「身軽だなあ、拓海のやつ」
「昔からああだったよ。昔は静流の部屋に、屋根伝って行ってたし」
 あたしと晶はベランダに出て、上を見上げていた。拓海が三階のあたしの部屋のベランダに辿り着き、次は静流のところに上ろうとしていた。
「いいの、あんな不法侵入させて」
「いいんじゃない。ラプンツェルみたいで」
 髪の毛は下まで垂らせないけれど。王子はラプンツェルのところへ、高い塔を登って会いに行く。現実のおとぎ話だ。
 やがて静流の部屋のベランダに辿り着き、拓海は窓硝子をノックしたようだった。静流は、カーテンを開けるだろうか。それとも、風だと思って無視するだろうか。次の瞬間、甲高い叫び声が二階のあたしたちの耳にも届いた。晶と顔を見合わせたと同じくらいのタイミングで、ドアが激しく叩かれ始めた。あたしと晶はベランダを出て、急いで玄関を開け放った。
「アキちゃん、今ね、今ね」
 ガタガタと震えた静流が、晶に抱きつかんばかりの勢いで入ってきた。
「拓海が……いたの。ベランダのとこ」
 あれ、呼び捨てなんだ。あたしや晶のことはちゃん付けしてるのに。ふと思って、あたしは分かってしまった。静流にとって、拓海は唯一の人なのだ。
「帰ってきたんだよ。静流に会いに」
 静流は大きな目に薄っすら涙を浮かべながら、必死な様子で晶にしがみ付く。
「アキちゃん、会ったの」
「うん。おれは、許したよ」
 静流は晶が穏やかに笑っていることに、少なからず驚いているようだった。晶の後ろのあたしに視線をよこす。
「杏ちゃんも、会ったの?」
「会ったよ。変な意味じゃなくて、あたし、あの人好きだな。自由で、パワーに満ち溢れてて」
 そしてあたしに大丈夫だと言ってくれた。店長と同じように。
「いつの間に、そんな、帰ってきてたの。知らなかったよ」
「気持ちの整理がつくまで、会わない方がいいよ。おれみたいに許さなくてもいい。あいつ、静流に酷いことしたから。静流に任せるよ。会うも会わないも。許すも許さないも」
「アキちゃん、あたし、どうしよう。怖いよ。飲み込まれちゃう」
 静流の頭の中は分からない。けれど、混乱していることだけは確かだった。思い出すのも痛かっただろう、拓海と過ごした過去。忘れようと思ったのかもしれない。でも、拓海は目の前に現れた。時計が、動こうとしている。
「ねえ、静流。今日、あんたんち泊まっていい?」
 静流はぱっと顔を上げた。
「あんたに、聞いて欲しいことがあるんだ。あたし自身のこと」
 ちょうどいい機会かもしれない。本当は、ずっと誰かに話を聞いてもらいたかった。あたし自身の罪について。カラカラに乾ききって、何に対しても淡白なあたし。でも昔は、今より少しだけまともに生きていた。ねえ、あたしも、時間を進めたいよ。

 静流のところに泊まるために、あたしは一旦、部屋に戻って歯ブラシやら下着やらをバッグに詰め込んだ。
「静流、怒ってた?」
 ベランダから顔を出し、拓海が不安そうにそう尋ねた。
「怒ってないよ。ただ、突然のことでビックリしてるだけ。あんたの方が、静流の性格よく分かってるでしょ。気持ちの整理、つけさせてやんなよ。あ、言っとくけど、あたしは今、静流を説得しに行くんじゃないからね」
 立ち上がり、拓海と向き合う。目が合って、どちらともなく笑い合った。
「分かってる。なあ、おれ、おまえのこと好きだな。晶や静流とおんなじくらい」
「そりゃどうも。あたしもあんたのこと嫌いじゃないよ」
 あたしは拓海に背を向けて、ミュールを突っかけてドアノブに手をかけた。
「がんばれよ」
 そっと、囁くような優しい声が追いかけてきて、あたしは背中を押されるように外に出た。
 静流は部屋の真ん中で、体育座りをしていた。仕事中だったのだろう。部屋の中は乱雑で、夜の匂いが立ち込めていた。パレットは群青色。画用紙も群青色。纏わりつくような、孤独の色。あたしが来たことに気付くと、強張っていた表情が少し緩む。頬が赤い。
「また熱上がってきたんじゃない? 夏風邪ってこじらすと長引くんだよね」
 あたしはベッドのサイドテーブルの上にあった冷却剤を、静流の額に貼った。静流は安心したように息を吐く。
