我らが人に赦す如く
我らの罪を赦し給え
我らを試みに引き給わざれ
我らを悪より救い給え



 初夏の風に花壇の植物たちは気持ちよさそうにそよいでいる。
 神父さまや他のシスター、子どもたちと、ひとつひとつ植えていったのだ。それが今や年中花が咲き乱れ、道行く人々も立ち止まるほどの、美しい花壇になった。夕方、私は植物たちに話しかけながら水をまくことが日課になっていた。今日一日、皆が笑顔で過ごせたこと。太陽の光が遍く降り注ぐこと。全てに感謝を忘れない。
「シスター・マリア・ローザ。あなたが植物を慈しみ育てることで、我が修道院はいつも緑に満ち溢れ、美しいですね。主もお喜びです」
 後ろから声がして私は振り向いた。初老の神父さまがにこやかに花壇を見つめていた。
「神父さま、私にとって、主の教えはこの水そのものなのです。神の愛が、私に降り注いでいる、そう感じるときがあります。そのとき私は光と水をたくさん浴びた植物のように、心が満ちていくのが分かるのです」
「『私は葡萄の木で、あなた方は枝である』。シスター・マリア・ローザ。いつまでも信心深く、慈愛に溢れ、清らかなあなたでいてください」
「はい、神父さま」
 神父さまは柔和な笑みを残し、ゆっくりと修道院の中へ入っていかれた。いつも優しく、謙虚で、決して威張らず、教えを説く姿に、私の胸の奥に去来する嵐は止み、雲間から光が差し込むようだった。その柔らかな光に、私はどれほど救われたか分からない。神はいつも側に寄り添っている。その心を忘れずにいれば、いずれ豊かな実を結ぶのだ。
 植物の上に落ちた水滴が、鮮やかな橙色を映していた。そろそろ戻ろうと、ふと顔を上げた瞬間、一人の男性と視線がかち合った。修道院をぐるりと囲む鉄柵の外側から、植物を見ていく人たちはたくさんいた。けれど、この男性は私をじっと見つめてくる。目が合っても逸らそうとしなかった。
「こんにちは。明日も晴れそうですね」
 そう話しかけると、男性は険しい表情のまま何も話さず、その場を去ってしまった。修道院に用があったけれど、入ろうか入るまいか迷っていたのかもしれない。ぼんやりとだが、近いうちにもう一度、あの男性は現れるだろう。それは根拠のない確信だった。
 数日して、それはやはり当たった。告解室に、その男性がやって来たのだ。
「妻が、死にました。妻は深く自分を悔いていました。おれはその妻を一生支えると神に誓っておきながら、とうとう最後まで彼女を救うことができなかったのです」
 男性は言葉を切り、苦しげに拳を震わせた。
「妻には子どもが一人、いました。心底惚れた相手との子どもでした。しかし、その男は妻と子どもを置いて出ていきました。そして妻は、その子どもを捨て、おれと一緒になったんです。おれは妻の子どもの父親になるつもりでした。血が繋がっていなくても、愛していました。しかし妻は言うのです。あの子には母親は必要ない、と。おれはそんなことはないと言いました。子どもが親と暮らせないなんて、そんな不幸があっていいわけがない、と。そんな言い争いをしていると、いつも妻は泣き出して酒に走るのです。精神科の医師には、妻を刺激するようなことは言うなと言われ、おれは症状が治まるまで我慢をしていました。けれど妻は夜な夜な子どもの名を呼んで泣くのです。自分の罪は自分が一番分かっていたのです。そんな状態のまま十三年が経ち、妻はアルコール中毒で逝きました。最期まで、娘の名を呼んでいました」
 男性が、顔を上げた。格子の向こうから、優しげな瞳が私を射る。私の身体は雷に打たれたように跳ね上がった。
「シスター・マリア・ローザ……いえ、ローズマリー」
 私はその場から逃げ出した。息ができないほど、心臓が大きく動いていた。
「ローズマリー! ローズマリー!」
 後ろから、男性が叫んでいる。呪われた名を呼んでいる。私は部屋に駆け込むと、耳を塞ぎ目を閉じ、祈りの言葉を唱え続けた。

