卵のいい匂いで、眠りから覚めた。薄いカーテンから朝の透明な日差しが部屋に差し込んで眩しいくらいだった。もうちょっと厚めのカーテンが欲しい。ああでも、どうせすぐ出て行くかもしれないしな。何度か瞬きをして身体を起こすと、キッチンに長身の見慣れない男が立っていてぎょっとした。でもすぐに昨日のことを思い出して、急に飛び上がった心臓を労わるように深呼吸をした。
「おはよ、杏子」
 拓海がキッチンから顔を出してそう言った。
「おはよ」
 昨日はベランダに鍵をかけようと思ったけど、微妙に可哀相だから免除してやった。何かあれば晶に言ってやる、と脅したけど、そんなこと言わなくても身の危険がないのは明白だった。最初、あたしのこと男か女か見分けつかなかったくらいだから。
「ほら、杏子。メシ食おう、メシ」
 まだ頭がぼんやりして、目を擦っていると、拓海がそう言って朝食を運んできた。トーストに、オムレツに、サラダ。いい匂いが鼻腔をくすぐって、お腹が鳴る。
「作ってくれたの」
「泊めてもらったしな。ま、数日世話になりますってことで」
 えーっ、という非難の声を無視して、拓海はまだベッドでぐずぐずしているあたしより一足早く、手を合わせていただきますと言ってから食べ始めた。あ、静流や晶といっしょだ。あたしはもぞもぞと起き上がり、同じようにしてから食べ初める。
「おいしい。ふわふわ」
 オムレツを一口食べて、思わずそう呟いていた。卵がビックリするくらいふわっとしていて、口の中で綿飴みたいに溶けていく。
「溶き卵にコーヒーに入れるクリームあるだろ? あれ混ぜるとふわっとすんだよ」
「へえ」
 箸で卵をつまんで、まじまじと見てみる。料理って、科学実験みたい。突然、拓海が笑い出した。なに、と言うと、ふっと遠い目をする。
「昔の晶、見てるみたいだったから。あいつ、料理上手だろ」
「うん。いつもお零れもらってる」
「料理って、想像力いるよな。あとチャレンジ精神。あいつ、すごいよ」
「でも、負けないくらいあんたも上手だよ」
「ダメだよ、おれは。そんなに好きってわけでもないし。晶は、本物だよ」
「晶のこと、好きなんだね」
 あんまり優しい顔で言うものだから、ちょっと可哀相になった。理由は分からないけれど、晶は拓海のことを嫌ってるみたいだからだ。
「かわいい弟だもん」
「静流は? あんたも幼馴染?」
 質問を遮るように、拓海はごちそうさまでした、と食器を持って立ち上がった。まあ、言いたくないことだってあるだろう。あたしは気にせずにトーストを口いっぱいにほお張った。
「目標、かな」
 トーストが喉につまって、それ以上問いかけることができなかった。
 拓海はあたしがバイトに向かうころ、ふらりと姿を消した。一体、何をしてる人なんだろう? 見た目、二十代半ばくらいなのに、働いている様子もない。住所不定無職というやつだろうか。何か、厄介な人に懐かれてしまったな。でも、人には言えない事情があるのかもしれないから、あたしは詮索することはしない。あたしがされて嫌だなあと思うことは、人にもしないから、きっと淡白な人だと思われているに違いない。あたしは人の事情に首を突っ込まないし、自分のことも必要以上話さない。だって、どうせあたしは長く当てもない放浪生活をしている。ここもいずれ、出て行くのだ。多分、そう遠くない未来に。
「杏子さん、注文していた本、届きましたよ」
 休憩時間、事務所で晶特製のサンドイッチを食べていると、店長が絵本を数冊持ってやって来た。あたしはお礼を言って受け取る。
「好きな作家さんができてよかったですね」
「ああ、まあ、うん」
「杏子さん、好きなものって無さそうだったから」
「え?」
 きれいな装丁にぼんやり見とれていて、思わず聞き逃しそうになった。顔を上げて、店長を見る。
「ああ、気分を悪くしたらすみません。僕の勝手な想像です」
 口が滑った、とでも言うように、店長は頭をかいた。あたしはその姿をぼうっと眺めて、何で分かったんだろう、と思った。あたしの中身が、空っぽなこと。
「えーと、いいよ。本当のことだし」
「でも、静流さんの作品には惹かれてるんでしょう? 好きって、心から言えるでしょう?」
 だから、大丈夫ですよ。店長はそう言い残して、事務所を出て行った。