「気持ちいい」
「薬、飲む?」
 飲まない、と首を振って、静流は小さいポットからマグカップに紅茶を注ぎ入れた。湯気といっしょにいい香りが立ち上る。夏に熱い紅茶なんてあべこべだけど、今日の静流の部屋は寒いくらいだった。まだ風邪が完全に治っていないくせに、クーラーかけすぎだ。でも、熱い紅茶を飲むと、身体の芯がじわりと熱を帯びるのが分かる。
「拓海、怒ってた?」
 あたしは首を横に振った。
「あいつもさっき、同じこと聞いてきた。大丈夫、怒ってないよ」
 静流はマグカップを両手で包み込むようにして紅茶を飲んだ。伏せられた長い睫毛が震えてる。頬がますます赤くなる。
「平気な顔で何でもできて、気ままな猫みたいに自分の道を進んでて。洞察力があって、そのときの気持ちにぴったり嵌る言葉を言ってくれたりする」
 あたしはうん、と頷いた。
「大らかで、優しくて、太陽みたいな人だった。神さまに愛されているんだって、思ってた。あたしは何の取り柄もない無力な子どもだったから、拓海の光に引っ張られていくようだったよ」
 ぐいぐいと、光の中へ。きっと幽霊の少女が出会った、金色の少年のように。
「あたし、ほんとに取り柄がなくてね。一人ぼっちのときには泣きたくなるの。そんなときは物語の世界に逃げ込んで、絵を描いて紛らわしてた。好きだなんて一度も思ったことなかったけど、ある日、拓海が好きって言ってくれたの。おれにはできないこと、静流はできてすごいなって。そのときあたしは、一番を掴んだんだね。絵や物語を認められたことで、あたし自身まで認められたような気がしたよ」
「それで、絵本作家になったんだ」
「拓海のお陰だよ」
「晶もそう言ってた」
「拓海とアキちゃんは、本当に仲が良かったよ。拓海はアキちゃんが料理するようになってからも、キッチンに立つことを止めなかったの。負けず嫌いな性格を理解してたんだろうね。アキちゃんはどんどん上達していった。二人でキッチンに立って料理してたとき、楽しそうだったよ」
 静流はふふっと笑った。ああ、良かった。落ち着いてきたみたいだ。
「あたしの絵本が出版されることになったときね。拓海もアキちゃんも、すごく喜んでくれて。当時、拓海は国立大の四年生。色んな会社から内定をもらってて、あとは無事に卒業するだけだったの。でも、拓海はその内定を全部断って、大学に休学届を出して、あたしとアキちゃんの前からいなくなっちゃった。それが三年前の話。アキちゃんは中学一年生。あたしは高校二年生のときだった」
 約束された未来を蹴飛ばして、青い鳥を探しに行くと、言い残して。太陽は消え、残された二人を夜が覆ったのだろう。まるでこの、部屋中に広がる群青色のような。
「拓海が姿を眩ましたあとも、光の粒はあたしとアキちゃんの中に残ってた。だからあたしはずっと、絵本を描き続けてたの。どこかで、見てくれてるかもしれないって思って」
 拓海はきっと、静流の絵本を読んでいただろう。そして静流の孤独を誰よりも深く感じただろう。でも、戻ることは許されなかった。自分が何かを成し遂げるまで。胸を張って、静流や晶の前に戻ることができるまで。
「拓海にはたくさんの可能性がありすぎた。どれもこれも均等にこなすことができたから、一つを選び取ることが難しかったんだと思う。他の人の心は分かるのに、自分の心は分からなかったんだね。それが苦しかったのかなって、最近思うようになったの。その当時は全然そんなこと思い浮かばなかったけど、離れてみて、記憶の中にある拓海のことを思い返すと、いつも自分より人の幸せを優先してたような気がして。拓海に集まっていた光の粒を、あたしやアキちゃんや他の人たちが一つずつ取ってしまって、与えるばかりでもらうことがなかった拓海は真っ暗になっちゃって、紛れるように夜に逃げ込んだんだね」
 静流はゆっくりと瞬きをした。全て、分かっているんだ。これだけの答えを導き出すまで、静流はどれだけの夜を過ごしたのだろう。
「自分の気持ち、正直に言ってくれればよかったのに。過去は変えられないけど、何かしてあげられたのにって、最近思うの。気付かなかった自分自身が情けないよ」
