせ!



 ローズと出会ったのは、まだ浅い春だった。
 浮浪者のように街と仕事を転々としていたわたしは、初めてやって来た生き物のような巨大都市で右往左往していたら、いつの間にか怪しげなバーに入り込んでしまったのだった。薄暗い店内に老若男女が入り乱れ、アルコールの匂いと煙草の煙が宙で渦巻いていた。吐き気を催して、トイレを探そうとしても薄暗くてよく見えないし、足下がふらついて人にぶつかり、床に倒れ込んでしまった。
 次の瞬間、頭上で雷が光ったときのように強い光が現れたと同時に、耳をつんざくような音楽が流れ出した。それに負けないほど、客たちの歓声も凄まじく、わたしは何が起こったのか分からないまま顔を上げた。そして目の前の光景に、場所も時間も忘れた。
 ステージの上で、真っ赤な衣装を身に纏った、美しい女性が歌っていた。とびきり蠱惑的で、奇抜で、目が、離せなくなってしまった。そして何より、わたしが永遠に失ってしまったものに、とてもよく似ていた。
「ちょっと、大丈夫?」
 ガヤガヤと騒々しい人混みの中、その声はわたしの耳にすとんと降りてきた。ハスキーで、声の中に色があった。わたしははっと我に返った。目の前に、あの女性がいたのだ。
「まだ子どもじゃん。なに、気分悪いの。こっちおいで」
 白い頬を縁取る金色の髪。長い睫毛で覆われた、憂いを宿す菫色の瞳。熟れて零れ落ちそうな赤い唇。差し出された華奢な手の爪にも、真っ赤なマニキュアが塗られていた。わたしは躊躇しなかった。彼女の手を取り、引きずられるような形で楽屋に通された。
「落ち着いた?」
 グラスに入った水を差し出され、それを飲み干すと、胸の高鳴りは徐々に治まってきた。わたしは頷き、手の震えを悟られないようにグラスを強く握り締めた。
「あんた、歳、いくつ?」
 煙草を一本抜き取り、ライターで火をつけながら、彼女は何気ない様子で問いかけた。
「20歳」
 椅子に腰掛け、煙草をふかし始めた彼女は、わたしに一瞥をくれて形のいい唇を歪めた。
「意外と年増。悪かったわ。あんた、17、8に見えたから。ふうん、なんだ、あたしと同い年か」
 心臓が跳ね上がった。わたしが勢いよく顔を上げると、彼女は笑った。笑うと、幼さが見え隠れする。
「あたしが歳言うと、みーんなそんな顔すんのよね。だから普段は25って言ってんの」
 彼女は煙草をゆっくりと吸い、しゃぼん玉を作る子どもみたいに優しく煙を吐いた。身体にフィットした衣装や、組んだ長い脚や、身の置き方が、絶妙なバランスで美しさを誇っていた。彼女はもう成熟した大人の女だった。似ている、とても。あの人に。
「あんた、あたしに似てるわね」
 わたしはグラスを落としそうになった。そんな様子を見て、彼女はまた笑う。
「どこが。わたしなんか、全然、あなたなんかに似てないわ。綺麗じゃないし、髪なんかこんなだし、服だって」
 わたしの唇から、否定の言葉ばかりが次から次へと零れ出た。次の瞬間、人差し指で顎を持ち上げられた。近くに、彼女の顔がある。魅入られたら求めずにはいられなくなるような、深い瞳。
「馬鹿ね。こんな綺麗なのにもったいない。鏡見たことある? ああ、ほんと、そっくりだわ。どうしてかしら。世の中には同じ顔の人が三人いるって言うけど」
 彼女はわたしの短い髪を、長い指でいじった。次に頬を撫で、唇に触れる。
「髪、伸ばせば? 綺麗な巻き毛だわ。化粧もして、服も整えて……。ねえ、あんた、名前は?」
 彼女の目が、遠くを見るようにふっと柔らかくなった。
「ローズ! ご指名だ。ローズ!」
 楽屋のドアが激しく叩かれ、わたしの意識はそちらに引きずられた。ローズ? まさか、そんなことがあるはずがない。
