アパルトマン・ラプンツェル 1 長く緩やかな坂道の先に、そこはあった。 使いこなしたマウンテンバイクを止めると、弾む呼吸に初夏の陽気も手伝って、じわりと汗が滲んだ。顎を伝うのもそのままに、またがったまま上を見上げる。あまりに眩しくて手で庇を作ったけれど、今日からあたしの城になるその建物は何故だかそうしても淡く不思議な光に満ちていた。 モノクロの古い映画から抜け出してきたようだ。第一印象と、今の印象は少しも変わらない。城と言うよりも塔と例えた方がいい。煉瓦作りの縦に細長い円柱系の建物で、蔦が絡み付いて上へ上へ侵食を続けている。その脇の錆付いて今にも崩れそうな螺旋階段にも、蔦がくるくると巻き付いて、レトロな雰囲気を醸し出していた。今日からあたしはここの三階に住むことになる。この一風変わったアパルトマン、『ラプンツェル』に。 きらり、と何かが輝いて思わず目を閉じた。再び薄く開けて、あたしは自分の目を疑った。一瞬の間に四階の出窓が両側に開け放たれ、女の子が下を覗き込んでいたのだ。遠目に見ても分かるくらいの吸い込まれそうな大きな目と目が合って、どうしてか逸らすことができなくなってしまった。生ぬるい風が吹いて、ばらの匂いが鼻を掠めた。十四、五歳だろうか。色素が薄くて柔らかそうな長い髪が、頭上から降り注ぐ陽光で金色に輝いていて、下に長く長く垂れ下がっている。あたしの中で、幼いころ読んだ絵本の挿絵と重なった。高い塔の上に閉じ込められた、髪の長い女の子の物語。あれは、そう、確か。 不思議な合点にあっ、と声を上げた瞬間、女の子はいきなり窓を閉めてしまった。その衝撃でこの塔が壊れそうなくらい力強く、まるで怯えているみたいに。 「あたし、そんなに怖いか?」 思わず、声が出てしまった。三世帯の小さなアパルトマンだから、さすがに住人同士仲良く、とまではいかなくても円滑に過ごせればいいと思っていたけれど、何だか出足は不調のようだ。まあ、そんなつもりなかったけど、あたしが睨み付けていると思われたのかもしれないし、あまり深く考えないことにしよう。別にあたしは人から嫌われたって気にしないし、どうでもいい。 駐輪場、と言うよりも物置に近い小屋の中にマウンテンバイクを止め、管理人さんに挨拶をしに一階のチャイムを押した。すぐに灰色の毛糸のような髪の毛をした、優しそうなおばあさんが出てきた。あの女の子を見た後だからか、意地悪なおばあさんが出てきたら面白いけれど、生憎ここの管理人さんは意地悪とは程遠い顔立ちをしている。鍵を受け取り、螺旋階段をくるくると上る。二階を通り過ぎるとき、郵便受けのプレートが目に入った。『瀬川』。そこにはそう書かれていた。 三階に着き、鍵穴に鍵を差し込んだ。一階には管理人さん、二階には瀬川さん、三階にはあたし、四階にはあの女の子。今日からあたしはここの住人になる。 引越しの片付けは一日とかからなかった。あたしは物を持ちすぎるのは好きじゃない。必要最低限の物さえあれば満足できるという性格が、放浪の性質と見事に合っているから、いつも引越しには苦労しない。 ベランダに出ると、洗いたての短い髪を風が通り抜けていった。太陽が高い位置で輝いていて、日差しが容赦なくTシャツからむき出しの腕を焦がす。今は何時なんだろう。あたしは部屋に時計がなかったことを思い出した。引越しの荷造りをしているとき、落として壊してしまったのだ。元々時計をあまり見る方ではないから、電池が切れて止まっていたのだけれど。そうだ、時計を買いに出かけよう。ついでに食料も買っておかないと。 駐輪場に行き、いつも通りマウンテンバイクにまたがろうとして、止めた。