僕が梯子から転落する間際に見たのは、窓辺にいた誰かの存在だった。その部屋は位置的に考えて屋敷の西側、最奥へと続く細い廊下の突き当たりだと言うことはぼんやりと理解していたものの、僕の意識が直視することを避け続けていた。考えないように、思い出さないように鍵を掛け、荊を巻き付け、心の奥へと押し込んでいたそれは真実へと続く扉だ。そしてその荊を少しずつ取り除き、扉の番人となってくれていたのは、ユリアでもカレンでもビアンカでもなく、ルシオラだということにも気付かないふりをしてきた。
「薔薇は記憶の鍵、螺旋の渦」
 細い廊下の突き当たりで、まるでこの時を長年待ち続けていたかのように不自然に白々と輝く扉を指でなぞりながら、僕は呟いた。隣でルシオラが不思議そうな顔をしていたので、思わず苦笑する。
「初めて会ったとき、君が言ったんだよ。忘れたの?」
「そうだっけ」
「そうだよ。でも不思議だな。君がここに来たのはこの間のはずなのに、もうずっと前からいるような気がする」
 でも、と僕は心の中で呟く。彼はここに染まってはいけない。
「君だけじゃなくて僕ももう潮時なんだよ。招かれざる客だからね」
 そのルシオラの発言に疑問が浮かんだが、僕は敢えて口に出さなかった。僕はそれを含めた色々なことを、これから知ることになるのだから。
 僕は真鍮のドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと握り締めた。恐怖でかじかんだ手のひらよりもっとずっと冷たいそれは、骨まで凍り付かせるのではないかと危惧するほど無機質で残酷なものだった。真実と向き合う決心がついたにも関わらず、一瞬にして手を離してしまいたい衝動に駆られた刹那、ふいに温かい手のひらが僕の手を包み込む。
「一緒に開けてあげる」
 ルシオラの体温が僕の弱さを吸い取っていき、変わりに心強さを与えてくれたような気がした。僕は今度こそ手に力を込め、少しずつドアノブを回す。すると留め金が外れる音が控えめに響き、扉はひとりでに開いた。やはり鍵など掛かっていなかったのだ。僕が僕の記憶を封じ込めるため、意識から遠退かせるための抵抗がそれだったのだろう。
 僕は薄靄がかかったかのように明瞭ではないその先へ、足を踏み入れた。だが床に足がついた途端、薄靄は風にかき消されたかのように一瞬にしてなくなり、僕の瞳に今まで忌避し続けていたものが飛び込んでくる。
 僕とルシオラが立っていたのは、左右に続く廊下だった。それぞれの突き当りにある小さな窓からは薄い光が差し込み、正面には等間隔にドアが五つ並んでいて、これと言って不審なところもない。だが、この場所に立って初めて、僕がここに足を踏み入れたのは最初ではないと感じる。
「元々、ここに扉はなかったんだ。あとから作ったんだよ」
 いつだったか、回廊からこの細い廊下の先を見た際に、向こう側の扉が見えていた光景が流れ込んできた。僕は扉を振り返って検分する。
「ほら、壁の色が違う。全く同じ素材には出来なかったんだ」
 虫食いの葉のような断片的なものだが、その時の状況が出来上がっていく。
 ある日突然、職人がやって来たと思ったら、いつの間にかこの扉があちらとこちらの橋渡しになっていたのだった。その時の僕には何故そんなことをする必要があるのか全く分からなかった。
「どうしてこんなことをしたんだっけ……」
 どうしてもそれだけが思い出せず呟いたその時、僕の話を黙って聞いていたルシオラが後ろを振り返った。僕も彼に倣うと、見計らったかのように一番左側に位置する扉がひとりでに開いた。ゆっくりだが空間を引き裂くような悲鳴にも似た音が、まるで僕の心境を表現しているかのように切々と響き渡る。完全に開き切ったのを確認したあと、僕とルシオラは顔を見合わせ、その扉に足を向けた。
 その部屋の前に立った僕は驚きで小さい声を上げ、そのあと自分の目を疑った。だがルシオラは声さえ上げず、むしろ目を細めた険しい表情でそれをじっと見据えている。