「今、行くわ。全く、人使いの荒い」
 彼女は毒を吐きながら、屈んだ身体をぴんと伸ばすと、わたしに背を向けた。待って、行かないで。わたしは咄嗟に喉から声を絞り出した。
「マリー」
 彼女は、ゆっくりと振り向いた。振り向いたときの視線の動かし方、瞬きの速度、絶妙な顔の角度。目を奪われる完璧な美しさで、運命のようにわたしの前に現れた。
「あたしはローズよ」
 わたしはそのとき、厚い雲から一筋の光が降りてくるのを感じた。

「マリー。こっちにロック」
 わたしは名前を呼ばれると、飼い主に忠実な犬のようにローズの元へ駆けていく。ロックを渡すと、ローズはわたしの頭を優しく撫でてくれる。
「なんだ、ローズ。この給仕のこと、やけに気に入ってるみたいじゃないか」
 客の一人が笑いをかみ殺しながらそう言った。ローズは常連なのだろうその客に、極上の笑みを見せながらわたしを側に引き寄せた。
「そうよお、生き別れた双子の姉妹なの。かわいいでしょ。手、出しちゃ駄目よ」
 そして、頬にキスを受けた。顔が火のようになるのと同時に、爆発したように客の笑いが起こった。わたしは恥ずかしくなって、その場から逃げるようにカウンターに引っ込んだ。同じく給仕として働いているバークレーさんは、一部始終を見ていたはずなのに、にこりとも笑わずグラスを拭いていた。
「おまえ、あいつと一緒に住んでるんだっけ」
 口から飛び出しそうに跳ねる心臓を押さえながら、わたしは滅多に言葉を発さないバークレーさんに視線をやった。すると彼は視線だけわたしに寄越したので、こくこくと頷いた。
「顔、真っ赤。おまえ、あいつのこと好きなの」
「だって、わたしのことここで働かせてくれたの、彼女だし。あと、家政婦がいると助かるからって、住み込みで働かせてもらって。感謝してます。こんなところに出てきて、どうしようって不安だったけど、ローズとならうまくやれそう」
「あいつが、男でも?」
 一際甲高い笑い声が響き渡った。ローズが客の一人にしなだれかかり、グラス片手に笑っていた。
「え?」
 わたしの心臓は驚くくらい急激に速度を落としていった。
「やっぱり知らなかったか。あいつ、男。あんた、ここがどういう店かもよく分かってないだろ」
「どういう店って、ショーパブでしょう」
「表向きはな」
 更に問いただそうとしたとき、ローズが立ち上がり、わたしの方に歩いてきた。
「マリー、先、帰ってて。あたし、今日、遅くなるから。先に寝てな」
 そう言って、頭を優しく撫でた。まさか、こんなに美しい人が男だなんて。わたしがぼんやりしていることを不審に思ったのだろう。ローズはわたしの顔を覗き込んだ。
「どうしたのよ」
「何でも、ないわ。先に帰ってる」
 ローズの視線を受け止めきれず、わたしは避けるようにその場を後にした。
 朝方近くなって、玄関で物音がした。ローズが帰ってきたのだ。わたしに気を遣っているようで、足音が響かないように慎重に歩いているのが分かる。いつものわたしなら眠り込んでいて気付かないけれど、今日は違った。ローズの心遣いが嬉しい。けれど、今までどこで何をしていたのか、ローズは話してくれない。バークレーさんから聞かされたことも、本人の口から聞きたかった。
「お帰り、ローズ」
 キッチンで水を飲んでいたローズは、わたしが起きていることを予想していなかったようだ。振り向いたときの表情が、疲れ切っている。いつもならとびきり甘い笑顔を見せてくれるのに、そんな余裕すらなかったかのような印象を受けた。
「起こしちゃった?」
 声にも、艶がなかった。わたしは首を横に振って否定を表した。
「起きてたの」