急いでいるわけじゃないし、たまにはゆっくり散歩をしてみるのもいいかもしれない。ただでさえこの町はのんびりとした時間が流れているから、マイペースなあたしはますます自由気ままになってしまう。 欠伸をひとつして、坂道を下り始めると、高校生くらいの男の子が前からやって来た。今日は確か土曜日のはずなのに、部活帰りだろうか、しっかり制服を着込んでいる。確かあの制服は、比較的拓けたとなり町にある進学校のものだったような気がする。じゃあ、部活じゃなくて課外授業とか塾かもしれない。学生はご苦労さまだな、なんて思いながら我が身の気ままさにちょっと胸が痛んだ。擦れ違う瞬間、その高校生が目を細くして胡散臭そうにあたしを見た。あれ、何かしたっけ。あたしを値踏みするような目付きに、どきりとした。立ち止まって振り返ったけれど、高校生は涼しい横顔ですたすたと行ってしまった。小さな町は余所者に冷たい。それにあのくらいの男の子はあんなものなのだろうか。あたしの兄や弟たちは、あんなガリ勉タイプじゃなかったから分からない。 「何だよ、もう」 遠く真っ直ぐに伸びた背中に、こっそり悪態をついてみた。 駅前の雑貨屋で目覚まし時計を買った帰り、通りかかった本屋の前であたしは立ち止まってしまった。その張り紙をじっと見ていたら、ドアを挟んで向かいにいた店員らしい男の人が店の前に顔を出した。 「いらっしゃいませ。どうかされました?」 営業スマイルを向けられて、本を買うつもりもなかったあたしはぎょっとした。若い男の人だ。二十代後半くらい。 「いや、どうもしない。あー、うん、そういうこと」 自分でも何を言っているのか分からなかったけれど、男の人は深く追求せず、瞬きを何度かしてにっこり笑った。 「アルバイト募集してるんですよ。実はそれ、今貼ったばかりで。すぐあなたが立ち止まってくれたから、思わず声をかけてしまいました」 「あ、そう。まあ、働くとこ探してるんだけどさ」 「そうですか。中でお茶でもいかがです?」 「は?」 何でそうなる。突っ込みたくなったけれど、男の人はにこにことした表情を崩さないから、からかわれているわけではなさそうだ。かと言ってナンパをされているわけでもない。そもそも男みたいで色気のないあたしを誘う人がいるとは思えないし、歩いたせいで喉が渇いているのも隠しようのない事実だった。まあ、好意は受け取っておいてもいいだろう。我ながら図太い神経をしていると呆れたけれど、あたしは促されるままに男の人について店内を通り抜け、事務室の中に入った。パイプ椅子に腰掛けると、書類が山のように積まれた机の上の僅かな隙間に、男の人はアイスティーを置いた。 「きったな」 言ってしまってから、あ、と間抜けな言葉が続いた。つい、声に出してしまった。 「思ったことが口に出るタイプですね」 「つい……。でもほんと、汚い。はっきり言って客呼ぶところじゃないよね」 クーラーもないらしく、熱気がこもった部屋は息苦しかった。アイスティーの氷は既に溶け始めていて、書類に染み込んでいくのを防ぐためにあたしは慌ててグラスを持ち上げた。男の人は声を立てて笑った。 「そうでしょう。事務室はこの一部屋だけなので、お昼も休憩時間も書類に埋もれているんですよ。アルバイトの面接もここでするしかなくて」 「初っ端からこんなとこ案内されたら座る気も失せるって。採用されたら書類整理させられるの目に見えてんじゃん。て言うかこんななるまで積むなよな」 グラスから雫が滴り落ちて、ジーンズにいくつも染みを作った。自分の部屋の、あの広々と殺風景な部屋に戻りたい。しかもこんなに蒸し暑いのに、扇風機すらないなんて考えられない。そこまで考えて、あたしは扇風機が使えない理由に思い当たった。