 部屋の中には、人がいた。質素な使用人服を来た中年の女性と、白を基調とした服を着た若い女性が、扉の真向かいにある窓の側で話し込んでいる。そして中央に置かれた椅子には初老の男性が腰掛け、不安げに組み合わせた手をテーブルに置いていた。僕は若い女性に目を奪われた。彼女は以前、回廊を歩いて細い廊下を通り、例の扉をすり抜けてしまった幽霊その人だったのだ。だが今は以前よりはっきりと、幽霊とは言いがたい姿で存在していた。
「あの……」
 恐る恐る声を掛けるが、反応はない。彼らの位置からして僕たちが視界に入っていることは確実なのだが、何故か気付いた素振りを見せない。
「だから、わたし説得したんですよ」
 その時、まるで示し合わせたかのような時機で使用人の女性が話し始めた。
「それなのにセシル様はここに残ると言い張るし、伯爵様は伯爵様で辛くなれば折れると思ったんでしょうね、次々とあの子たちを連れて来られたんです。ところがセシル様はあの子たちと仲良くなり、覚悟まで決めてしまったんです」
「それなら、こうなる前にあなたが無理にでも彼を外へ連れ出すべきだったのではないですか? ここにいることがどんな結果に繋がるか分かっているでしょう。彼を思えば、何だって出来たはずです」
 若い女性は優しそうな表情を悲痛に歪め、どうすることも出来ない苛立ちを使用人の女性にぶつけているようだった。
「だから先程も言いましたでしょう。あんなにお優しくて物分りのいいセシル様が、これだけは絶対に聞き入れて下さらなかったんです。わたしにだって常識はございます。けれどそれを持ってしても、連れ出すことが本当にあの方のためになるのか分からなくなるほどの取り乱しようでしたもの」
「それでも、彼のことを考えれば……」
「あなたはセシル様のことを良く知らないのだし、あの場にも居合わせなかったのだから、綺麗ごと、正論しか言えないんです。それで解決出来るなら、わたしだってこんなに苦労はしません」
 使用人の女性が語気を荒げると、若い女性は一瞬口を噤んだ。
「伯爵様に掛け合って、あの子たちをここから連れ出すべきです」
「それも無理ですわ。あの子たち、家柄こそいいものの、半分厄介払いのような扱いでここに連れて来られたとか。まあ確かに、家に帰ることは出来なくても、他に良い方法はたくさんあるでしょう。けれどもセシル様の問題が残っています。もし今になってあの子たちとセシル様を引き裂いたらどうなるか、伯爵様は良く分かっておいでです。あの方だって現状を変える術を持たずに苦しんでおられるのです」
「わたしには、全てセシルさんに問題があるようにしか聞こえませんわ。でもそれなら、どうしろと言うのです? 周りの人たちが助けようとすること全て彼を暗闇へ突き落とすのなら、黙って見ていることしか出来ないとでも仰るのですか?」
「ええ、わたしはそうするしかないと思っています。でも分かっていただきたいのは、セシル様だけがこの問題を引き起こしたのではないということです。むしろ長年に渡って痛みを肩代わりし続けた結果がこれなのだと、わたしは思っています」
 その時、初めて初老の男性が口を開いた。
「現にセシルは、アシュレイ伯爵を憎んでいる。いや、それとも違うな。失望しているのかもしれない。不運が重なったと言い訳をしたところで、あの子の脆い精神では受け止められまい。裏切られたとしか感じられないのだろうよ」
 初老の男性がそう言うと、いきなり彼らの姿が砂のように消えて無くなった。
 僕は呆然とその場に立ち尽くす。今の光景は一体何なのだろう。目の前から誰もいなくなったにも関わらず、僕の周りで彼らの声が渦のような螺旋を描いている。聞きたくないのに耳を塞いでも、見たくないのに目蓋を閉じても、言葉と映像が流れ込むのを止めることができない。
「セシル様、あなたはここに留まると仰るのですか?」
 眉根を寄せ、憐れなものを見る目付きで使用人の女性が問い掛ける。これは僕の記憶だ。
「話してごらん、セシル。私は君を助けたい」
 初老の男性が親身になって僕の肩に手を置いた。だが、僕はすぐに身を捩る。
「少しでも学校に戻られてはどうですか? きっとここにいるより楽しいですよ」
 無理に何でもない風を装った若い女性が、たった今思いついたように見せかけて、何気ない会話に紛れ込ませた言葉。僕は彼女が言いたいことを我慢していることを知っている。
