3 『時計の針を戻そう。未来を変えてしまおう。王子さまの幸せな未来に、わたしはそぐわない』 静流の次の作品は、時間旅行をすることができる懐中時計を手に入れたお姫さまが、過去に行ったり未来に行ったりする話のようだ。乱雑な机の上に、鉛筆のラフ画が積み上げられている。 「杏ちゃん、準備できたよ。行こっか」 カンカン帽を被った静流は、久しぶりに外に出ることが嬉しいらしくて、くるっと一周バレリーナみたいに回って玄関に駆けていった。あたしは今日、バイトが休みだから、静流のお守を仰せつかった。騎士どのは模試だから、その代わりに買い出しに付き合うことになったのだ。となり町の画材屋に、絵の具を買いに行く。 駅に向かうにはバイト先の本屋の前を通らなければいけなくて、通り際にちらっと中をのぞいたら店長さんと目が合った。にっこり笑って手を振ってくる。 「店長さんだ。おーい! ほら、杏ちゃんも」 静流は知り合いでもないくせに大きく手を振り、あたしの手も取って振り出した。思いっきり恥ずかしい。あたしと店長は特別仲がいいわけじゃない。明日、どんな顔して会えばいいんだ。 「お顔真っ赤よ」 本屋の前を通り過ぎると、静流がそう言って笑った。 「誰のせいだと思ってんの!」 くすくす、と静流は跳ねるように走っていく。 電車に乗り、となり町にやって来ると、目的地の画材屋に向かった。静流は勝手知ったる様子で狭い店内を駆け回り、数十分後にはたくさんの絵の具やら筆やら見たこともない道具ををレジに持って行った。目的は終わったけれど、すぐ帰るのももったいない気がして、あたしたちは町を当てもなくぶらぶらと歩いた。静流は始終楽しそうで、あたしも何だか気分が良くて、いっしょに鼻歌を歌った。 喉が渇いたから、コーヒーショップに入った。店内は若い人たちで溢れ返っていたけれど、何とか空きスペースを見つけて腰を下ろした。 「おそろいのぬいぐるみ、お部屋に飾ってね。絶対ね」 帰ってから開ければいいのに、静流は待ちきれない様子で雑貨屋で買ったぬいぐるみを取り出した。静流が白と黒のうさぎで、あたしが茶色いうさぎ。晶にはお土産として灰色のうさぎを買ってきた。それにしても静流はどうして二体も買ったんだろう。でもそれ以上に、晶の反応が気になった。ぬいぐるみなんて絶対嫌がりそうだけど、静流が選んだもので、しかもおそろいだとしたら嬉々として部屋に飾るに決まってる。その姿を想像して、あたしは笑い出しそうになった。少年の純情を傷付けまいと、がんばって堪える。 「今度の絵本も、いい感じだね」 「あ、見たなあ。もう、ダメだよ。本になるの楽しみにしてて」 これから静流は一ページ一ページを丁寧に描いていく作業に入る。本屋に並ぶようになるまで、あと何ヶ月かかるんだろう。合間に児童書の挿絵やら、雑誌の特集のインタビューやら、色々忙しい。それまであたしはここにいるのかな、とふと考える。放浪の虫が騒ぎ出したら、あたしはまたそれに従わなければならないから。 「でもさ、絵本とか童話と言えばハッピーエンドでしょ。静流の作品は何でいつも哀しいラストなの? あたしは味があって好きだけど」 静流はストローから口を離して、一瞬、無表情になった。硝子の目玉がはめ込まれた人形みたいに、感情が読み取れない。あれ、怒らせた? でも一度瞬きをしたら、そこにはもういつものようにやんわりと微笑む静流がいた。 「白雪姫も、シンデレラも、いばら姫も、王子さまといっしょになったからって、それだけで幸せなのかな?」 あたしは驚いた。そんなこと、考えたこともなかった。子どものころは素直に感じていたけれど、もし続きが存在するとしたら? いつも幸せに笑って暮らすばかりでは、決してないはずだ。おとぎ話の世界に現実を照らし合わせるのもどうかと思うけど。 「王子がもしかしたらとんでもない暴力男かもしれないしね。そしたらハッピーエンドじゃなくてバッドエンドになるな」 バッドエンド。自分で言った言葉の意味を、もう一度深く考え始めた、そのときだった。 「あれ、橘さん?」 顔を上げると、二人の女の子があたしたちのテーブルを横切ろうとしているところだった。あたしはその女の子たちの顔をまじまじと見つめて、心臓が大きく跳ね上がった。 「やっぱりそうだ、橘さんだ。やだ、男の子かと思っちゃった」 「高校のときはもうちょっと髪長かったよね。肩くらいでさ。