風で書類が飛ばされてしまうのだ。 「つくづく正直な方ですね。気に入りました。ところで、今日はお買い物ですか?」 「はあ、まあ、時計を買いに。ついでに食料」 気に入ったって、何が。そう言おうと思ったけれど、あたしの意識は時計に引きずられた。 「食料はついでですか」 男の人はまた声を立てて笑った。そして引っ越されてきたんですか、と聞いてきた。あたしは何だか変わった人だなと思いながらも、人の良さそうな笑顔につられて頷いてしまった。視線が足元に向かった拍子に、紙袋から買ったばかりの時計が見えた。秒針はぴくりとも動かない。電池は買ったけれど、ついでに時間を合わせてくれるよう頼めばよかった。 「今、何時?」 時計を探して事務室を見回したけれど、それらしきものは見当たらなかった。すると男の人がはっきりと言った。 「昼下がりですよ」 「あんたも大分アバウトだね。あたしも人のこと言えないけどさ。それとも教える気ないとか?」 「いえ、そんなことは。仕方ない、時計を合わせて差し上げましょう」 男の人は得意げに手を差し出した。言っていないのに、買ったばかりの時計が動いていないことに気付いたのだろうか。だとしたら、ただ者ではない気がした。あたしはちょっとびっくりして、足元の紙袋をそのまま男の人に差し出した。 がさがさと紙袋を探り、典型的な目覚まし時計の形をしたそれの秒針を、男の人は器用な手付きでぐるぐると回した。ふざけたことを言いながら、しっかり腕時計をしていて、あたしはちょっとむっとした。 時間は進む。容赦なく。気持ちは置き去りにしたまま、着実に秒針は動く。後戻りすることはない。気持ちだけはいつだって過去に戻ることができるのに。あの匂いを、空の色さえ鮮明に浮かんでくるのに。 「時計とか、カレンダーとか、見る習慣がないんだ」 ぽつりと呟いていた。真剣な眼差しを時計に向けたまま、男の人がなぜですか、と聞いてきたから、知らないと答えた。話題を振っておきながらあんまりだと自分でも思う。 「腹が減ったら何か食べるし、明るくなったら起きる。寒くなったらコートを着る。そんな感じ」 「気ままな猫のようですね。じゃあ、今日はどうして時計を買ったんですか?」 「引っ越してきたばっかりだし、何かと必要になるかなって。でも使わなくなるかも。いつも知らないうちに止まっちゃってるから」 「止まらないようにしてください。朝は九時からですよ。早く来られるのは構いませんが、遅く来られるのは考えものです」 書類が山積みになったテーブルの僅かな隙間に、男の人は静かに時計を置いた。秒針がカチコチと時を刻んでいる。少しずつ少しずつ、あたしは過去から遠ざかっていく。軽く秒針が半周したころ、顔を上げると男の人はにこにこと微笑んでいた。 「は? なに言ってんの」 「だから採用ですよ。アルバイト」 「働くなんて一言も言ってない!」 思わずテーブルを叩いたら、書類の山が少し崩れた。でも、それ以上否定の言葉は出なかった。ここで働くなんて考えてもいなかったけれど、不思議なことにこの書類の山を整理して、あたしの理想に適った殺風景な部屋にしたいと思い始めていた。ごちゃごちゃしてるのはどうも落ち着かない。 「お名前を伺ってもよろしいですか?」 「……橘杏子」 こんな面接、あるもんか。思っただけで何も言い返せない自分が悔しくて、いじけたような言い方になってしまった。ああ、まだまだあたしは子供だ。感情を見透かされてしまうほど。案の定、男の人に笑われた。 「僕は店長の桜井です。よろしくお願いします」 この笑顔に、まんまと丸め込まれてしまった。 三日間で、あの事務所は見違えるほど綺麗になった。