 息苦しかった。見えない手で優しく首を締め上げられ、感情のままに叫び声を上げることが出来ない。だから僕は心の海に沈み、海底で僕にしか聞こえない叫び声を上げ続けるのだ。例えいくら声を張り上げても、誰の耳にも届くことなく泡沫となって消えてしまうのだとしても。
「セシル、私は君にどう償えばいいだろう。分かってもらえるだろう」
 アシュレイ伯爵が目の前に立ち、真摯な態度で僕に問い掛ける。しかし僕には、彼に対して何の感情も覚えない。不憫だとも滑稽だとも、ましてや憎悪でもなく、全ての煩悩を通り越した無感情だった。
「償ってもらわなくても結構です。もう僕の前に現れないで下さい」
 過去に、僕はアシュレイ伯爵にそう言ったのだ。記憶の中の声は自分とは思えない、抑揚の無い返答だった。あまりの無感情さに自分の声でありながら恐怖を覚え、そして僕にそう言われたアシュレイ伯爵の絶望も感じ取った気がした。
「これが、僕が隠し続けてきた真実?」
 両耳を塞いでいた手を下ろし、目蓋を開け、僕はそう呟いた。しかし僕はすぐに首を振る。
「違う、これはまだ欠片なんだ。そうなんだろ、ルシオラ」
 横に立っているルシオラを見遣ると、彼は黙って頷き、僕の服の袖を引いた。
「次の扉を開けなくちゃ」
 僕は黙って部屋の扉を閉めると、隣の扉の前へ移動した。僕はそのドアノブを、今度はルシオラの助けを借りることなく回す。確かに開いた手ごたえがし、そのまま押し開くと、次第に中の様子が明らかになる。見た限りでは先程の部屋と同じ造りで、家具などの位置も殆ど変わらないようだったが、僕は何故かベッドに目を奪われた。
 部屋の中に足を踏み入れ、ゆっくりと近付いていくと、天蓋の影になったところから見知った顔が見えたことに言葉を失った。その人物はベッドから身体を起こした状態で、窓の外に視線を送っている。とても穏やかな表情をしていて、午後の光に縁取られた横顔は彼が描く絵の流れるような線に似ていた。
「ユリア」
 何故、どうして。聞きたいことは溢れるほどあるのに、僕の口からは彼の名だけがぽつりと漏れた。するとゆっくりと僕の方を向いたユリアが、困ったように苦笑する。
「セシル、来てくれるのは嬉しいけど、程ほどにしないとまた怒られるよ」
 僅かに呆れたような、しかしそれよりも嬉しさが勝った口調でユリアは言った。僕は半ば熱に浮かされたようなぼんやりとした気分で彼の側に近付くと、窓を開け放った。風に乗った薔薇の香りが室内に広がる。
「心配しなくても大丈夫だよ。今、ビアンカとカレンがクレアを見張ってくれてるから。それより調子はどう?」
「大分いいよ。熱も下がったし、だるさも殆どないし。ただ暫く外に出てないから、さすがに退屈だな」
 僕を安心させようと無理をしているのだろう、ユリアは柔らかく微笑んだものの、その顔には疲労が窺えた。調子がいい日はベッドの上でも絵を描いているのに、今日はそれをする意欲すらないようだった。
「早く良くなって欲しいな。ユリアがいないと寂しいもの」
「そう言ってくれるの、セシルたちだけだよ。僕、ここに来てみんなと毎日を過ごせて、本当に幸せだと思うんだ。家が安心できるところじゃなかったから、こんな風に自分の居場所だと思えるところが出来て嬉しいよ」
「家、嫌いなの?」
「嫌いって言うより両親や兄たちがいがみ合っていて、いい気がしないんだ。平民以上貴族以下の身分だから両親は何もすることがないし、兄たちはお金を湯水のように使うし、加えて僕はこんな身体だろう。いいことなんてひとつもないってさ。付き合いがあったアシュレイ伯爵からこの話を持ちかけられたとき、両親は二つ返事で了承したんだ。息子に手を焼くのはもう懲り懲りだったんだろうね。その時は人並みに哀しかったけど、今思うと良かったと思うよ。ここの人たちはみんな優しい」
 そう言って穏やかな視線を向ける彼にもまた満たされない思いがあることを知った僕は、どう言えばいいのか分からないまま視線を落とした。ユリアは慌てた様子で続ける。
「ごめん、いきなりこんな話聞かせて。今日は朝から感傷的な気分で駄目だな」
 そう言ったあと、風を吸い込んだような音がしたと思うと、ユリアは激しく咳き込んだ。僕は背中を擦ろうと駆け寄ったが、すぐに彼は僕を突き放す。