 ローズはふらふらと近付いてきて、わたしの髪を慈しむように撫で、頬をさすった。アルコールと、煙草と、倦怠の匂いが強く香った。
「あたしに娘ができたなら、こんな子になるのかしら。そう思ったのよ。マリー、あんたがステージで歌ってるあたしを凝視してたとき。神さまでも、見てるような目で」
 ローズの目から、大粒の涙が湧き上がり、頬を滑り落ちた。そして覆い被さるようにわたしを抱き締め、声も出さずに、ただ震えた。
「ローズ、ローズ」
 わたしはローズの背中をさすり、寝室に引き入れた。それでもローズはわたしにしがみついてくる。まるで小さな子どもみたいに。涙が、スリップを着たわたしの、背中や胸をするすると滑り落ちる。
「ローズ、私の前では、思い切り泣いていいのよ」
 わたしが幼い頃よく言われていた言葉だということに、言ってしまってから気付いた。わたしの心に、身体に染み込んでいる呪いの存在に驚く。するとローズは我慢していたものが吹き出したように、声を上げて泣いた。
「あたしに子どもなんかできないのよ。女じゃないんだもん。どんなに着飾っても、男なんだもん」
 震えるローズの肩を、わたしは強く抱き締めた。
「ローズ、あなた……」
「マリー、好きよ、マリー」
 わたしはローズの身体を引き離し、涙で濡れた頬を撫でると、ローズの唇に唇を重ねた。ローズは、拒絶しなかった。わたしたちは縺れ合うように、朝の光に凝った闇の中で、何度も何度もお互いの名前を呼び続けた。
「客にね、否定されたのよ。散々、あたしのこと買ってたくせに。そんなことしょっちゅうだし、最近まで全然気にしてなかったんだけど、何でかしら、今夜は無性に哀しくなっちゃって」
 ベッドで、二人裸のままうとうとしていると、ローズがぽつりと話し出した。そんな自分を誇り、極上の笑みを見せられるようになるまで、どれだけの屈辱を味わってきたのだろう。わたしはふと考えて、泣き出しそうになった。
「わたし、今のローズが好きよ。変わらないでいて」
 強く、気高く、美しく。脆さをひた隠し、顔に泥を塗られても、笑っていられる。ローズ、あなたなら。
「それでも哀しくなったら、わたしが慰めてあげられる。だから外では絶対、泣いたりしちゃ駄目よ」
「うん、分かった」
 わたしたちは赤い目をして笑い合った。

 月日は、流れた。わたしたちはお互いの娘であり、お互いの母親でもあった。そしてわたしは妊娠し、娘を出産した。ローズと、マリー。二人の娘だから、ローズマリーと名付けた。わたしたちは娘の役割を終え、ローズマリーの母親となった。
「ねえ、ママ、学校の先生にね、怒られちゃった」
 夕食の支度をしていると、ふいにローズマリーの声がした。振り返ると、両手を後ろに回し、俯いたローズマリーが、壁にもたれ掛かっていた。ローズによく似た顔立ちに、金の巻き毛が子どもながらに美しく際だっていた。
「怒られたって、どうして?」
「お洋服とか、髪飾りがキバツすぎるって。ママ、キバツって何?」
「よかったじゃない、ローズマリー。褒められたのよ。あなたがあんまり可愛いものだから、先生たち、嫉妬してるのよ」
 後ろで、ローズマリーが非難の声を上げたけれど、わたしは料理の手を休めなかった。
「でも、でも、先生が、怒るんだもん。クラスの子も、ママとローズの悪口、言うんだもん」
「あのねえ、ローズマリー。あんた、あたしたちのこと、どう思ってんの。好き? 嫌い?」
 バスローブを着たローズが、キッチンにやって来るなり、腕組みをしてローズマリーを見下ろした。ローズマリーはローズを見上げ、賢明に首を横に振って見せた。
「だったら、愚痴愚痴言わないの。先生や、クラスの奴らなんか、何よ。マリーが言ったように、あんたが可愛いから嫉妬してるだけ。今度そんなこと言われたら、『ありがとう』って、にっこり笑えばいいのよ。堂々としてなさい」