店長は六畳間が十畳間になったようですね、と普通に広くなったと言えばいいのにピンとこない感想を漏らしたけれど、とても喜んでくれているようだった。あたしはどうやら掃除が性に合っているのかもしれない。 「ぶつぶつ独り言を言いながら、手は止まらないんですよ。すごいですね。手伝ったら怒られてしまいました」 事務室の扉が開いていて、店内でひそひそともう一人のアルバイト、安部さんにそう囁いている店長の声が聞こえた。 「俺も店長も、整理整頓は駄目ですからね。ああ、可哀想に」 大柄で感情のこもらない話し方をする安部さんは、さらりとあたしを哀れんだ。汗だくで、一応女なのに、二人共手伝ってくれなかった。いや、手伝ってくれたけれど、店長も安部さんもどうしてそうなるのか不思議なくらい書類をぐちゃぐちゃにしてしまうから、結局あたしが全部一人でやることになったのだ。本屋に勤め始めたのに、一切本には触れていなかったけれど、来週からレジをさせてもらえると聞いてほっとした。 ここのところ、朝八時半には家を出て、六時近くにくたくたになって帰宅していたせいですっかり忘れていた。やっと休日がやってきて遅く起きたあたしは、お昼を作ろうと思って冷蔵庫を開けた瞬間、目に入ってきたそれにあっと声を漏らした。一応、二階と四階の人たちに挨拶に伺いがてらプリンでも、と思って買っていたのだけれど、箱の裏側を見ると案の定賞味期限が切れてしまっていた。まさかそんな賞味期限切れのプリンなんて、いくらあたしでも持っていけない。何か他のものを持っていくしかないだろう。冷蔵庫を閉め、目に入ったのは母さんから送られてきたダンボールだった。 いくら安いところに住んでいると言っても、十分な蓄えもない娘の一人暮らしは心配なのだろう。母さんは野菜や果物やインスタント食品を、しょっちゅう送ってくる。高校時代にしたアルバイトの蓄えもあるし、物欲がないから無駄なものは買わないし、仕送りなんていらないと言っているのに、通帳の残高はいつの間にか増えている。学生でもないのに優雅な身分だ。 昨日、早速送られてきたのだけれど、疲れて開けもしないまま寝てしまったのだった。つくづく親不孝な娘だ。開けてみると、畑で取れたらしいトマトが食べきれないくらいどっさり入っていた。 「こんなにどうすんだよ」 呟いた瞬間、画期的な方法を思いついた。そうだ、プリンの代わりにこれを持っていけばいいんだ。あたしは二枚のビニール袋にトマトを五、六個ずつ入れると、忘れないうちにまずは二階に下がっていった。思い立ったが吉日というやつだ。 「こんにちはー」 このアパルトマンには呼び鈴がないから、ドアをノックしながら声をかけてみたけれど返事はない。人の気配もしないようだ。留守なら仕方がない、また後で来ることにしよう。今度は四階に上っていった。さすがにここまで来ると眺めがよくて気持ちがいい。どうやらこのまま螺旋階段を上っていくと屋上に出るらしい。日向ぼっこなんてしたら気持ちいいだろう。今の季節はこんがり日焼けしてしまうだろうけど。あたしはくだらない妄想を抱きながら四階のドアをノックした。郵便受けには『梨木』と書かれていた。すると、中で人が動く気配がした。そう言えばあの日以来見ていないけれど、髪の長い中学生くらいの女の子と、きっとその家族が住んでいるのだろう。あれ、でも、一部屋しかないのに家族で住めるのかな。 「誰?」 聞こえてきた声は女の子ではなかった。やけに大人びて冷たく聞こえるけれど、若い声だ。高校生くらいの男の子だろうか。ドアは開けずにそう問いかけてきた。 「下の者ですけど。三階に新しく引っ越してきたから、挨拶に」 言い終わらないうちにドアが勢い良く開いて、危なく額を打つところだった。