「出て行って……」
 搾り出すような声でそれだけ言い、身体を丸めて更に激しく咳き込む。まるでユリアの身体の中に住む別の生物が怒り狂って暴れているかのように、痩せた肩や背中が破れんばかりに大きく震えている。僕は震えるような恐怖を感じてその場から逃げ出したが、扉まで来ると恐る恐る背後を振り返った。
 ベッドの上掛けに、鮮やかな花弁が散っていた。彼の胸に咲いた真紅の薔薇が、今散ろうとしているのだった。目に強烈な印象を残すそれは、一枚、また一枚と白いキャンバスを染めていく。彼の絵に、あの毒々しい赤は似合わないのに。
 僕は弾けるようにユリアの部屋を飛び出し、半分開いた状態になっている右隣の扉を勢い良く開け放った。そこにはインクを零したような夜の闇が広がっていて、窓から差し込む月光だけが唯一の光だった。窓辺に佇み、その光を一身に受けているのは、まだエプロンを外していないカレンだった。彼女は僕がいることに気付くとハンカチで頬を拭ったが、瞳からは涙が途切れることなく溢れ出していたため、あまり効果はないようだった。
「セシルも眠れないの?」
 震える声で問い掛けられ、僕は頷いた。
「わたしもなの。ユリアがもういないなんて信じられなくて、涙が止まらない。ねえ、セシル、あの時ユリアと何の話をしていたの?」
「ユリアの家のことを聞いたんだ。あまり良い環境じゃなかったらしいけど、今はここにいられて幸せだって、そう言ったよ。やっと居場所を見つけたって」
「良かった、彼もわたしと同じ気持ちでいたのね」
 するとカレンは力が抜けたかのようにその場に座り込んだ。頭を壁に預け、月光に照らされた額には汗が滲み、胸は苦しそうに上下している。側に寄って手に触れると、驚くほど熱かった。だが、どうにかしなければと立ち上がろうとした僕の手を、驚くほど強い力が引き止める。
「わたし、情けないわ。ビアンカを、お嬢様を一人にしないと約束したのに、もうすぐ一人にしてしまう……」
「カレン、カレン、何を言ってるの? 今誰かを呼びに行くから、手を離して」
「聞いて欲しいの、セシル。わたし小さいころにも一度、この病気になったの。家は貧しかったのだけど、近くのお医者さんがわたしを哀れんで、無償で転地療養をさせてくれたわ。髪も赤いのに肺まで赤くするのは哀れだと言って。そこは海辺の綺麗な村で、地元の人も優しくて、二年ほどで症状は治まったの。でも家に帰ったら、もうわたしの居場所が無かったわ。貧しくて、せっかく治って帰って来てもそれどころじゃないの。わたしはそれからすぐ住み込みの仕事を始めて、ビアンカお嬢様に付いてここへやって来て、そして自分の居場所を見つけることが出来たのよ」
 カレンはそこまで言うと、力無く微笑んだ。月光に照らされているせいもあって、肌が陶器のように青白く、唇の色さえ白い。
「再発してしまったけれど、生き長らえた時間はとても有意義で幸福だったわ。セシル、最期までビアンカお嬢様に付き合ってあげて」
 その途端、僕の手を掴んでいたカレンから力が抜け、鈍い音を立てて床に落ちた。
 僕は呆然と未だ彼女の温かみが残っている手のひらを見つめる。今まで生きて動いていたものが一時を境に動かなくなってしまう刹那を繋ぎとめることが出来ないのなら、この手は何のために存在しているのだろう。
 僕はのろのろと立ち上がり、闇がこもった部屋を出ると、更に右隣の扉を開ける。開け放った窓から吹き込む風がレースのカーテンを波打たせたかと思うと、外から白い薔薇の花弁が螺旋を描いて入り込んできた。吹雪のようにそれは続き、膨らんだ寝台の上にも容赦なく舞い落ちる。風が落ち着いたあと、僕は寝台に横になっている人物の側へ行き、ベッドに腰掛けた。
 金糸の髪を広げたビアンカの頬は僅かに上気していたが、夢の中をさ迷っているようで静かな寝息を立てていた。僕は彼女の側に散らかっている、本やら人形やら、その他の色々な玩具を片付けようと手を伸ばしかけたが、寸でのところで止まった。何故なら、それらはまるで彼女の孤独を和らげようと寄り添っているように見えたからだ。その時、ビアンカの目蓋が開き、青い硝子玉が滑るように僕に注がれる。
「セシル、いつからいたの?」
 まだ夢から覚めない、うっとりとした声で彼女は呟く。