 今読んでいる絵本は、双子の兄弟が主人公だった。顔がそっくりな二人は、いつでもどこでも何をするときもいっしょだった。同じものを見て、同じように感じていた。でもある日、弟は気付いてしまう。兄に嫌われないように無理をして合わせて、ぴったりと影のように寄り添っているだけの自分自身の、寂しさに。兄は言う。ぼくたちはいっしょに生まれてきたんだから、死んじゃうときもいっしょさ。そうだね、ぼくたちは二人で一人だもの。弟は得意の演技で嘘を吐く。そんなこと、あるはずないのに。ぼくたちの魂は別々なのに。どうして同じ顔に生まれてしまったんだろう。ある日、いつものように二人で遊んでいると、兄が町外れの森に遊びに行こうと提案した。弟は家でゆっくりしたいと思いながらも、笑顔でそれに応じた。兄が先に家を飛び出し、続けて弟も走り出したそのとき、彼は向こうから速い速度で馬車がやってくるのに気付いた。兄は気付いていない。止めなくては。でも、声がでない。心の中のもう一人の自分が喉を締め上げる。死ぬときまでいっしょなんて、ごめんだ! 兄は死んでしまった。一人だけ、天使のままで。成長した弟は、ピエロとなってサーカスで喝采を浴びる日々を送っていた。夢のような一幕。弟の道化に喜ぶ人々を見ていると、不思議と安心できるのだった。公演が終わり、化粧を落とすと、鏡の中のもう一人の自分が囁く。僕は死んじゃいないよ。弟は驚愕する。おいらは一人だ! いいや、二人さ。だって僕たち、いっしょに生まれてきたんだから。弟は死ぬまで、二つの顔を演じ分けながら生きた。
 拓海は夜七時ごろ、ひっそりと帰ってきた。あたしは静流の本をそこら中に積み上げて、一人静かな世界に浸っていたところだった。
「お、静流の本。なに、杏子、好きなの」
 こんなに買い漁っておいて、好きじゃないなんて強がってもバカみたいだから、あたしはうん、と言った。
「おれも好き」
 笑顔でそう言ったけれど、あたしの手元を覗き込んだ拓海の表情が少し固くなった。あたしはピエロとして生きた弟について、飽きもせず何度も読み返していたのだ。
「これ、哀しいし、ちょっと怖い話だよな」
「でも、分かる気がする。弟は兄みたいになりたかったんだよ、多分」
 天真爛漫な天使に。誰よりも愛していて、誰よりも憎んでいた、たった一人の片割れ。
「おれのこと憎んでるんだと思う。黙って家を出たからな」
 話が突然飛躍して、あたしは何のことを言っているのか分からなかった。
「おれだって、羨ましかったんだよ。青い鳥を捕まえた静流や、晶のことがさ」
 晶? 静流? 青い鳥? あたしの混乱を読み取ったのか、拓海は唇だけで笑った。
「杏子の一番は何?」
「え?」
 肌がざわりと粟立った。頭が真っ白になって、ただ拓海の目が静かに黒い。その目が笑う。
「おまえはまだ、旅人なんだな」
 でも大丈夫だからな。拓海はそう続けた。

 ノックをすると、すぐにドアが開いた。その顔があたしを見て驚いたように目を見開いた。
「どうしたんだよ。こんな時間に」
「ごめん、ちょっと話したいことがあるんだ」
 少し考えるような間があったけれど、晶はぶっきらぼうに仕方ないな、と言ってあたしを部屋に招き入れてくれた。こんな時間まで勉強をしていたようで、机の上はノートや参考書や辞書が広げっ放しになっていた。晶はそれを片付けて、ご丁寧にミントの葉をのせた手作りアイスクリームを出してくれた。あたしはそれを少しずつ舐めた。昔、家族と真夏の縁側で食べたアイスクリームと同じ味がする。木のへらの味まで思い出す。父さんや母さんは、あたしのことを心配しているのかな。ふと、思う。
「一体、何の用だよ。おれだって暇じゃない」
 口ではそう言いつつも、何かを察知しているのかもしれない。ピリピリとした空気が流れ始めて、あたしは深呼吸をした。
「じゃあ、聞くよ。あたし、人のことに首突っ込むの好きじゃないんだけど、何で兄貴にあんなこと言ったの。帰れ、なんて」
 晶はあたしと目を合わせようとしなかった。視線を下に向けたまま、瞬きをする。あのときの拓海の表情は、諦めたように笑っていた。そう言われるのを分かっていて、わざとそうしたみたいに。
「またあいつと会ったの」
 その問い掛けに、あたしは頷いた。
「あたしの部屋のベランダに居候させてる」
「バカか、おまえ」
 年下におまえ呼ばわりされて、あたしはカチンときた。
「だってあいつ、あんたに会いに来たんだろ! あんたと、静流に。何で会って話してやんないんだよ。何があったかあたしは知らない。でも、話くらい聞いてやれよ」
 感情がぐるぐるとうねる。天使の兄とピエロの弟が頭の中を駆け回る。あたし、こんな熱い性格じゃなかったのに。冷静な部分がそう分析する。拓海と良く似た、でも幼い顔が、辛そうに歪んだ。
「あいつは静流を置いて姿を消した。何も言わずに、消えたんだ。三年前のちょうど今ごろだった」
 晶の目が遠く硝子のようになる。
「拓海は昔から自由奔放で、みんなから慕われて、何でも器用にこなすことができて。おかしなやつだ、あきれたやつだ。そう言う大人たちはかわいくてたまらないって顔で笑ってた。おれもそんな拓海に憧れてた一人で、いっしょになって色々やったけど、全然ダメだった。だだ一つだけ、共働きの両親に変わって料理することが多かった拓海の手伝いをし始めて、できることを見つけた。拓海の料理は奇天烈だけどおいしくて、おれはこれだけは負けたくないと思って夢中になった」