「でも、静流。いくら後悔しても過去は変えられないよね。拓海がしたことは、あんたをさんざん苦しめた。晶は反発してんのかな、堅実な道を歩こうとしてる」
 静流は遠い目をして頷いた。
「過去は変えられない。過ぎてしまったものは戻らないし、時間は残酷に流れてく。気持ちはいつだってあのときに戻れるのに」
 そういう答えが返ってくることは、理解していた。静流の絵本は変えたくても変えられない、どうしようもない成り行き、運命の分かれ道や歯車。そういったことが根底に流れているような気がしていたから。あたしはふっと笑みがもれた。そうだよ、いくら過去に思いを馳せたって、後悔があったって、今もがいたところでどうしようもない。分かっているはずなのに、それでもあたしの中の時計は過去と現在を行ったりきたり。瞬間瞬間にいるのは、三つ編みの女の子。
「あたしさ、幸せになって、って、言ってあげられなかった」
 静流がふっと顔を上げて、何かに気付いたように静かな声で頷いた。
 一番の親友だった。整った顔立ちの、清楚な子だった。高校の入学式に向かう途中、一目見たときから、惹かれてしまった。青い空と滲むような桜並木。三つ編みの女の子が、あたしを振り向いた、その瞬間に。
「好きだったんだね」
「うん」
 恋愛感情でも、友情でもなかった。ただただあの子の出す空気に、憧れた。華やかで、自分を持っていて、女の子らしくて。あたしにないものを全て持っていた。
「男に囲まれて育ったから、あたし、全然女らしくなくて。友達も男ばっかりで、まともに女の子と接したことなくて。普通の女の子と違うとこ、少し劣等感抱いてた。でもその子、さくらは、あたしとは正反対の女の子なのに不思議と気が合って。高校、家から近いからって理由で女子高選んじゃったから、女だらけの中でやっていけるのか心配だったんだけど、あたしたちは生き別れた双子みたいにすぐ打ち解けた。女の子といることがこんなに楽しいなんて思わなかったよ。さくらの笑顔とか、柔らかい雰囲気とか、そういうの、眺めてるだけで楽しかったんだ。今思うと、人形遊びに夢中になる女の子みたいだね。さくらはあたしの理想だった」
 初めて、女の子という生き物に触れたのだ。ふわふわと、密やかに、甘く香るような。
「あたしのことは何でも話したし、さくらも何でも話してくれてた。そう思ってた。だから、さくらが……」
 言葉が、詰まった。喉の奥に何かがつかえている。苦しい。どうしよう。叫び出したいのに声が出なくて、小さなバッグ一つ持って家を飛び出した、あの朝に似ている。星のきらめき。浅い春。桜の花の薄暗い影がざわりと動いて、あたしを捕まえようと追ってくる。逃げるな、受け入れろ。女は一人では生きていけない生き物だ。
「杏ちゃん、だいじょうぶよ。ゆっくり深呼吸してみて?」
 いつの間にか、あたしの頬は濡れていた。静流の左手があたしの右手をぎゅっと握り締めていて、右手はあたしの頬の涙を拭った。小さな手。熱い指先。美しい作品を描き出す、魔法の手。あたしは静流の体温を感じながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。戻ってくることができた。静流の存在が、あたしを支えてくれている。
「子どもができたって聞かされたとき、あたし、さくらを軽蔑したんだ」
 あたしの手を掴む静流の手が、ぎゅっと強くなる。頬を流れた涙が、顎を伝って下に落ちる。
「恋人がいるなんて、知らなかった。あたしたちは男の子の話なんて、ましてや恋の話なんてしなかった。それにあたしたち、毎日いっしょにいたんだよ」
 それなのに、どうして。さくらはあたしに見せている顔とは別に、男に会ってどんな顔をしていたんだろう。そう考えただけで吐き気がした。『どうしよう、杏子。怖いの』そう言ってあたしに縋ったさくら。そうやって、男にも抱きついたくせに。
「汚い。あたしはそう言った」
 さくらの顔は、見る見るうちに強張った。色を無くしていく、瞳。そして、そうだね、と呟いた。