 大きな目を瞬かせていたローズマリーは、一呼吸置いて、思い出したようにこくこくと頷いた。わたしは胸のこそばゆさに、一人笑いをかみ殺した。ローズと、わたしの娘、ローズマリー。今はまだ気付いていないけれど、いずれ自らの美しさに気付くときが来るだろう。そのとき、思い出して身の糧となるのだ。ローズと、わたしの言葉が、聖書のようにローズマリーの心に刻まれていく。
「ね、マリー、夕食は何?」
 媚びるような甘い声で、ローズが近寄ってきた。
「チキンドリアと、じゃがいものスープよ。ローズ、チキンドリア好きでしょう」
「好き好き、大好き。これ食べたら仕事頑張れちゃう。ほら、ローズマリー、手を洗ってママのお手伝いをするわよ。今日はあたしのステージ見に来るんでしょ? おめかししたげる」
「いいわよ、手伝いなんて。ローズ、ローズったら……もう」
 ローズはわたしの言葉を聞かず、ローズマリーと連れ立って洗面所へ駆けていった。
 夜の匂いが充満したショーパブに、幼いローズマリーを連れて行くことは気が引けたけれど、保護者同伴で少しだけ、ローズのショーを見に行くことがあった。そのとき、ローズはローズマリーをいつも以上に可愛らしく着飾る。花やリボン、フリルやレースでいっぱいにする。
「ああ、もう可愛い。さすがあたしの娘。ね、ね、マリー。見てよ、ローズマリーったらお人形みたい」
 はしゃいだ声につられてローズの部屋に顔を出すと、興奮しきったローズの前にちょこんと恥ずかしげにローズマリーが座っていた。確かに、目を引くほど、美しい。
「ちょっとローズ。あんまり可愛くしないで。誰かにさらわれたらどうするの」
「大丈夫よお。いつも家まであたしのボディガードに送らせてるじゃない。ほら、マリーも来て。お化粧したげるから」
「いいわよ、わたしは。さ、ローズマリー、おいで。ローズもお支度があるからね」
 ローズマリーは椅子から降りて、わたしに駆け寄ってきた。きゅっと控えめにわたしの手を握り、にこりと笑顔を見せた。ローズマリーは大人しい子どもだ。きっとローズの口数が多いから、口を挟む暇もないのだろう。性格はわたしの方に似たようだ。ただ、ローズに着飾ってもらうのは嫌いではないようだった。びくびくと緊張してはいるけれど、こうして笑顔を見せるのは、やはり女の子、可愛い服や小物が好きなのだ。
「もう、マリーったら。せめて髪の毛下ろしてよね。きっちり結んじゃって、教師みたいよ。下ろせばローズマリーのお姉さんに見えなくもないわよ」
「何よ、言いたい放題言ってくれちゃって」
 ローズの部屋から出てこっそり悪態をつくと、繋いだ手の先が震えた。ローズマリーが笑っている。
「ママとローズ、楽しそうね」
 わたしは脚を曲げ、ローズマリーと視線を合わせた。菫色の夢見るような瞳が、わたしの目をじっと見つめる。
「ママは、ローズとあなたがいるから楽しいのよ」
 ローズマリーははにかみ、わたしの手を強く握った。
 普段の生活とは無縁の、きらびやかな夜の世界は、ローズマリーにとって全てが新鮮で興味深いようだ。はぐれないようローズマリーの手を強く握り締め、わたしたちはローズのショーを見ていた。相変わらずの美声と、美貌。うっとりするほど美しい。ローズマリーを横目で窺うと、目を見開いてローズを見ていた。まるで心の中に刻みつけるように、真剣な眼差しをしていた。途中、ローズがわたしたちに向かって投げキスをした。わたしたちはけらけらと笑い合い、ローズが作り出す空気に酔いしれた。
「楽しそうだなあ、チビ」