危ないなあ、と呟きながら中から出てきた人物に向き直る。 「あれ、あんた」 その顔に見覚えがあった。引っ越してきた日、買い物に行こうとして擦れ違った高校生だ。思春期特有の、冷たい眼差し。にこりともせず、じっとあたしを睨み付けている。 「何?」 「だから挨拶に。橘です。よろしく。これ、よかったら食べて」 トマトが入ったビニール袋を差し出すと、高校生はまた胡散臭そうな視線を送って寄こした。あたしはむっとした。うちの母さんが汗水垂らして作ったものをそんな目で見やがって。 「うちのトマトは美味しいぞ。形だけで判断すんな」 高校生はちらりとあたしを見て、渋々といった様子でビニール袋を受け取った。 「どうも」 そこは、ありがとうございます、だろうが。あたしも人のこと言えないけれど、にこりともしないし、無愛想だし、何だか気分が悪い。さっさと帰って昼食の準備をしようと、背を向けようとしたときだった。 「トマトだ!」 小さい影が部屋の中から出てきて、高校生が持っているビニール袋の中を覗き込んで興奮したような声を出したのだ。色素の薄い、ふわふわした長い髪。あたしは背がそんなに高い方じゃないけれど、それでも胸くらいまでしか背がない、小柄な女の子。引っ越してきた日、四階の窓からあたしを見下ろしていた、あの子だ。 「アキちゃん、もらったの?」 女の子はビニール袋をがさがさといわせながら、歪なトマトを一つ取り出した。小さな手に、それはハンドボールのように大きい。 「うん。下の階の人だって」 アキちゃん、と呼ばれたことが恥ずかしかったのだろう。男の子は顔を赤らめながら言った。女の子は両手で包むようにしていたトマトから視線を外し、あたしを見た。 「どうもありがとう」 きらきらした、焦点の定まらないような大きな瞳で、女の子はにっこり満面の笑みを見せた。 「どういたしまして。橘って言います。よろしく」 純粋な笑顔が眩しくてどきまぎしてしまった。そんなあたしの気持ちとは裏腹に、女の子はぐいっと近くまでやって来て、下から顔を見上げられた。じいっと見つめられて、何分経っただろう。いや、実際はほんの二、三秒だっただろう。けれどどうしてか、とても長く感じられた。女の子の目元と口元が綻んだ。まるで花が咲いたように。 「下のお名前は?」 「杏子だけど」 「じゃあ、杏ちゃんだね。中に入って。お昼食べよ」 手首を掴まれて、強い力でぐいぐいと中に引っ張られる。 「え、ちょ、ちょっと」 「おい、静流!」 何が何だか分からないうちに、あたしは静流と呼ばれた女の子に引っ張られてミュールを脱ぎ捨てていた。小さな身体なのに力は驚くほど強くて、よろめきながらキッチンを通り過ぎ、部屋に入ってしまった。 「座って。アキちゃんがね、きのこカレーを作ってくれたの」 案内された部屋は、あたしの部屋とは何もかもが違っていた。薄いピンク色のカーテン、大きな本棚に詰め込まれた形がバラバラの本たち。机の上には絵筆やパレットや絵の具が散乱し、壁には写真やら切り抜きやらが無造作に貼ってあった。ベッドの上から天蓋が吊るされていて、ふわふわとしたベールが開け放った窓から入ってきた風で揺らめいた。サイドテーブルにはぬいぐるみやら人形やらたくさんのアクセサリーやらが並べてあって、まるで子ども部屋のようだった。そして部屋自体が金色の暖かい色合いで満ちていた。 「かわいいなあ」 男みたいなあたしにそんな感情が残っているなんて思ってもみなかったけれど、ぽつりとそう呟いていた。女の子はえへへ、と笑うと円卓の周りに並べてある赤いクッションに勢い良く座った。 「ほら、杏ちゃん、早く早く。