びっくりしたー、こんなとこで会うなんてねー」 金色に近い髪で、濃い化粧をして、大きな声でゲラゲラと笑う彼女たちは、あたしの高校時代の同級生だった。一瞬、誰だか分からなかったけれど、厚い化粧の奥にあのころの面影を宿している。 「元気だったー、橘さん。こないださ、うちのクラスで同窓会あったんだよ。橘さんも来ればよかったのに」 彼女たちはあいつは今どうしてる、こうしてる、と矢継ぎ早に近況を話し出した。そんな話、聞きたくない。誰がどこでどうしてようが、あたしには関係ない。 「橘さんは今、何してんの? この近所に住んでんの?」 「……そんなとこ」 声が、震えていないか心配だった。まさか、こんなところで過去のあたしを知る人物と会ってしまうなんて。明らかな侮蔑と嘲笑。それが彼女たちの間で漣のように広がっていく。ああ、嫌だ。どっか行けばいいのに。親しくもなかったのに気軽に声かけてくるな。早く、早く。そうしないと。 「あ、そう言えばさあ」 思い出してしまう。 「山本さくらって」 一番、嫌なこと。 「離婚するらしいよ」 カラン、とグラスの中で氷が溶けて揺れる。 「あれ、知らなかった? これ、確実な情報だよ。何かさ、旦那が酒飲むと暴力振るうんだって。んで、浮気とかもしちゃったらしくて」 何だ、それ。テーブルに置いた手が、カタカタ揺れるのを感じた。 「悲惨だよねー。子どもできたから退学したくせに、あっという間に離婚だよ。バカだよねー、早まっちゃってさ」 「ね、橘さん、慰めてやったら? あいつ、今度こそ橘さんのとこに来るかもよ?」 キャーハハ。彼女たちの声が、渦のように耳の中で螺旋を描いている。 静流はあの日から、体調を崩して寝込んでいる。晶には静流に無茶させたんだろ、とこっ酷く叱られて、ごめん、ごめん、と人形みたいに呟いていた気がする。 バイトが終わって、そう言えばポカリスエットを切らしていたことを思い出して、スーパーで買って帰ろうとした矢先、店長に呼び止められた。 「杏子さん、夏バテですか?」 「え、別に。至って元気だけど」 店長は眉をひそめた。いつもにこにこ笑っているのに、そんな顔をしたところを初めて見たから少し驚いた。 「この間、中学生くらいの女の子と店の前を通ったときは、元気そうだったんですけどね」 あの子、はたちなんだよ。あの絵本の作者なんだよ。そう言いそうになったけど、止めた。静流はきっとひっそりと創作活動をしたいのだと思い始めている。現実の汚いところは、彼女を蝕むから。 「何か悩みがあれば、言ってくださいね」 「あたし、仕事でミスした?」 「いいえ」 「じゃあ、何で」 あたし、何を言ってるんだろう。店長に何を言って欲しいんだろう。優しい言葉をかけてくれるからなんて、そんな甘ったれた理由であたしは店長を見ているわけじゃないのに。バイト先の上司。お金をくれる人。そう割り切っているはずなのに。 「嘘。ほんとに何でもない。じゃあ、お先します」 答えを待たずにできるだけ明るく言って、あたしは本屋を後にした。店長の淋しそうな顔が消えない。熱に浮かされる静流の苦しそうな顔も思い出す。さあ、早く帰ろう。あたしの痛みを引き受けた、あの子に会いに。 ポストに入った鍵を取り出して、静流の部屋のドアを開けた。合鍵は普段晶が持っているけど、あたしでも静流の看病ができるようにポストの中に入れておいてくれるようになった。部屋に入り、ベッドの天蓋を静かにめくってみる。静流はほっぺを林檎のように真っ赤にしながら眠っていた。額に手を当ててみると、まだちょっとだけ熱い。 「ごめんな」 嫌な話、聞かせて。 「杏……ちゃん……?」 大きな目が微かに開いて、あたしを見つけるとふわりと微笑んだ。 「ごめん、起こしたかな」 「だいじょうぶ」 「何か飲む? ポカリ買ってきたよ」 飲む、と弱々しく言ったから、あたしは買ってきたポカリスエットをグラスに注ぎ入れ、氷を二つ落とした。ストローを差して、静流のところに持って行く。 「夢を見たよ。小さいころの夢。楽しかったな。毎日が夢みたいだった」 まだ夢の中を散歩しているのかもしれない。いつも以上にぼんやりとした静流は、飲み終わるとまたぱたりと眠ってしまった。夢みたいな過去を包み込むように、胎児のように丸くなって。 あたしはそっと立ち上がり、部屋を出て螺旋階段に足をかけた。下がろうとして、ふと屋上に上がってみたくなった。小さな部屋で一人でいるのが、今日は何だか怖かった。下からの風に巻き上げられるようにして、あたしは初めて屋上に出てみる。