 ローズや他の同僚たちに囲まれ、それこそ人形のように可愛がられるローズマリーを見ていると、いつの間にか隣にバークレーさんが来ていた。
「普段は大人しい子なの。ここの雰囲気が楽しいみたい。サーカスみたいって言ってたもの」
「サーカスか。それはそれは」
 バークレーさんが苦笑した。子どもらしい、例えだと思った。本当は深い底知れぬ欲望や、汚らしい金が動いていることを知らない。それでも、ローズマリーの瞳に一夜限りの夢の舞台が繰り広げられているなら、いいのかもしれない。
「ローズも、女に生まれたかっただろうな」
 かろうじて聞き取れるくらいの小さな声で、バークレーさんはそう言った。
「子どもが女の子だって分かったとき、ローズ、大喜びしたのよ。自分が女に生まれてたら、子どもは絶対女の子が欲しかったんだって。ローズマリーのこと、とても可愛がっているの。自分が小さい頃、着ることができなかった可愛い服を着せたりね」
「あの子はどう見てるんだ、おまえたちのこと。ローズが男だってこと、知ってるのか」
「一緒にシャワー浴びてるもの。でも、あの子に一度だって聞かれたことないわ」
「学校で、色々言われてるそうじゃないか」
「あら、どうして知ってるの」
「こないだうちに来て泣きべそかいてた」
 ローズマリーが、バークレーさんに懐いていることは知っていた。恐らく、父親のように思っているのだろう。
「話、聞いてあげて。わたしたちに話しにくいことを、あなたになら話せるのかもしれない」
「うちは託児所じゃないぞ。ったく、あいつ、父親が欲しいんじゃないのか」
 わたしはバークレーさんの横顔を見た。彼の視線はローズとローズマリーに注がれ、眉間に皺が寄っていた。
「ローズのこと、パパって呼ばせてないじゃないか」
「ローズがそれ、嫌がるの。それはそうよね。だってローズは女なんだもの」
 今、わたしたち三人はとても楽しく暮らしている。父親がいなくても、困ることはまずないだろう。でも、ローズマリーが父親を欲しているのなら、もし何かが起きて家族ばらばらに暮らさなければならなくなったら、
「バークレーさん、あなたが父親代わりになってちょうだい」
 にこりと笑いかけると、バークレーさんは目を何度も瞬かせた。
「あら、お二人さん、いい雰囲気じゃない。でも駄目よ、バークレー。マリーはあたしのなんだから。手、出してみなさい。末代まで呪ってやるわ」
 ローズマリーの手を引いたローズが近付いてきて、バークレーさんに詰め寄った。バークレーさんはそっぽを向くような形で、その場を立ち去ろうとした。
「おじちゃん」
 しかし、ローズマリーの声が引き留めた。バークレーさんが振り向くと、ローズマリーが小さく手を振った。
「さよなら、おじちゃん」
「ああ」
 素っ気なくそう言うと、バークレーさんはカウンターの奥に引っ込んでしまった。
「バークレーのやつ、ローズマリーに惚れてるな。いい歳して独身だし、気をつけないと」
「そんなことないわよ。自分の娘みたいに思ってると思うわ」
「まあ、それならいいけど。さ、帰りましょ。今日も疲れたわ」
 ホテルには行かないの。喉まで出かかった言葉を、わたしは無理矢理飲み込んだ。先に歩き出したローズが、返事がないことをいぶかしんだのだろう。月夜のスポットライトを浴びながら、鮮やかに振り向いた。
「マリー。もっとさっさと歩いたらどう? 今日はもう上がりなの。三人で過ごすって決めたのよ。ほら、いらっしゃい」
 艶やかに笑って、また歩き始めたローズの後ろ姿が、ママの姿と重なった。ああ、ママ。わたしを置いて、夜に消えたママ。今、どこでどうしているの。わたしは幸せよ。幸せに、なったの。ねえ、ママ、私を捨てて、あなたは今、幸せ?