座って」 杏子だから杏ちゃんと呼ばれるのはいいのだけれど、会って間もない他人に呼ばれるのはいくらなんでも違和感がありすぎる。しかもいつの間にか部屋に上がり込んでしまったし、ここは丁重にお断りをするべきだろう。 「いや、あたし、帰るから。気持ちは嬉しいけど」 すると女の子は目に見えてしゅんと沈み込んだ。あたしの口調が冷たかったからだろうか。子どもの扱いは難しい。 「アキちゃんのカレーおいしいのに。せっかくお友だちになったのに」 「まあ、カレーはおいしいんだろうな。すごいいい匂いだし。でもほら、会ったばっかりだしさ」 そこまで言ったとき、タイミングよくあたしのお腹が鳴った。女の子が勢い良く顔を上げ、一瞬の間のあと、男の子がお盆を持って部屋に入ってきた。 「そんなに腹減ってるくせに、痩せ我慢すんなよ」 男の子はランチョンマットの上にカレーの皿を三人分置いた。木製の食器類は温かみがあって、いい匂いと共に湯気が立ち昇る。あたしは自分の身体の素直さに溜息をついた。いい年になって小さな子どもみたいだ。 「杏ちゃん、早くー。三人で『いただきます』して食べよ」 女の子が口を尖らせた。二人とも、きちんと手を合わせている。 「給食か?」 「いいから、さっさと座れよ」 そうしないわけにはいかない状況になってしまった。あたしはかくんとその場に膝をついて、手を合わせた。 「それじゃあ、いただきます」 にこにこしながら女の子が言うと、男の子も抑揚のない声でいただきますと言って、食べ始めた。あたしも一歩遅れて言い、二人の様子を窺いながら恐る恐るスプーンを手に取った。据え膳食わぬは何とやらと言うし、思い切ってカレーライスをすくって口に運んだ。ほかほかのご飯と、甘口のルーがほどよく絡み合って、とてもおいしい。顔を上げると、男の子は相変わらず澄ました顔で口を動かしているけれど、女の子は本当においしそうに鼻歌を歌いながら食べていた。 「うまいね」 呟くと、男の子がちらりと視線を送ってよこした。 「当然だろ」 褒めてるのに、俺様な態度が可愛くない。けど、本当に文句なしにおいしいから、あたしは夢中でカレーを口に運んだ。途中、にんじんやじゃがいもが星型になっていることに気付く。芸が細かい。 一足先に食べ終わった男の子が立ち上がると、女の子が目を輝かせて皿を差し出した。 「おかわり」 「ダメ。また食いすぎで腹壊すぞ。夜の分残してあるから」 女の子は哀しそうな顔をしていたけれど、男の子がまたお盆に載せて持ってきたものを見て表情が和らいだ。 「杏ちゃんからもらったトマト?」 「そう」 あたしの目の前にも置かれたそれはサラダで、レタスときゅうりの上に、八等分されたトマトがのっていた。水を弾いた野菜たちが、何故かとても輝いて見えた。 「緑の味がする。優しい味だね」 一足先にトマトをほお張った女の子は、あたしに向き直るとそう言って笑った。緑の味? あたしは首をひねったけれど、同じようにトマトを食べてみた。土の匂いと太陽の匂いと、あとは母さんの笑顔が頭の中に蘇った。 一通り食べ終わり、男の子が後片付けをしている音と、午後のゆっくりとした時の流れと満腹感のせいで眠気が襲ってきた。女の子もまた目をこすっている。それにしても妖精みたいだな。あたしはぼんやりとした目で女の子を見つめた。あの男の子は妹がかわいくてたまらないのだろう。態度を見ていれば一目瞭然だ。 「いい兄貴だね」 女の子は目を何度かパチパチさせて、首をかしげた。 「アキちゃん?」 「うん。あたしにも兄貴いるけど、料理作ってもらったことなんか一度もないよ」 「どんなお兄ちゃんなの? 優しい? いじわる?」 「どっちかと言えばいじわるかな。