夏が本格的に始まった。ドアが開くたび、外の暑い空気がもわっと入ってくるのが分かる。古いクーラーがどうにか設定気温を保とうと躍起になって、機械音がますますうるさくなる。店内はクラシックとか映画音楽とか、柔らかい感じの音楽が流れていて、あたしはレジで文庫本を読みながら過ごしていた。お客さんは少ないわけではないけれど、それほど多いわけでもない。けれど町で唯一の本屋だからか、文具も併設して置いてあるからか、様々な年代の人たちがやって来ては何かしら買っていく。
 今日はあまりお客さんの入りが良くなくて、あたしは文庫本を読むのにも飽きて立ち上がった。本棚を巡り、乱れた本をきれいに整える。所々に飛び出たポップが目を引いた。店長が書いたポップはやっぱり読んでみようかな、と思わせる何かがある。あたしも最近ポップを書き始めたのだけれど、ぴたっとした言葉が浮かばなくて、店長のものと比べるとぼんやりとした印象がある。それはあたしの謙遜でも何でもなくて、売り上げにもはっきりと表れているから、すごいな、と素直に思う。この本さっきも会計したな、と思うと、それは全部店長が書いたポップの本だったりする。あたしも一応売り上げに貢献しなきゃいけないから、最近は苦手な読書に励んでいる。眠くなるけど。
 やがて児童書や絵本のコーナーに差し掛かると、店長が新刊を並べていた。
「お疲れさまです」
「ああ、お疲れさまです、杏子さん」
 店長はあたしに気付くとにっこりと笑った。この人、笑った顔以外見たことないな。
「読書は順調ですか?」
 小さな棘が含まれた言葉に、あたしはむすっとしてしまったらしい。店長はくすくすと笑った。普段は優しいのに、ときどきちくりと毒を刺す。店長はそんな人だった。わざとやっていると分かるから、別に不快な気分にはならないけれど、こういう風に笑われると少しだけ悔しくなる。
「漫画にすればいいじゃないですか。無理して小説にしなくても」
「ダメ。だって安部さんのポップには勝てない」
 安部さんは文具の方を任されているのだけれど、無類の漫画好きとあってポップも一味違う。一言で言うなら熱い。普段は言葉少なで何を考えているのか分からないのに、そのギャップにはいつも驚かされる。
「今は何を読んでいるんです?」
 あたしは店長がポップで薦めていた本の名前をあげた。
「まずは手本となるものを読んで、研究しようかと」
 すると店長は腕を組んで考え込んでしまった。
「ねえ、杏子さん。本との出会いは人との出会いといっしょなんですよ」
「はあ」
 突然何を言い出すんだろう、この人は。あたしは気の抜けたような返答をしてしまった。
「ありませんか? この人と出会って自分の価値観ががらりと変わったような経験。本もそれといっしょです。何気なく手に取った本が、自分を変えてしまうことがある」
 店長は持っていた新刊を棚に置いた。それは大判の絵本だった。水彩画の、メルヘンチックな表紙。水色の、春の空のような背景に、桜色のワンピースを着た女の子が描かれている。あたしの中に、ざわっと木々が揺れたような風が通り抜けた。春の日、桜並木、揺れていた三つ編み、セーラー服。
「あったよ」
 おや、と店長があたしの顔を覗き込んだ。その瞬間、春の嵐は止んで、人工的な風が腕を冷やしていることに気付いた。いけない、しっかりしろ、杏子。
「この絵本、かわいい」
 はぐらかそうと思って、絵本を指差すと、店長の視線もそっちに向いた。
「杏子さんも女の子ですねえ」
「すいませんね。男みたいで」
 店長は何かを言いたげに含み笑うと、絵本を手に取り、あたしに差し出した。
「小説じゃなくて、この絵本のポップを書いてみたらどうですか?」