 開け放したままのベランダから夜の生暖かい空気がばらの匂いを運んできた。夜に濡れて、昼間より強く香る。
「静流は隣の家の娘で、おれたち三人は毎日のように遊んでた。拓海は歳が離れてたから、おれたちのこと可愛がってくれた。静流もおれみたいに拓海に憧れた。静流は昔から人より身体が小さくて弱くて、そのことがコンプレックスになってて、いつも自信がなさそうだった。静流の絵の才能や想像力に気付いたのは拓海で、小さな身体に大きな物語がつまっててすごいって何度も言ってた。拓海はいい加減そうに見えて、誰かの一番を見抜く目を持ってた」
 杏子の一番は? そう問いかけた拓海の、真っ黒で吸い込まれそうな目を思い出す。
「静流が拓海を好きになるのは、神さまが決めたことみたいに自然なことだったし、おれがどんどん明るくなっていった静流に惹かれていったのも自然なことだった。でもおれは静流の気持ちが何となく分かったから、拓海には適わないと思って身を引いた。拓海と静流は恋人でも家族でもなかったけど、すごく幸せそうだった。おれもそれで満足だった。高校生のとき、静流の作品が出版社の人の目に留まって絵本が出版されることになった。拓海もおれもすごく喜んだ。一番が本物になったって、拓海、自分のことみたいに喜んでたのに。あいつは突然おれに、『静流を頼む。青い鳥を探しに行く』って訳分かんないこと言って、どっかに行ってしまった。静流は哀しんだ。もちろん、おれだって。あれから三年間、音沙汰は一切なかったのに突然現れて、何が会いたかった、だよ。勝手にいなくなったくせに。身勝手すぎる」
 晶はぎゅっと手のひらを握り締めた。
「悩んでも悩んでも、拓海が何で静流を置いて行ったのか分からない。身勝手な大バカ野郎だ」
「ごめんな」
 突然割り込んできたその声に、あたしも晶もぎょっとしてベランダの方を向いた。まさか。ふと過ぎった予感が的中するのに時間はかからなかった。暗闇に紛れていた拓海がベランダから室内に入ってきた。
「あんた、何で」
「だって、杏子、いつの間にかいなくなってたし。そしたら下から晶と杏子の声が聞こえたから、思わず手すり乗り越えちゃってた」
 ハハハ、と軽く笑って、拓海は晶の部屋を見回した。
「静流のこと追っかけてこの春から一人暮らし始めたって聞いたけど、あーあー、何で参考書ばっかりなのかねえ。高校生だろ。もっと楽しいことあるだろうが」
 晶は何も反応しない。
「そう言えば、おまえもおれと同じ高校に入ったんだな。別に進学校だからって気負わなくていいんだぞ。おれなんか真面目に勉強しなくてもなんとかなったしさ。おまえには料理があるんだし、大学行ってダラダラ過ごさなくても、別に……」
「じゃあ、何で大学行ったんだよ」
 絞り出したような晶の声に、拓海はちょっと面食らったような顔をして、自嘲気味に笑った。
「何もなかったからだ」
「バカ言うな。おまえは何だって持ってただろ」
「この手につかんでたものなんて、全てまやかしだった」
「嘘だ。簡単に何でもできて、みんなに好かれて、ヘラヘラ笑って。おれがいくら努力したって、おまえにできたこと何一つ、満足にできなかった。静流だって……」
 振り向かせることが、できなかった。晶は言葉に詰まったけれど、あたしにはそう言いたかったんだと分かった。拓海はしゃがみ込んで、晶の頭をがしがしと撫でた。まるで犬にそうするみたいに。
「バカだなあ、おまえ」
「何すんだ!」
「おれには適わないって、さっき、おまえ言ってたよな。その言葉、そっくり返すよ」
 晶が訳の分からないものを見るように、拓海を見た。
「おれ、おまえには適わない。料理が好きだって気持ち」
 晶の目が見る見るうちに大きく見開かれる。
「おれは空っぽだった。一番を見つけたおまえや静流が、羨ましかった。だから逃げるように旅に出たんだ。空っぽを埋めるために」
 空っぽ。あたしの胸の奥で、コトリと何かが鳴る。何でも器用にこなせるのに、一番を見つけられなかった拓海。不器用で痛いくらいひたむきだけど、一番を見つけた晶。心の寂しい部分が叫んでた。誰かに伝えたくて。でも言葉にはできなくて。お互いがお互いを羨ましがっていたのに。
「で、埋まったの」
「だから帰ってきたんだっての」
 ぐずりと鼻を鳴らしてそっぽを向いた晶をからかって、拓海は懐かしそうに笑う。
「ただいま」
「……おかえり」
 止まっていた時計が、動き出す瞬間を見た。



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