あたしのこと女扱いしないし。あたしがあんたみたいに可愛くて女の子らしかったら良かったのかなあ」 「アキちゃんはお兄ちゃんじゃないよ」 あたしはえっ、と声を上げてしまった。 「幼馴染なの」 「ああ、幼馴染のお兄さんね」 その可能性もあったか、と笑い飛ばしたけれど、女の子は激しく首を振った。 「お兄さんじゃないよ。アキちゃんは高校一年生で、あたしははたちだもん」 「はたち? あたしは十九だよ」 「じゃあ、あたしの方がお姉さんだね」 女の子はそう言ってえへへ、と笑った。つられてえへへ、と笑いそうになって、あたしの思考は固まった。はたち? この子、どう見たって中学生にしか見えないんだけど。 「静流は本当にはたちだよ」 追い討ちをかけるように片付けが終わったらしい男の子が戻ってきた。 「嘘だろ」 「本当だよ」 「あんた、兄貴じゃないんだって? 幼馴染?」 「それも本当。おれは瀬川晶。こいつは梨木静流。静流は四階に住んでて、おれは二階に住んでる。お互い一人暮らし」 「二階の瀬川って、あんただったんだ。え、ちょっと待って。あんたたち、一人暮らしって大丈夫なわけ?」 女の子ははたちだけど一人で何もかもできるタイプではなさそうだし、男の子はまあ料理もうまくて落ち着いてて一人で暮らすのに問題はなさそうだけどまだ高校生で、何だかとてつもなく不安な組み合わせだった。 「今のところ、何も問題はないけど」 「アキちゃん、お料理もお洗濯も上手なの」 「あんた、全部やらせてんだろ」 溜息混じりに呟くと、女の子は笑った。完全に肯定している。いくら幼馴染でも青少年に洗濯させるなんて考えられない。まあ、男の子にしてみれば妹の世話をしているようなものなのかもしれないけれど。 「杏ちゃんはどうして引っ越してきたの?」 突然、話題があたしに向けられて、唸ってしまった。どうして、と言われても理由はない。ただ新しいところに来てみたかった。それだけ。 「特に理由はないよ。ふらっときてふらっと居ついて、またふらっと出てくさ」 「そんな娘を心配して、親は食料を送ってくる、と」 的確な言葉に、不覚にもまた唸ってしまった。男の子は溜息を吐いた。 「そんなとこだろうと思った。あんた、同じ匂いがしたんだ。初めて会ったとき」 「あたしもそう思った。杏ちゃんからは、自由の匂いがした。だから最初はちょっとびっくりしたの。ごめんね」 女の子は困ったように首をかしげてあたしを見た。その姿は一瞬だけ歳相応に見えた。確かに、初めて会ったとき、彼女はあたしを恐れているみたいに窓を閉めたし、男の子は冷たい視線を送ってきた。 「誰の話?」 二人は答えなかった。重く静かな沈黙が降る。恐れと、侮蔑。二人のそれはあたしを通して他の誰かに向けられている。その人はそんなにあたしに似ているのだろうか。 「杏ちゃん、ご飯、いつでも食べにきて。いつ遊びに来てもいいよ」 変な空気を吹き飛ばすように、女の子がぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。何だか不思議な子だった。子どもかと思えば大人びて見えたり、夢の中をさ迷っているかのように華奢で弱々しいのに力は強いし豪快に食べるし、人に対して無頓着なあたしだけれど少しだけ梨木静流という人間に興味が芽生えるのを感じた。 「あんた、気に入られたんだよ」 男の子、晶が、こっそりあたしに耳打ちをした。今度はあたしが囁く。 「あんたはどうなの」 すると晶は肩をすくめて、お姫さまのお気に召すままに、と言った。 back? 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