 あたしはそっとその絵本を受け取った。胸の辺りがむずむずして、背中がぞくりと震えた。あれ、何か変な気分。
「……いいかも」
 店長は満足げにゆったり微笑んだ。
「でしょう?」
 アパルトマンに帰って、ベッドに寝転がりながら絵本を開いてみた。タイトルは『湖色の少女』。きれいな絵に、きれいな言葉が散りばめられていて、あたしのページをめくる手は亀のように遅かった。それくらい引き込まれた。繊細さ、儚さ、優雅さ、哀しみ、そしてほんの少しの毒。主人公の少女は、湖に落ちて命を落とした幽霊。その少女がふらりと湖にやってきた少年に恋をする。少女の目に、少年は金色に輝いて見えた。太陽の、生命の色。けれど少年には彼女の姿が見えない。少女にできることと言えば、梢を揺らしてみたり、細い声で歌ってみたり、本を読む少年のとなりにこっそり座ってみたり。やがて少年は結婚し、女の子をもうけた。何年か経ったある日、少年の娘が湖にやってくる。少女は少年が結婚してからずっと、我が身の不幸を呪い、泣きくれる日々を送っていた。少年の娘にはそんな少女の姿が見えていた。幼い彼女は湖の真ん中で一人ぼっちで肩を揺らしている少女を慰めようと、湖に足を踏み入れる。途端、ドボン! 少女は彼女を助けようとするけれど、哀しみの涙で漣の立つ湖は少女の力でもどうしようもないものだった。少年の娘はいつかの少女のように溺れて死んでしまう。かつての少年は嘆き哀しみ、湖を土で埋めてしまう。少女を弔うかのように。『ごめんなさい、ありがとう』少女はそう言って消えていく。
 その日、あたしは湖を泳ぐ魚になった夢を見た。
「『息を潜めて湖の世界に浸ってみてください』。へえ、いいじゃん」
「ちょ、なに読み上げてんの!」
 あたしの手元を覗き込んで、安部さんが低い声でそう言った。
「褒めてるんだけど。この作家の本、おれ初めて。あとで読んでみる」
 え、大の男が? 安部さんはあまり笑わないその顔を少しだけ歪めて、呆然とするあたしを横切って文具コーナーに戻っていった。あたしはたった今設置したばかりのポップに目をやる。
「その人の絵本は僕も好きなんです」
 どこからか店長がやって来て、あたしはぎょっとした。
「美しくて、哀しくて、幻想的で、哲学的で。最後はハッピーエンドにならないものばかりなのに、心に何故かずっと残ってる」
「ハッピーエンドにならない?」
「ええ。いつかすてきなハッピーエンドを描いてくれればいいんですけどね」
「絵本って、子どもが読むものなんだと思ってた。大人の絵本っていうのも存在するんだね。ただのおとぎ話じゃないような」
「そうですね。絵本もなかなか奥が深いんですよ」
 あたしはその日、同じ作家の本をあるだけ買ってきて、重い思いをしながらアパルトマンへと続く坂道を登った。片側のグリップに偏ってるものだから坂道でのバランスが取れなくて、途中からマウンテンバイクを押して帰った。部屋に上ろうと螺旋階段に足をかけたとき、視界に長くてふわふわしたものが入り込んできた。
「静流」
 呼びかけると、忠犬みたいにぴくっと顔を上げた。そのあと、すぐに笑顔になる。パタパタと尻尾が見えそうな気さえする。
「杏ちゃん」
 あたしはいいのかな、と辺りを見回しながら静流の側に寄っていった。そこは管理人さんの小さな英国風の庭で、夕方になると何度かホースで水をかけている姿を見かけたことがあった。初めて中に足を踏み入れたけれど、たくさんの名前も分からない花が暮れかかった太陽に染まって鈍く光っていた。
「何してんの」
「吸収してるの」