「さくらは高校を退学して、結婚した。あたしは人が信じられなくなって、怖くなって、さくらと過ごした日々全て、裏切られたように感じた。あたしは空っぽになったんだ」
 どんどん、淡白に。女の汚い部分を自分の中に見ないように、女の自分を出さないように、肩まであった髪をばっさり切った。劣等感はなくなって、ありのままのあたしでいることにもう違和感はなかった。
 高校を卒業してからは、逃げるように家を飛び出して、住む場所も仕事も転々として暮らしてきた。人との関わり合いはなるべくあっさりと、一線を引いて。やりたいことも、熱くなるようなこともなかった。何かに執着することを忘れた。物事は全て、あたしの肌をするりと通り抜けて何も残さない。風のように空っぽな胸を揺らして。高校時代のあたしを知らない人たちの中で暮らすのは、気持ちが落ち着いた。もう一生、あの名前を聞くことはないだろう。そう思っていたのに。
「さくら、幸せになったんじゃなかったの。あたしたちの時間を、高校時代を捨ててまで、いっしょになったくせに」
 離婚。そんな言葉を聞くくらいなら、どうして迷うあの子の背中を押してあげなかったんだろう。幸せになって。その一言が彼女に与える力を、あたしは知らなかった。あまりにも子どもだった。あのときのさくらの表情が、消えない。
「自分自身が、嫌になる。本当に好きなら、どうして、幸せを願ってあげられなかったんだろ」
 酷い言葉が、あたし自身を苛む。汚い。新しい命が、さくらのお腹の中に宿っていたというのに。
「杏ちゃん、今、辛い? あたしや、アキちゃん、店長さん、拓海。あたしは、杏ちゃんが引っ越してきてくれて嬉しかったよ。自由気ままで、自分を貫いてて、でもちょっとだけ寂しそうで、人一倍、きれいな目をしてた。拓海とおんなじ目」
 静流はそう言ってあたしの目を覗き込んだ。静流の目の色は薄くて、人形みたいだった。でも彼女は生きている。立ち上がっている。すっくと、自分のできることで前を見据えている。でも、あたしは空っぽ。人と深く付き合うことを、恐れてる。逃げて、逃げて、影がやってきたらまた逃げて。成長しないままの子ども。それでも、静流はあたしが引いた一線を軽々と越えてきた。無邪気さで孤独を隠して、あたしの手を取った。
「だいじょうぶ。人は、強いの。生きていける。一人でも、ほら、立ち上がれる。あたしは。あたしたちは。みんな、杏ちゃんが好きよ」
 静流の大きな目から、涙が一筋流れた。それは後から後から溢れて、くっきりと筋を残す。きっと、静流もずっと泣けなかったに違いない。いや、泣かなかったのだ。真っ暗闇の拓海のことを思えば、静流は光の粒を、願いを、手にしていたのだから。
「強いなあ、静流は」
 あたしは笑おうとして、失敗した。涙が止まらない。まるで過去のあたしが泣いているみたいに。そう言えば、ここ何年も泣いてない気がする。そう、さくらのことがあってから。じゃあ、この涙は? そうか、涙さえカラカラに干上がっていたんだ。荒涼とした胸の中。たった一人で歩き続けるあたし。その途中で、良く似たものと出会った。
「静流の絵本、あたし、好き。他に好きって言えるものなんてないけど、あんたの絵本に……あんたに、出会えてよかった」
 ぽっかり空いた、あたしの胸。その空洞に静流の物語はぴったり収まる。パズルのピースを嵌めるみたいに、あたしのどうしようもないもどかしさが、一瞬埋まる。ここにも寂しい人がいた。そう思えた。
「ありがと、杏ちゃん。大好き」
 静流の細い腕が、あたしを包んだ。あたしも華奢で折れそうな身体を抱き締める。群青色が匂い立つ。ああ、この匂いは、あたしからもしている。
「幸せになって」
 あたしの親友、さくら。そして、静流。どうか、どうか。一人ぼっちの女の子たちに。祈りを込めて言ってみた。
「杏ちゃんもね」
 あたしたちはひとりぼっち。この世界の夜に名の知れた、孤独な女の子。でも今日は、今日だけは、ふたりぼっち。さあ群青の夜に、星屑を散らそう。
 過去と現在がゆるく絡み合って、一つに溶けて流れていくのを感じた。



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