「さっき来たばかりだよ。ごめん、起こした?」
「ううん、平気。夢を見ていたの。ねえ、手を握ってちょうだい」
 僕は言われるままにビアンカの小さい手を握った。熱で汗ばんだ手のひらは吸い付くようだった。
「どんな夢を見てたの?」
「小さいころの夢だったわ。あたし、生まれつき身体があまり丈夫じゃなかったから、保養地を転々としてたの」
 天上の一点を見つめながら、ビアンカはぼんやりと話し始めた。
「初めのうちは父様も母様も付き合ってくれたんだけど、物心つく頃にはもう一人ぼっちだったの。すぐ倒れたり寝込んだりするから見切られたんだと思うわ。あたしはずっとたくさんのメイドに囲まれて一人ぼっちだった。でもこの病気に罹ってから、新しいメイドがやって来たの。それがカレン。カレン、あたしと同じ咳をしているのに辛い顔ひとつ見せないで働くの、あたしは何もするなってベッドに縛られているのに。それに気付いてからだわ、あたしとカレンが仲良くなったの。今まで友達なんていなかったから、カレンが最初に出来た友達なのよ。友達なんだから呼び捨てでいいって言ったのに、やっと慣れてくれたのは最近じゃないかしら。母様の兄……アシュレイ伯爵に話を持ちかけられたとき、あたしはカレンと一緒になら行くって言い張ったの。だってカレン、そうでもしないと身体を休められないでしょう。ここは来て良かったって心から思える場所よ。ユリアもカレンもあたしを置いて逝ってしまったけど、前ほどあたしは一人ぼっちだと思わなくなったの」
 そこまで言うとビアンカは疲れたらしく、目をゆっくりと瞬き始めた。
「もう夏も終わるよ、ビアンカ。薔薇も少しずつ散り始めてる」
 僕は彼女を引き止めるかのように、手を強く握り締めながら言った。徐々に力が抜けていくのを感じないように。
「あなたの、薔薇の色は……」
 血管が透けて見えるほど落ち窪んだ目蓋が震え、熱い息を吐く唇がゆっくりと動いた。だが最後の言葉を言い終える前に、窓から入ってきた風が声をかき消してしまう。僕と眠りに付いたビアンカの間で薔薇が旋回し、身体に巻きつかんばかりに絡みつく。僕はやっと現実を思い知る。ユリアも、カレンも、ビアンカも、もうこの世にはいないのだと。
「彼らの病気は空気感染してしまう、だからこの道を塞いだんだよ。君を守るために」
 目を開けると、正面にルシオラが屈んでいた。彼の背後には白い扉が、僕を見下ろすかのように聳え立っていた。
「僕を守って欲しくなんかなかった。僕も同じ病気になったって構わないと思ってたのに」
 むしろ、なってしまいたかった。そうすれば僕はアシュレイ伯爵から逃れ、この思い出が染み付いた屋敷で最期を迎えることが出来る。それなのに無常にも死神は僕の命ではなく、大切な人たちの命を次々と奪っていく。皮肉にも、薔薇が咲く季節に。
「セシル、立って。最後の扉を開けてないよ」
 ルシオラが言ったが、僕は立ち上がることさえ出来そうになかった。人は絶望に突き落とされると涙さえ出ない。僕の心には大きな空洞が出来ていて、哀しみの感情はそれに吸い込まれてしまったかのようだった。最後の真実を目の当たりにして、これ以上この穴を広げるなんてとても耐えられそうになかった。僕はきっと受け止められず、奈落の底に吸い込まれてしまう。
「君、僕を頼っただろ。僕は何のためにいるのさ」
 その時、ルシオラが僅かに怒ったような口調で言った。僕は一瞬にして目が覚める。本来ならば僕だけで受け止めなければならないものを、一緒に付き合って欲しいと頼んだばかりに、僕と同じ痛みをルシオラだって感じているのだ。
 僕は顔を上げた。揺ぎない真っ直ぐな視線が、一人ではないことを訴えかける。僕は立ち上がり、最後の扉の前に立った。震える手でドアノブに手を伸ばすと、僕の恐怖を感じ取ったらしいルシオラが、再び手を重ねてくれた。何故彼は自分が傷付くことを恐れず、他人である僕を支えてくれるのだろう。
「ルシオラ、君はどうしてここに来たの。荊の垣根を通り抜けてまで」
「だって僕ら、兄弟だろ」
 澄み切った青空のような瞳を少しも逸らすことなく、彼は平然と言い放った。不思議と驚きはなく、彼を目の前にしたときの違和感の理由が僕の胸にじわじわと押し寄せる。僕たちはとても良く似ているのだ。