 よく分からない返答だった。静流は体育座りをして、膝のところにスケッチブックを広げていた。手には鉛筆が握られている。ああ、絵を描いているんだ。
「ここの庭、入っていいの?」
「うん、いいって。あたし、お庭大好きなの」
 手元を覗き込むと、細密画みたいにびっしりと、白いスケッチブックが植物に埋もれていた。ざわっと背中が粟立つ。
「自分でお花育てると、すぐ枯らしちゃうから、その代わりにこうやって吸収するの。いちばんきれいな瞬間を閉じ込めるの」
「あんたの目、どうなってんの。すごい、すごいすごい。信じらんない」
 陳腐な言葉しか出てこなくて、あたしは自分の語彙の少なさを呪った。素晴らしいものを見て、感情ばかりが先行して言葉が出てこないなんて。やっぱり小説を読むべきだ。こういうのは才能、と呼ばれる類のものなのだろう。努力だけでは勝ち取れない、神さまが与えた宝石。あたしが今、静流と同じものを見ていても、あたしは描けない。それくらい、驚いた。
「大げさだよお、杏ちゃん。子どもみたい!」
 静流はきゃらきゃらと笑った。子どもみたいな人に子どもみたいと笑われて、むっときそうなところだけど、そんなことよりやっぱり感動が勝る。静流は、違うんだ。あたしとは。
「静流ー」
 その声と共に、晶が庭に顔を出した。あたしの姿を見つけて、少しばつが悪そうな顔をする。
「何だよ、杏子。いたのかよ」
 さっきの柔らかい声とは違って、いつもの冷めた口調に戻った。
「いて悪い? なに、メシ?」
 晶はぐっと言葉を呑み込んだ。あたしのとなりで、静流が勢い良く立ち上がり、腕をぐいぐいと引っ張った。
「行こう、杏ちゃん。いっしょにご飯食べよ。お腹すいちゃった」
 あたしは立ち上がりざま、晶の顔を伺った。あ、溜息を吐いた。そして駆けていった静流の白いワンピースについていた土や草を払ってやっている。静流が笑う。晶も笑う。

「貧乏だからってたかるなよな」
 晶の作る料理は、どれもこれもびっくりするくらいおいしくて、小さな幸せを見つけた気分になる。作っている本人はかわいげがないけれど。今日のメニューはたらこスパゲッティ。ちょうどいい湯で加減のパスタに、これがアルデンテなのかな、と思う。
「いいじゃん、お姫さまがいいって言ってんだから。それにあたしだって食材提供してるだろ」
「水菜、シャキシャキしてておいしいね」
 静流にそう言われて、渋々といった様子で晶は頷いた。母さんから送られてきた水菜を提供したら、見事に反映されて返ってきた。パスタといっしょに和えられたそれは、驚くほどよく味に馴染んだ。
 いつもの如く、晶が洗い物をしているとき、静流がぽつりと呟いた。
「才能なのよ」
 え、とあたしは聞き返す。静流は少し淋しそうに笑った。
「アキちゃんが料理をすると、食材が輝くの。すごいの、笑顔になっちゃうの」
「ああ、うん。それはあたしも感じてた」
 料理が好きな気持ちは伝わってきた。でもそれより何より、静流の笑顔のために作っているような気がする。女の勘だ。
「あたしは不器用で、料理も洗濯も掃除も苦手で、お花も枯らしちゃうし、ダメなとこばっかりだから、アキちゃんが助けてくれるの。だからお礼に勉強教えてあげようと思うんだけど……」
 あたしはテーブルに置いてある数学の問題集をパラパラとめくってみた。ダメだ。宇宙語にしか見えない。高校卒業して一年ちょっとしか経っていないけれど、こんなに複雑な計算式にはお目にかかったことがない。いや、ただ単にあたしが見ないふりをしていただけかもしれないけど。高校時代、あたしは授業をサボることに命をかけていたから。
「難しくって。ダメだね、お姉さんなのに」
「あたしも分かんないよ。何これ、あいつ高一でしょ?」