 夢を見ている。そうはっきり確信できるのは、私が幼い私を見ているからだ。金色の髪をきつく一つに纏め、灰色のワンピースに身を包み、聖母マリア像の前に跪いていた。夢見るような菫色の瞳は次第にアメジストのように硬く凍り付き、瞬きをした途端にばらばらと崩れ落ちるのではないかと危惧するほど、狩りをする獣のように聖母マリア像を見つめていた。張り詰めた横顔だった。何もかも飲み込もうと、必死に耐えている横顔だった。
「ママ」
 しかし唇がそう呟いた途端、幼い私の目から涙が溢れた。そしてその場にひれ伏すように、大声で泣いた。
 ママ、ママ、ママ。どうして私を置いて行ってしまったの。私が悪い子だから? だったらいい子にしてるから。だから迎えに来て、ママ。ここは暗くて冷たくて寂しいの。大好きなローズ。大好きなママ。私は強くなれないわ。
 目を覚ますと、顔に違和感があった。そっと頬に触れると、手がしっとりと濡れた。私は起き上がり、洗面を済ませると、修道服に身を包んだ。いつものように朝の祈りを済ませ、一日が始まろうとしていた。
「顔色が優れないようですね。体調が悪いのですか?」
 朝食に向かう途中、神父さまが私を呼び止めた。いえ、と私は首を振る。
「大丈夫ですわ、神父さま」
 神父さまを見上げると、美しい青い瞳が瞬きもせずに私を見つめていた。光も届かぬ場所に立ち尽くした私に、ランプを差し出してくれた方。共に行こうと導いてくれた方。青空のようなその瞳を見ていると、思わず涙が零れていた。
「シスター・マリア・ローザ」
「申し訳ございません。少し、頭を冷やして参ります」
 神父さまの視線を背中に感じながら、私は早足でその場を後にした。気がつくと、礼拝堂に続くドアの前まで来ていた。弾む息を押さえながら、扉を開け放った。すると、席に一人の男性が座っていた。頭を垂れて手を組み、一心に何かを祈っている。昨日の男性だった。私が一歩後退ったのと同時に、男性は立ち上がり、逃げ去ろうとする私の腕をつかんだ。
「離して。離してください。人を呼びますよ」
「ローズマリー、話を聞いてくれ」
「私はローズマリーではありません」
「なら、どうして泣くんだ」
 私は力を無くし、その場に座り込んでしまった。涙が修道服に黒い染みをいくつも作っていく。私は男性に支えられ、席に座った。
「よく似ている。ローズと、マリーに」
 男性は、バークレーさんは静かにそう呟いた。幼いころ、私は彼に懐いていた。無愛想だけれど優しくて、力強かった。
「今更何の用だと、思っただろう」
「母は、天に召されたのですね」
「一年前にな。ずっと、おまえのことを気にかけていた。苦しんでいた」
「それでは、なぜ……」
 迎えに来てくれなかったのか。その言葉を飲み込んだ。この十四年、何度その疑問にぶち当たったか分からない。その度に自分を宥めすかし、一心に祈った。迷いを、暗い思いを封じ込めるために。
「マリーは、おまえを愛していた。ローズだって」
「私だって、愛していました。誰よりも、あの二人のことを。私の世界の全てだったんですもの」
「あの夜、マリーはローズの服を着ておれの家にやって来た。美しかった。それまで、まるで世に擦れた感じがなかったからな。だけど、違ったんだ。マリーは、女だよ。それを表に出すことを拒んでいた。母親、ローズのことを憎んでいたから」
「ローズ?」
 思わず聞き返すと、バークレーさんは頷いた。
「おまえの父親……心は女だが、彼女の呼び名もローズ。マリーの母親もローズといったそうだ。そしてマリーは、幼いころに母親に捨てられ、愛した人にも捨てられた。二人のローズは男と蒸発したんだ。そしてマリーも……」
「私を捨て、あなたの元へ」
 自分の声が、酷く無機質に響いた。自分の声ではないようだった。憎しみは憎しみを生み、憎しみを増やしていく。
「ローズマリー。マリーのことを、憎んでいるだろう。おまえには辛い思いをさせてしまった。何度、おまえを迎えに来ようと思っただろう。でも、駄目だった。勇気がなかった。おまえに許されないだろうと思った。もしおまえが応じても、あんな状態のマリーの元へ、連れて行くことはできなかった。おれはマリーを愛していた。すまない、ローズマリー」
 バークレーさんは唸るように頭を抱え込み、身体を折り曲げた。彼の言っていることは、嘘ではなかった。心から悔い、許しを求めていた。私の心の中で、黒いものが所々に浮かび上がり、それらは吸収し合って瞬く間に巨大になった。ごうごうと、耳の奥で風が唸る。足下を、冷たい風が通り抜けていく。朝の光が翳り、礼拝堂は薄暗くなる。