短い髪を強い風がぐしゃぐしゃになぶって、思わず目を閉じた。風が治まったころ、そろそろと目を開けて、あたしは驚いた。屋上に、寝転がっている人がいたのだ。ジーンズにTシャツを着ていて、身体は細いけれど、多分男の人だろう。顔の上に帽子を置いて、側にはペットボトルの水とボストンバッグ。何だ、この人。不審者かな、どうしよう。あたしのそんな迷いを感じ取ったのか、その人がもぞりと動いた。 「誰?」 それはこっちが聞きたい。あたしが答えられないでいると、その人は帽子を取ってむくりと起き上がった。 「男? 女? おまえ」 だるそうに長めの髪をかき上げて、ややつり上がった目をあたしに向けた。仕草や身の置き方が、まるで猫みたいな男の人だった。細くてしなやかで気ままで、わがまま。 「男にしては貧弱だし、女にしては残念な身体だな。なあ、どっちなの」 「女だよ」 あんまりにもむかついて、あたしは思わずそう言ってしまった。一瞬の間があって、男の人はにこっと笑った。少年のような、無邪気な笑みだった。 「美人だ」 危ない人だ。一瞬のうちにあたしは後退さった。こんなとき、晶はまだ塾から帰ってこない。頼りないけど一応男だからいないよりはいいのに。それより警察に電話しなきゃ。あ、静流の部屋に鍵かけたっけ。 「そんなに警戒しないでよ。怪しくないから安心して。日向ぼっこしてただけだ」 十分怪しいよ。あたしは螺旋階段を降りようと、後ろを振り返った。 「なあ、静流、いる?」 びゅう、と生暖かい風が後ろから吹いてきた。恐る恐る男の人を見ると、立ち上がってあたしを見下ろしていた。背が高くて、少し猫背。風で揺れる黒い髪の中に、あたしはよく知った人の面影を見る。 「晶も、いるんだろ?」 前に晶の部屋で見た、写真の人だ。 「あいつら、元気にしてる?」 「……あんた、もしかして、晶の」 あれ、晶、おれの話したの。心外そうにそう言って、男の人は嬉しそうに微笑んだ。 「瀬川拓海。晶は、おれのかわいい弟」 そのとき、螺旋階段を上がってくる音が聞こえた。下を覗き込むと、階段の隙間から晶がちらちらと見えた。ちょうど塾から帰ってきたのだ。 「晶ー」 呼びかけると、足音が止まった。 「屋上に来い!」 迷ったような間があったけれど、やがて晶はくるくると螺旋階段を上ってきた。屋上に上がってきて、眩しそうに目を細めたあと、見開く。次の瞬間、拓海と名乗った自称兄が、晶に抱きついた。 「会いたかったー!」 感動の再会に立ち会ってしまった。拓海はまるで懐いた猫みたいにゴロゴロと晶に甘えていたけれど、晶の方は呆然と突っ立ったままだった。ビックリしてる、ビックリしてる。あたしは仕掛け人の気分で、内心ほくそ笑んだ。 「ちょっと見ない間に大きくなったなー。高校生だもんなー」 晶の頭を乱暴に撫でながら、拓海は本当に嬉しそうにそう言った。晶の目に、じわじわと現実が映り始める。次の瞬間。 「止めろ、気持ち悪い」 晶は兄を突き飛ばした。ぐらりと揺れて、拓海は口元に寂しい笑みを浮かべる。 「そう恥ずかしがるな。三年振りの再会だろ」 「今更、何の用だ。帰れ」 冷たくて、抑揚のない声だった。いつも冷たいけれど、それとも違う。もっと何か、奥の方で感情のうねりがある。晶の目は、硝子みたいだった。 「……ひでえなあ」 「杏子、行くぞ」 晶はあたしの手を引っ張って、螺旋階段を降りようとした。その手が、震えているのが伝わってくる。あたしは何が何だかさっぱり分からなくて、引っ張られながらも後ろを何度も振り返った。拓海は唇だけは笑ったまま、晶をじっと見つめている。 「静流は?」 少し沈んだ声音だった。あたしの腕を掴む晶の力が、一瞬、強くなる。 「会うわけないだろ。さっさとどっかに行っちまえ」 捨て台詞を吐いた晶に続いて、あたしは引っ張られるままに螺旋階段を降りた。 「おい、晶。兄貴、いいの」 「ほっとけ」 三階を過ぎ、なぜか二階の晶の部屋に連れてこられた。今の晶は、何か、怖い。逆らっちゃいけないオーラが出ていて、あたしは部屋に案内されたあともずっと黙っていた。晶はベランダの窓の前に立ちすくんだまま、動かない。 「あいつは、最低な男だ」 少ししてぽつりと、そう言った。 「絶対、静流に会わせるなよ。いいな」 あたしは黙ってこくこくと頷いた。何で、と聞きたかったけれど、それを許さない空気が流れていたからだ。ねえ、晶。