「アキちゃんはいい大学に行って、いい会社に就職することが夢なんだって」
 もったいないね。そう言って静流は洗い物をする晶の背中を寂しそうに見た。
「好きなことして欲しいなあって、思うんだけどね。お母さんみたいでしょ」
 お姉さんの顔をして、静流が笑う。分かっていないようで分かっているんだ。この外見に騙されちゃいけない。この子はあたしよりずっと、大人だ。
「好きなこと、か」
 あたしの好きなことって何だろう。考えたくない問題にぶち当たってしまって、あたしは胃が落ち込んでいくような気持ち悪さを覚えた。
「本屋さんのアルバイト、楽しい?」
 静流の質問にあたしはちょっと考えて、まあまあ、と答えた。仕事は仕事だから、楽しいも楽しくないも考えたことがなかった。お金をもらうために、嫌なことでもやらなければいけない。そう割り切って考えている。
「あたし、あそこの本屋さん好きだよ。店長さんを見てると、本当に本が好きなんだなって分かるもん。だからかな、店内の雰囲気がすごくやわらかくて優しい」
「ああ、うん、確かに店長は楽しんで仕事してるような気がする」
 本との出会いは人との出会いと同じなんですよ。店長の言葉が急に蘇ってきた。
「……最近、絵本のポップを書いたんだ」
 心の準備もないままに、口が勝手に動いていた。突然の話題に、静流は目を丸くした。あどけない表情で「絵本?」と繰り返す。あたしは何だか胸がドキドキしてきた。緊張してる。あたしはがさがさと音を立てながら、買ってきた本をテーブルに並べた。
「引き込まれるって言うのかな。本読んで、初めてそんな気分になった」
 まるで一人っきりの寂しい夜に、そっと寄り添うような。真夜中に月に照らされているような。ゆっくりと夢の世界に漕ぎ出すまで、物語は部屋中に散りばめられてあたしを守ってくれている。
「あたしの絵本。杏ちゃん、あたしの絵本、読んでくれたんだ。ありがと」
 静流が静かに、でもはっきりと力強くそう言った。
「え?」
 絵本に向けられる、伏せられた目の優しい表情。絵本に出てくる少女のそれにとても良く似た万華鏡のような瞳。
「あたし、絵本を描いてるの」
 夜の風が長い髪をふわりと巻き上げる。

 『湖色の少女』をレジに持ってくるお客さんが増えた。あたしは何だか誇らしい気持ちで、一冊一冊を見送っている。どうか、誰かの『大切』になりますように。
「いらっしゃいま……。何だ、あんたか」
 ドアが開いたから、そっちに顔を向けると相変わらず無愛想な顔をした晶が立っていた。
「何だって何だよ。来ちゃ悪いわけ」
「悪いなんて言ってないだろ。ほんと、かわいげのないガキ」
 晶はあたしの前を通り過ぎて、店内の奥の方に消えていった。ちょっと疲れたように溜息を吐きながら。しばらくして、参考書を数冊抱えてレジにやってきた。
「勉強ばっかりしてると、ろくな大人になんないんだぞ」
 袋に参考書を入れながら、あたしはそう言った。静流や晶と知り合ってまだあまり経っていないけれど、夏休みに入ってから晶が毎日勉強をするために塾や図書館に通いつめていることは知っていた。
「あんたみたいにならないために勉強してるんだよ」
「うるさい、ガキ。あたしだって高校時代は……」
「サボってばっかりだったんだろ。目の前に反面教師がいる分、勉強がはかどるよ。どうもありがとう、杏子さん」
 ほんっと、かわいくない。弟も憎たらしいけど、こいつよりは素直でかわいいところがある気がする。
「ちょっと待って、晶」
 あたしは店を出て行こうとした晶を呼び止めた。振り返り、露骨に眉をひそめられる。
「あと十分で上がりだから。いっしょに帰ろう」