 そして僕は心強いルシオラの体温を感じながら、ゆっくりと扉を開け放つ。その部屋は思わず目を覆ってしまうほど、力強い落日の太陽に照らされていた。正面にある窓から真っ向に光が差し込んでいて、部屋全体が橙色に満たされている。
「母さん……」
 部屋の全様を見た瞬間、僕はそう呟いていた。窓際に設置してあるベッドに、輝くような金髪を波打たせた女性が身体を起こしていたのだ。膝の上には純白の薔薇の花束があり、微笑みながら抱える姿は少女のように儚げだった。
 突然、母との記憶が少しずつ流れ込んでくる。その薔薇は僕が母のために切ったものだった。この日は母の誕生日だったのだが、体調が優れず部屋には入ることができなかったので、メイドのクレアに頼んで渡してもらったのだ。それは僕が11歳のとき、ユリアやカレン、ビアンカに出会う少し前の初夏だった。
 母はもっと香りと嗅ごうと思ったのか、薔薇を顔に寄せた。しかし、すぐに苦しそうに咳き込み始め、上半身で薔薇を覆うように身を屈めた。何度もこもるような咳を繰り返し、呼吸をするのも困難な様子に、僕は目を逸らしたい衝動に駆られた。母がこんなに酷く咳き込む姿を見るのは初めてだった。その理由は、母は僕に病気をうつさないようにするために細い廊下の突き当たりを閉鎖し、その奥で殆どの時間を過ごすようになったためだ。だから僕は母が発病してから3年間、調子のいい日しか会うことを許されず、日々寂しさを募らせていったのだ。
 花束は渡してくれるよう頼んだものの、僕はこの日、どうしても母の顔を見て誕生日を祝いたかった。クレアが頑固なことは承知だったので、僕は強行突破に出た。梯子をこの部屋の窓にかけ、窓越しに母と対面しようと思ったのだ。しかし、嬉々として部屋を覗いた瞬間僕が目にしたものは、血を吐いて絶命している母の姿だった。背中を焦がす太陽と、部屋の中に長く伸びる濃い影、そして血で赤く染まってしまった薔薇の花束。僕はその時絶望に足を掬い上げられ、梯子から落下したのだ。
 僕は目蓋を閉じ、思い出した真実一つ一つを再構築していく。母の死、ユリア、カレン、ビアンカの死、僕自身の絶望、僕とルシオラの関係、そしてアシュレイ伯爵に対する確かな憎しみを。
「全て思い出したかね、セシル」
 声のした方を振り返ると、沈んだ表情のアシュレイ伯爵が佇んでいた。
「約束通り、君の答えを聞きに来たよ」
「いいえ、まだです、アシュレイ伯爵。僕はあなたに確かめたいことがある」
 口調が強くなるのを抑えることが出来ない。ふとした瞬間笑顔を翳らせ、泣き出すこともあった母。食べ物が喉を通らず、熱にうなされて呟いた名前。僕はずっと母の哀しみを食べ、絶望と共に眠り、彼女が捌け口を必要としているのなら惜しみなく僕自身を捧げてきた。けれど、僕の力ではいくら頑張っても母の哀しみを取り除くことなど不可能だったのだ。彼女が焦がれ続ける、ただ一人の男が現れない限り。
「どうしてあなたは、一度も母の元を訪れなかったのですか? 当時、僕は知らなかったけど、クレアは絶対に筆を取ろうとしない母に内緒で、何度もあなたに手紙を書いたと言っている。赤い病に罹って、もう死を待つしかないこと、あなたを待っているから一度だけでも会いに来て欲しいこと。それも一度じゃない。あなたのところにはクレアからの手紙が届いていたんでしょう? 母の病のことも知っていたのでしょう? それなのに何年も無視し続けておいて、母が亡くなった途端に現れるなんて……」
「クレアからの手紙は届いていた。しかし、わたしが目にする前に捨て去られていたのだよ。妻が、わたしとローラが秘密で会うことがないよう目を光らせていたんだ」
 アシュレイ伯爵は言い訳をするのに必死な様子ではなく、半分諦めかけたような口調で言った。僕は俄かには信じられなかった。
「じゃあ、母が亡くなった知らせだって、目を通していなかったはずでしょう」
「妻がその手紙を読み、喜んでわたしに知らせたんだ。わたしはその時初めて知ったんだよ、ローラが赤い病で床に伏していたことを。わたしは妻にではなく、自分自身に後悔した。いくら会うことを禁じられているからといって、何故一度でも会いに行かなかったのかと。だからわたしは彼女の死後、償いの気持ちでここを訪れた。そして君に再会した」
