今日も、お話の時間が始まる。あたしはベランダに出て、手すりに頬杖をついた。管理人さんの庭から、夏の終わりのばらの匂いが立ち上ってくる。甘く、密やかに。女の子たちが囁き合っているみたい。美しい舞台の幕が上がるのを、今か今かと待っている。
 コンコン、とすぐ上から窓を叩く音がした。
「おれだよ、静流。今日もカーテンそのままにして、おれの話、聞いてて」
 静流の部屋のベランダに、拓海が座り込んだようだ。あたしのとなりに、晶がやって来る。
「おれの方が静流に会うの怖いんだよな、実は。おれにとっておまえは大きな存在だからさ。一番を仕事にしてんだもん、すげえよ」
 開け放たれたベランダの窓。カーテンは閉じられ、部屋の中にいる静流には拓海の声だけが聞こえている。あの日から、拓海はベランダから静流に話しかけている。三年間、どこにいてどんな仕事をして、何があったのか。それを順序立てて話し始めてから、今日で五日目になる。三年の間、拓海は本当に色々な体験をしたらしい。お堅い仕事から、摩訶不思議な仕事まで。それはまるで千夜一夜物語のように多彩で、続きが気になってしまうのだった。
「今日は最後の旅のことを話すよ。ここが一番長くて、一年いた。ひっそりした住宅街の、林に囲まれたところに、そこはあった。小さい喫茶店だよ。老夫婦が経営してるところで、長くやってるんだろうな。毎日のように常連さんが来てた。初め、喫茶店でアルバイトしたことあるから悩んだんだけど、マスターの話聞いて興味が出てきた。給仕の傍ら、庭をさ、蘇らせて欲しいって言うんだ。確かにそこには外国風の庭があって、すごいきれいだった。でもマスターも奥さんも歳を取ってきたから、維持するのがなかなか難しくなってきたみたいでさ。そう言えば昔、うちの庭にひまわり植えたよな。咲いたあと、静流が絵を描いてくれたっけ。おれ、それまだ持ってる。すげえだろ。
 あ、話が脱線した。そう、それで、庭いじりの仕事ってしたことなかったけど、そのこと思い出して、ああ、いいかもって思ったんだ。手始めに、草取りから。これがまた疲れるんだよな。屈んで地面とにらめっこ。帽子被ってるけど、背中から太陽が照りつけてきて暑いし。でも地味な作業のわりに、充実感があった。茂みで休憩してると、風に乗って土の匂い、草の匂い、花の匂い。あとケーキとか紅茶の甘い匂い、お客さんの微かな笑い声。色々してきてさ、ああ、のんびりしてて何か幸せかもって思った。おれ、突っ走ってきたから、のんびり自然を感じるのも悪くないな、なんて。少し経って、マスターに好きな花を好きなところに植えていいって言われた。おれ、庭造りのことも、花の種類も、全然分かんないからさ、花屋に行ってみたり、植物辞典みたり、マスターや奥さんに教わったりして、パンジーとかプリムラの苗を植えた。そしたらたったそれだけで庭の印象ががらっと変わった。明るくなって、客足が増えて、お陰でおれ、給仕と庭師で大忙しだったんだぜ。
 そんな日々が続いた。一日の終わりに、ホースで水をかけると、庭が笑ってるみたいにキラキラ輝いて、小さな虹ができた。庭はいつも花盛り。それを笑顔で喜んでくれる人たち。必死に咲こうとする蕾に、毎日声をかけた。気付いたんだ。おれ、植物を育てるのが好きなんだって。やっと、見つけた」
 静かな声が、夜の闇にキラキラと溶けていった。手に余るほどのたくさんの可能性。ぽろぽろと零れ落ちるそれらを、拓海はやっと掴んだのだ。
 拓海は立ち上がったようだった。ベランダが軋む。
「怖かったんだ、ずっと。おれが怖いなんて、想像したことあったか? でも、今は違う。おれはもう空っぽじゃないから。おまえに会いたい。それだけ考えて、帰ってきた」
 生暖かい風が吹く。庭の花たちがさわさわと鳴る。空を見上げると群青色に光の粒が散りばめられていて、三日月がにっこり微笑んでいた。優しい夏の夜。ばらが香る塔の家。王子はラプンツェルに会いに来た。
「答えは、すぐ近くにあったんだね」
 カーテンが開く音といっしょに、静流の声が耳に届いた。
「拓海、昔から誰かを咲かせるの、好きだったじゃない」
「うん」
 きっと、二人は笑っているだろう。頭上で繰り広げられるおとぎ話を、あたしも微笑みながら感じていた。
「きれいになった」
「そんなことないよ。身長変わらないもん」
 ふふっと、小さく笑い合う声。空気がこそばゆそうに微かに揺れる。
「あたし、お花でいちばん、ばらが好き」
「知ってる。静流にばら園、作ってやるよ。約束」
 あたしと晶は顔を見合わせて、静かに部屋の中に戻った。二人の再会を、邪魔しちゃいけない。
「おかえり、拓海」
「ただいま」
 窓を閉めるとき、ばらの香りといっしょに、そんな声が流れて聞こえてきた。
「ハッピーエンドだな」
 晶がそう呟いた。あたしは頷く。きっと静流は、ハッピーエンドを描くようになるだろう。

 眩しい朝に目が覚めて、あたしは透明な光の中に細かい粒子を見た。ゆっくりと、でも確実に、ふわふわ揺らめきながら下へ下へ落ちていく。時間は流れている。サイドテーブルの時計を見ると、十二時ぴったりに止まっていた。シンデレラの魔法が解ける時間。普通の生活に戻る時間。あたしは起き上がって、買い置きの電池を探して取り替えた。テレビを付けて、時間を確認して、秒針を合わせる。カチコチと、時計が時を刻み出す。
「店長、本っていいね。時間旅行してるみたいで」
 事務仕事をしていた店長は、おや、と顔を上げた。あたしはにっこり微笑む。
「杏子さん、変わりましたね」
 そうかな、と軽く流しておいたけど、やっぱり店長は的確だった。色々な人生を読み解く作業を、少しだけ楽しく感じるようになった。幸せも苦しみも、人の感情は多様な変化を見せる。少しずつ、あたしも好きなことを感じ始めてる。
「そう言えば今日、時計の電池切れちゃって。でもちゃんと、取り替えたよ」
「そうですか」
 店長は目を細めるようにして笑った。胸が痺れたような不思議な感覚があった。もっと色々、店長と話してみたい。ゆっくり、埃が積もるくらい。
 そうだ、カーテンを買いに行こう。部屋が明るくなるように、桜色のカーテンにしよう。ここにはきっとちょっとだけ、長くいることになりそうだから。


<fin>



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