「やだよ」
「いいから。買い物付き合ってやる」
 晶はふんと鼻を鳴らして店を出て行った。向かいのスーパーに入って行ったのが見える。あんな言い方をしても勉強で疲れてるみたいだから、買い物袋を持つの手伝ってやろう。ちょっとだけそう思ったのだ。ほんの、ちょっとだけ。
「今の子、杏子さんの彼氏ですか?」
 どこから出てきたのか、店長が笑いながら言ったから、あたしは全力で首を振った。
「そんなわけないでしょ。あいつ、高校生だよ。弟と同い年。ほんと、変に大人っぽいって言うか、ガキらしくないから心配なだけ」
「それもまた青春ですよ。悩み多き年ごろですからね」
 なるほど。あたしは内心でぽんと手を打った。青少年の悩み。そうだ、晶からは甘酸っぱい匂いがする。
 バイトが終わって、主婦で込み合う向かいのスーパーで晶の姿を探した。でっぷり太ったおばさん方の間に挟まるようにして食材を吟味している姿を発見する。
「今日の夕飯は?」
 そう言って近付いていくと、ハンバーグとかぼちゃのスープ、と返ってきた。籠には卵やら牛乳やらひき肉やら、色々詰め込まれている。あたしはあんまり料理も得意じゃないし、手軽なインスタントラーメンとかお惣菜で暮らしてきたから、スーパーに長居をすることもなかった。だって、お腹に溜まればいい。そりゃ、おいしいにこしたことはないけど、一人で食べるのにそんなに手をかけていられない。だから丁寧に食材を選ぶ晶のあとを子どもみたいに着いて回った。静流のために、晶は一生懸命だ。
 スーパーの袋を一つずつ提げて、あたしたちはアパルトマンに帰る道のりを歩いた。蜩の鳴き声がうるさいくらいで、夕焼けの真っ赤な空に見下ろされて小さな町も燃えるようなオレンジ色に染まっている。公園の前を通り過ぎるとき、兄弟らしき小学生くらいの男の子たちがふざけ合っていた。あ、弟の方が兄に突き飛ばされて泣き出した。兄は大声で泣く弟におろおろして、泣くなよ、とかごめん、とか言っている。けど弟は泣き止まない。兄は小さな背中を差し出して、泣きじゃくる弟をおんぶしてうちに帰って行った。あたしはふっと昔を思い出す。兄と弟と、あたしも揉みくちゃになって遊んだ。転んで、泣いて、喧嘩して。でもやっぱり兄には勝てなかった。力も強かったし、あたしは女だから仕方ないと思ったけど、弟はいつまでも兄に突っかかって行っていた。泣きながら。そんなムキになるなよ、勝てるわけないんだから。あたしはいつもそう思っていた。
「杏子。あれ、いいんじゃない」
「ん? なにが?」
 となりを歩く晶は、真っ直ぐ前を見ていた。おんぶする兄と、泣きじゃくる弟。
「静流の絵本のポップ」
「そう?」
「うん」
 驚いた。晶があたしを褒めるようなことを言うなんて。心臓がことりと動いた。蜩の鳴き声と、幼い弟の泣き声が夕暮れの町に響いている。

 微かなレモンの匂い。二階の晶の部屋は、さわやかな雰囲気で満たされていた。どこもかしこもきれいに整理整頓されていて、気持ちがいい。ほとんどものがないあたしの部屋と、ちょっとだけ似ている。
「ねえ、静流、ほんとにいっしょに食べないの。いつもあんなにおいしそうに食べるじゃん」
 ベランダの窓を開け放ちながら、あたしはキッチンの晶に問いかけた。
「食べないよ」
 静流は今、神さまが降りてきているらしい。ここ何日か姿が見えないと思ったら、引きこもって机に向かっているのだそうだ。そういうときの静流は、人が変わったように無口になって、落ち着くまで晶が作るご飯を食べようとしないらしい。だからいつもは静流の部屋で食べるけど、そっとしておこうということで、今日は晶の部屋にお邪魔することになったのだ。