 その時のことはよく覚えている。僕は梯子から落下したが、薔薇の茂みに落ちたお陰で大した怪我もなく、それよりも母が死んだという事実を受け入れられずにベッドから起き上がれないでいた。その時、クレアが紳士を連れて来た。僕は一瞬にして、この男が母を苦しませていた張本人だと理解し、今更になってやって来たことに対して憎しみを持った。そんな不誠実な男が父親だとは、とても思いたくなかった。
「君はその時11歳だった。わたしは驚いた。君とルシオラが、鏡に映したかのように似ていたから」
「双子なんだから当たり前です」
 僕は隣のルシオラと目配せをした。僕の目の前に僕がいるような不思議な感覚だった。髪の色から瞳の色、背丈や声まで一緒なのに今まで彼が兄弟だと気付かなかったのは、やはり僕の心が真実を忌避し続けていたからなのだ。
「しかし、その時の君は痛々しくて見ていられなかった。落ちたときの傷もそうだが、ローラを亡くした絶望が君を苛んでいるのがすぐに分かったからね。それと、わたしに対する憎しみが」
「……あなたは語ってくれましたね。あなたと母のことを」
 父、グレン・アシュレイは、社交界で出会った母、ローラと恋に落ちた。母は男爵家の令嬢で、伯爵家に嫁ぐのに申し分ない美貌と知識、気品も兼ね備えていたらしい。いずれは結婚させようと両方の親も同意し、二人は幸せだったそうだ。だが、事態は母が子供を身籠ったことで一変してしまう。結婚前に身籠った母は、父の子だとしてもアシュレイ伯爵家から婚姻破棄を言い渡され、二人は引き裂かれてしまった。父は伯爵邸に軟禁され、母は子供を下ろすことも出来ず、やがて僕とルシオラは望まれない環境で出生を果たしたのだった。風の噂で母が出産したことを知った父は伯爵邸から抜け出し、母のところへ行こうとしたが、門番に捕まってしまう。僕の祖母にあたる人は、このままだとあの娘と会ってしまうだろうから、即刻田舎へ送ってしまうのが得策だと主張した。父はそんなことをするなら一生結婚はしないと言い出したので、もし本気なら大変なことになると、生まれた子供の一人を父の元で引き取ることにしたらしいのだ。アシュレイ伯爵家で育ったのがルシオラ、母と共に田舎に追いやられたのが僕というわけだ。
「わたしはあれから両親の意向で結婚させられたが、妻は嫉妬深い人でね。わたしの心が未だローラに向いていることが耐えられなかったのだろう。届く手紙を片っ端から読んだり、わたしが外に出るときも必ず誰かが一緒だった」
「僕はその話を信じました。母は、本当にあなたのことで苦しみ続けていたから。でも、あなたが僕を引き取るという申し出を受けるわけにはいかなかった。僕はあなたを父親だと感じたこともない、むしろ母の心を踏みにじった憎い相手だとしか感じられなかった」
 僕がいくら拒否しても、母に対する償いを感じていたのだろう、アシュレイ伯爵は譲らなかった。どちらも譲らず一ヶ月が過ぎたころ、彼は突然ユリアとカレン、ビアンカを連れて来た。
「そうしたらあなたはユリアたちを連れてきて言いましたよね。ここはローラと同じ赤い病を患った子供たちを療養する場所になった、君は無関係なのだから、観念してわたしに付いて来なさい」
「無理にいられない状況を作らなければ、君は折れないと思った。しかし君たちはすぐに意気投合してしまい、わたしは次に、君がローラと同じ病で苦しむ彼らを見て辛くなり、折れることに期待した。しかし、君はソフィアを失った哀しみを何度も味わおうとするかのように、この場所に執着し続けた。けれどそれが仇となり、君の傷を更に広げる結果になってしまった」
「僕はあなたが何度迎えに来ても、それに応じなかった。そうしているうちに3年が経ち、最初にユリアが、その日の夜中にカレンが、2ヵ月後にビアンカが次々と息を引き取った」
 彼らが咳をする度、血を吐く度、白い薔薇が真紅に染まる瞬間を想像して、僕はひとり絶望に震えていた。母が死に、やっと心を許せる友達が出来たのに、彼らもまた長く生きられない。彼らがいなくなってしまえば、僕は大切な人が一人もいない世界で今度こそどう生きればいいのか分からなかった。