 この後ろ姿を、ずっと見ていたい。雲一つない月夜に、ヒールの音を響かせていたママの後ろ姿を見るのが好きだった。そして引き留めることもできないまま、永遠に取り残された小さな娘、マリー。わたしはローズマリーの手を強く握り締めると、ローズの後を追いかけた。

 何か、大事なことを忘れていたのか。それとも、気付かない振りをしていただけなのか。ある日、ローズは、朝方になってバークレーさんに抱えられるようにして帰ってきた。朝食の準備をしながら、電話でもしようか、それとももう少し待ってみようかと、心がざわついて落ち着かなかった。それくらい、遅い時間だった。
「珍しいわ。ローズがあんなになるまで飲むなんて」
 寝室に運んでもらい、眠り込んだのを確認したあと、わたしはそう呟いた。
「客とトラブルでもあったんだろ。酔いつぶれて道で倒れてたそうだ。あんた、注意して見てろよ。最近、酒の量がハンパない」
 そのとき、バークレーさんの視線がドアのところに向かったまま動かなくなった。
「おじちゃん、ローズ、どうしたの。大丈夫なの?」
 ネグリジェ姿のローズマリーが、物音に気付いて起きてきたらしかった。
「大丈夫よ、ローズマリー。そんなはしたない格好でお客さまに失礼よ。着替えてらっしゃい」
「はい、ママ」
 素直に返事をすると、ローズマリーは軽い足音を響かせながら自室に戻っていった。
「おれは帰るよ。ローズに、今日の仕事は休みだって伝えてくれ」
「ええ、ありがとう」
 玄関まで来ると、バークレーさんは振り向いた。憂いを隠し切れない様子で、茶色く優しげな瞳が真っ直ぐわたしを射抜く。
「何かあったら、頼ってくれ。必ずだぞ」
 それだけ言い残し、大股で去っていってしまった。
 わたしはローズの部屋に戻り、ベッドサイドに腰掛けた。ローズの金色の髪を指で梳くと、絡まり合うように指を締め付け、やがて離れる。静かな寝息を立てる顔は、いつもより幼く、弱々しく見えた。
「何があったの、ローズ」
 答えはない。きっと目が覚めてから問いかけても、はぐらかされるだけだろう。不安が、胸の中で大きく増殖し始める。不覚にもバークレーさんの言葉は逞しく、心強く感じてしまった。ローズにはない男の部分を、わたしは求めてしまっているのだろうか。ローズの肩に、わたしとローズマリーは重いのかもしれない。それはずっと感じていたことだった。
 妊娠してから、わたしは仕事を辞めた。でもローズは相変わらず、あのショーパブで自分を売っていた。わたしも働くから違うところを探せば、と何度も提案したけれど、ローズは頑として譲らなかった。
「お給料、いいんだもん。それにあたしを雇ってくれるところなんて、あんなとこばっかりよ」
 自嘲気味に笑って、ローズはわたしに口づける。わたしが不安そうな顔をしていると、必ずそうしてくれるのだ。
「平気よ。お遊び、ビジネスだもん。あたしも客も、そう割り切ってるの。本気になったりしないわ。あたしにはあんたとローズマリーがいるし。一人じゃないもん。頑張れるわ」
 たった一人、ローズを見ているわたしがいるのに、それだけでは足を洗う理由にはならないのだろうか。そう考えて、女として生きていくことの難しさを痛感する。わたしはローズを愛している。男でも、女でも、どちらでもいい。ローズという孤高の存在を愛している。けれどわたしではローズを守ることができない。わたしは女で、結局のところローズに甘えているのだ。誰か、ローズを愛してくれる男がいればいい。ローズが何の不安も感じないで暮らせるほど、とろとろに溶けるくらい甘やかしてくれるような男。
「ママ、哀しいの?」
わたしははっと我に返った。ローズマリーがわたしの顔を覗き込んで、泣き出しそうに顔を歪めていた。
「平気よ。ローズ、眠ってるから、そっとしておいてあげましょう」
 立ち上がり、ローズマリーの手を引いて部屋を出た。
 もし、ローズに男ができたら、わたしとローズマリーはどうなるのだ。ぞくりと背中に汗が流れた。肉体的には夫婦。精神的には女同士。わたしたちの行き着く先はどこなのだろう。夜の人工的な光に慣れきった目に、朝の清浄な光が突き刺さってくるようだった。
 それから一年も経たぬ間に、ローズはわたしたちの前から姿を消した。



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