 晶がキッチンで料理を始めた。手伝おうか、と言ったけれど、足手まといだと追いやられた。あたしは暇で、その辺の本棚から参考書を取り出してパラパラとめくってみた。高校時代、真面目に勉強しなかったけれど、こうして見てみるとちゃんと懐かしい。かつてあたしも同じ制服を着て、同じような机に座って、カリカリとノートを取っていた。そのうち飽きて、窓の外をぼんやり眺めていると、後ろの席から手紙が回ってくる。『バイト、いつ休み?』あんたの都合に合わせるよ、さくら。夢みたいな、日々だった。
「起きろよ、杏子。人の部屋でよだれ垂らすな」
 肩を揺すられて、あたしは目を覚ました。電気が眩しくて目が開けられない。
「何だよ」
「何だよ、じゃない。ほら、夕飯できたぞ」
 ハンバーグのいい匂いに誘われて、そろそろと目を開ける。目の前にはほかほかのハンバーグとかぼちゃのスープ。その向こうには呆れたような顔の晶がいた。夢が掻き消える。ああ、あたしは十九歳。高校を卒業して、結構経つ。
「あんた、いい旦那になりそう」
「寝ぼけるのも大概にしろ」
 本音なんだけど。あたしは欠伸をかみ殺しながら、手を合わせていただきます、と言った。いつの間にか癖になってしまった。今日は静流がいないから、静かな食卓だ。
「料理が好きなんだって?」
 かぼちゃのスープを飲みながら、ふと質問してみた。ちゃんとかぼちゃを裏ごししてあるみたいで、口当たりがなめらかでほっとするおいしさだ。
「何で?」
「静流がそう言ってた」
「……別に好きじゃないよ」
 変な間があって、晶は麦茶に手を伸ばした。
「嘘吐くなよ。あんた見てると一目瞭然だよ。料理が好きなことも、静流が好きなことも」
 晶の手から、麦茶のグラスが滑って落ちた。わっ、と声を上げて、あたしたちは二人がかりで零れた麦茶を拭いた。幸い、グラスは割れなかった。
「ちょっと、疲れてんじゃないの」
 そう言いながら晶の顔を見ると、耳が真っ赤になっていた。
「静流は、知ってんの」
 あたしの問いかけに、晶はキッと睨みつけてきたけれど、やがて小さく溜息を吐いた。
「知ってる」
「そう」
「何で分かった?」
「分かるよ。だって、静流のこと何でもやってやってるし。まあ、あとは女の勘かな」
 二人の間に流れる空気とか、晶が静流を見る目とか、静流がアキちゃんと呼ぶとちょっと赤くなるところとか。
「かわいいなあって思って見てた。普段はかわいくないけどな」
 晶は押し黙る。大きな目が伏せられていて、やばい、泣かしたかなと思ったけれど、そうではなかった。顔を上げてあたしを見たその目は、強い強い色を放っていた。黒の中に浮かび上がる、燃えるような夕焼け色。
「おれは静流の一番にはなれないけど、でも、ずっと側で見守ってるって決めたんだ」
 からかっちゃいけない。真っ直ぐでひたむきな晶の思いを。あたしは鼻の奥がツーンと痛くなった。誰かを思うって、こんなに切ないことだったっけ。静流はどんな思いでいるのだろう。決してハッピーエンドを描かない、彼女は。
 腹が減ったら食べるだろうから、と静流のところに夕食を置きに、晶が出て行った。あたしは後ろに手をついて、指先に触れた紙の感覚に振り返る。それは写真だった。さっき参考書を出し入れしたときに落ちたんだろう。戻そうと思って取り上げたそれには、今よりもっと幼い静流と晶が写っていた。夏祭りだろうか、手を繋いで浴衣を着て、カメラに向かって笑っている。そして二人の後ろには、今の晶に良く似た人物が満面の笑みを見せていた。



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