「そうだ、ビアンカが亡くなったとき、完全な孤独が僕の中で生まれたんだ。クレアやシェリーや先生がずっといてくれたような気がするけど、僕はそのときのことはあまり覚えていない。ただただ孤独で、去っていった人が夢の中に出て来るんだ。だから僕は、彼らのところに行こうとした」
 僕は振り返り、赤々とした太陽が強い光を放っている窓辺に歩いて行った。窓を押し開け、下を覘く。
「僕はこの部屋のこの窓から飛び降りた。でも飛び降りて、どうなったんだろう」
 自分に問い掛けるように呟いた言葉は、風が薔薇を撫でる音でかき消される。僕には夢うつつでこの窓に足を掛け、直後に身体を包んだ浮遊感を覚えているが、それから先の記憶は見当たらなかった。
「セシル」
 突然、名を呼ばれ振り返ると、僅かに哀しげな表情を作ったルシオラが正面に立っていた。
「ちゃんと自分の痛みと向き合ったね」
「君がいてくれなかったら途中で挫けてた」
 だが、ルシオラは首を振る。
「違うよ。僕はずっと見ていることしかできないんだ。見守るだけ、側にいるだけ」
「それがどれくらい心強かったか分からないよ、ルシオラ。僕はとても弱いから」
 僕は彼に何度助けられたか分からない。僕の心を守るかのような荊の茂みに、傷付くことを恐れもせずに来てくれた、そのときから。
「セシル、気付いてた? ビアンカたちもそうだったんだよ。君が好きで、君に助けられていた。君が最期までずっと側で支えてあげてたから、彼らはここで元気な姿だったんだ」
 僕ははっと胸をつかれた。彼らの存在が落下していく僕を繋ぎとめていたように、僕もまたその手を握り返すことで彼らの支えになっていたのだろうか。
「僕はみんなにとって、必要な存在だったの?」
 確かめるように呟くと、ふいに涙が零れた。もう涙は流れないのだろうと思っていたのに、枯渇した場所から次々と水が溢れ出す。静かな哀しみの涙だった、そして優しさの涙だった。それは床に落ちると卵が割れるような弱々しい音を響かせ、粉々になった粒子がそこここに散らばった。
「君は虹を抱いてるんだ。七色の希望の虹」
 ルシオラは僕の頬に触れ、涙を拭ったと思うと、手のひらに乗っているものを僕の前に差し出した。
「君の涙は希望になって、彼らの降り注いでいた。たくさんのヒビと、たくさんの虹を抱いたフローライト。ほら、君の瞳の色と同じだ」
 僕はルシオラの手から今生まれたばかりのフローライトを一つ手に取った。それは青空のように優しい涙の色をした、落とせばすぐに壊れてしまうほど脆い僕の心だった。指の中で転がすと、ふとした瞬間に虹が翻る。まるで雨上がりの空に浮かぶ虹を見たときのように、心が穏やかで優しい気持ちになる。
「ねえ、セシルはこれからどうしたい? 父さんの手を取る? それとも僕の手を?」
 ルシオラは静かに問い掛ける。アシュレイ伯爵の手を取るということが何を意味するのか、痛いほど知っていた。僕はその迎えを哀しい期待の中で待ち望んでいた。ルシオラがやって来て、僕の心を捏ね回すまで。
 僕は全ての真実が詰まった僕の心、フローライトに目を落とす。
「僕の罪は、哀しみの中に希望を見つけてしまったこと。君が悪いんだよ。僕をこんな風に引き止めるから、哀しみを受け入れて虹を歩かなきゃいけないじゃないか」
 一瞬目を瞠ったルシオラだったが、すぐに口元に微笑を浮かべる。
「精々、生きて償えばいいよ」
 その言葉が背中を押し、僕はフローライトを口にした。甘いような苦いような味が一瞬にして口に広がったと思うと、自然と目蓋が重くなる。耳の奥で、頬を滑ったいくつものフローライトが落ちて粉々になる音がこだまする。
「これで温室も壊れる」
 僕は薄れゆく意識の中で呟いた。粉々になって壊れた硝子の破片が光を受けてきらめき、雨のように降り注ぐ様を想像する。その様子はとても美しいのだろう。
「僕はもう君が遠いだなんて感じない。だから心配いらないよ」
 自分に言い聞かせるようなルシオラの声が一瞬途切れ、再び僕の耳を震わせる。
「さあ、二つ目の目蓋を開けて」



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