何があったか知らないけど、兄弟でいがみ合うのは寂しいよ。心の中でそう話しかける。晶はぴくりとも動かずに、夕焼けを浴びている。 静流の調子が良かったから、久しぶりに三人で夕飯を食べた。晶はいつもの晶に戻っていて、ついさっき会った拓海の話はしなかったから、あたしもそうすることにした。 夕飯を食べ終わり、病人のところに長居をするのも迷惑な話だから、あたしは早々に静流の部屋から出た。早く、治って欲しい。静流の苦しそうな顔を見るのは、辛すぎた。きっと人一倍繊細で、脆い。だから晶は拓海に会わせようとしないのだろう。どうしてかは全く分からないけれど、晶の様子も尋常じゃなかったから、簡単に想像がつく。 みんな、色々抱えているんだ。あたしだけじゃなく。重い頭を振り払うようにして三階に下がっていって、あたしは叫び出しそうになった。あたしの部屋のドアの前で、若い男が丸くなって寝ていたのだ。 「ちょ、あんた、なに」 あたしがしどろもどろになっていると、男が目を覚ました。よく見ると、拓海だ。 「杏子。どこ行ってたんだよ」 「何で、あたしの名前」 「晶がそう呼んでた」 「いや、そんなことより。あんた、何してんの」 そのとき、上の階のドアが開く音がした。 「じゃあ、静流、仕事はほどほどにな。おやすみ」 晶の声の後に、今度は扉が閉まる音。階段を下がってくる。やばい。拓海がいることを知ったら、また一悶着起きそうな気がする。あたしは咄嗟に拓海の腕を引っ張って立たせ、部屋の中に押し込んだ。 「何してんの、杏子」 「え? 何でもない、何でもない。静流、風邪よくなったみたいで良かったね」 下がってきた晶は一瞬首をかしげたけれど、うん、と素直に頷いて、おやすみ、と自分の部屋に戻っていった。ドアが閉まったのを耳で確認して、あたしは自分の部屋に入る。真っ暗な部屋に突然突き飛ばされて、あの人は大丈夫だったかな。電気のスイッチを探して壁に手を這わせながら、あたしはそう考えてしまった自分に突っ込みを入れた。いやいや、何で心配しなきゃいけないんだ。よく分かんない人、部屋に上げちゃった。 電気をつけると、ちゃっかり部屋に入り込んで、真ん中で丸まっている拓海がいた。 「なに寝てんだ!」 あんまり自由なものだから、いくら温厚、と言うか他人に無頓着なあたしでもピキッときてしまった。近付いていって、上から見下ろすと、拓海は眩しそうに顔を歪めていた。 「うるさい。眩しい」 「あんた、何様? あたしに何の用?」 拓海はうーんと唸ったまま起き上がろうとしない。 「晶、呼ぶよ?」 すると、魔王の名前を聞いたかのようにぱちりと目を開いて、むくっと起き上がった。近くで見ると、やっぱり晶にそっくりだ。 「それだけは勘弁して」 上目遣いにそう言われて、あたしは溜息を吐いた。何か、捨て犬とか捨て猫とか、そんな雰囲気。 「分かったから。さっさと帰ってくれる?」 「何で?」 頭にハテナマークを浮かべられて、あたしはまたイライラがぶり返してきた。 「ここ、あたしんち」 「おれ、泊まるとこないんだ。泊めて」 いや、そんなにっこり微笑まれても! まるで会話のキャッチボールができていなくて、あたしはぐったりしてしまった。何、この人。変。 「掃除でも洗濯でも料理でも、何でも言いつけていいから。じゃ、そういうことで、シャワー借りていい?」 立ち上がってキッチンの方に歩き出した拓海の首根っこを、あたしはむんずと掴んだ。 「ちょっと待て。勝手に決めんな。晶んとこ行けよ」 「だーかーら、それができないから言ってんじゃん」 「あたしだってダメだよ。一応女だし、ここ、一部屋しかないんだから」 「心配すんな。おまえは女の魅力に欠ける」 「そういう問題じゃない!」 拓海はあたしを振り返り、視線をそのまた後ろにやった。 「じゃあ、ベランダでいい」 「え? ベランダ?」 「夏だしな。鍵あるし。死にゃあしないだろ。ダメ?」 拓海は悪びれる様子もなく、小さい子どもみたいに無邪気に笑った。なんて、変な人なんだろう。あたしは力が抜けていくのを感じた。呆れているはずなのに、腹筋が小刻みに揺れる。次第に我慢できなくなって、あたしは声を上げて笑った。 「ベランダ、狭いよ。汚いし」 「いいよ。丸まって寝るから。おれの特技、野宿」 あたしはまたふき出した。本当に、何なんだ、この人。 back? 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