「これは私たちの問題なのです」
 私の声に、バークレーさんは顔を上げた。悲痛に歪んだ顔に、涙が幾筋も流れ落ちる。
「私、知っていました。ローズが、父が、幼いころから虐められ、両親から見捨てられた過去を持つことも。お酒に酔い、譫言のように男性の名前を呼んでいたことも、失踪の数日前、電話口で誰かと愛を語らっていたことも。母は、父の変化を直感的に感じ取っていたかもしれませんが、気付かない振りをしていたのかもしれません。ローズは巧妙に隠し通していました。けれど私には、子どもには、微かな変化が分かってしまうのです。私を強く照らしていた光が揺らいだような、本能的なものでした。失踪の当日、父は私にこう言いました。『愛してる。誰よりもあんたたちを愛してる。それでもあたしは荒野だったのよ』と。そしてヒールの音を響かせながら、月に向かっていきました。私と母を、一度も振り返ることなく」
「荒野?」
「今なら、この言葉の意味が分かるような気がします。父も、母も、祖母も、そして私も皆荒野なのです。幼いころ、私たちは荒野に捨てられました。憎しみや哀しみは、捨てられた過去は、私たちを縛り続ける。荒野は、私たちを飲み込んでしまう。同じ過ちを、繰り返してしまう」
 今やっと、理解できた。憎しみは湧き出るのだ。幼いころの感情は、強烈な痛みを伴って身体に刻み込まれ、偶像と化した神を無意識下で追ってしまう。憎しみは愛にも成り代わる。
「ローズマリー、そんなことはない」
「いいえ、バークレーさん。子どもにとって、親は神なのです。私は両親を許しません。いいえ、許すことはできません。それでも、愛していることに、偽りはないのです」
 礼拝堂の清浄な空気が、光が、私を包み込む。この十四年、一心に祈り、心の中に棲む悪魔を押し止めていた。しかし、無駄なのだ。荒野は分厚い雲に覆われて、光を通さない。青空も、星空も、見えない。私は荒野の中を、歩き続けることしかできない。
「ローズマリー、許してはいけない。その燃えるような愛を、許してはいけない」
 バークレーさんは小さな声で、しかし力強くそう言った。
「私も罪人です。父が出ていくことを知っていながら、母に話さなかった。父を信じていたのです。愛しているから。けれど私の愛は届かなかった。これを知ったら、母も私を許さなかったでしょう」
 私は立ち上がった。涙はもう枯れ果てていた。
「おれと暮らさないか」
 私はバークレーさんを見下ろした。真剣な眼差しが、痛いほど私を貫く。
「おれは、マリーに言われていたんだ。おまえたちがまだ三人でいたころ。何かあったら父親代わりになってほしいと」
「そうやって、罪を償っているおつもりですか」
 バークレーさんの顔が、見る見るうちに歪んでいった。冷たい言葉だった。私からこんな言葉が出てくるなんて、知らなかった。
「私は誰にも救いを求めることはしません。あなたも、もう私たちのことは忘れてください。不幸な女たちだと、笑ってください」
 私はその場を後にした。私にはもうきっと、教えを説くことなどできないのだ。今までの修道院での生活が霞んでいく。神父さまの青い目が遠くなる。この愛からは逃れられない。

 その日は、月が美しい夜だった。
 私はベッドの上に立ち、髪を解いた。よく近所の子どもたちから虐められ、ママとローズからは賞賛された美しい姿。二人に似ているのなら、きっと祖母にも似ているのだろう。瞼を閉じてみる。真っ赤なルージュや薄手のドレスが、かつてローズが働いていたショーパブでのひとときが、瞼の裏に描かれる。サーカスのような、夜の遊園地のような、どぎついほどに色彩が溢れていた。人工的な光が、荒野を照らしていた。朝が来れば幻となって消え去るのだとしても、その光は優しかった。この重苦しい修道院は、私を、愛を、閉じ込めておくことはできなかった。私の中の荒野は、母たちを憎みながら、母たちの影を追っている。行かなければ。行かなければ。
 私は窓を開けた。夜気が私の身体を包み込み、どこからかばらの香りを運んできた。雲一つ無い夜空に、恐ろしいほど巨大な月が掛かっている。まるで臨月の女の腹のようだ。私もいつか、娘を生むだろうか。ママのママがママを生んだように、ママとローズが私を生んだように。私は窓枠に足を掛け、飛んだ。
 荒野へ!


<fin>



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