曲がりくねった石畳の道を、僕は歩いていた。
 周りにたくさんの木や草が群生しており、手でかき分けながら少しずつ進んでいく。暫くすると温室が現れ、僕は何かに導かれるように扉を押し開けた。中は脳が麻痺したようにぼんやりとするほど温かく、季節を問わない花や木が所狭しと栽培されていた。
 僕はそれを目に入れながら、最奥へと足を伸ばす。すると、突き当たりに誰かがこちらに背を向けて佇んでいる。僕が足を止めると、相手は見計らったかのように振り向いた。金の髪が揺れ、青い瞳が真っ直ぐ僕に注がれる。
「ルシオラ」
 見知った顔であることに安堵した僕だったが、彼の剥き出しになった手足に無数の傷があることに驚く。
「傷、治ったはずなのに、どうして。平気なの?」
「ねえ、セシル」
 ルシオラは僕の質問を遮るかのように口を開いた。
「僕はそれほど強くないんだよ。腕だって脚だって、痛くないわけじゃないよ」
 僕は心を読まれたかのようにひやりとする。今までルシオラは飄々とした態度を取っていたし感情を表に出すこともなかったので、掴み所の無い少年だと感じていたのだ。僕は返す言葉もなく押し黙る。
「でも、君の痛みに比べたら、こんな痛みどうってことない」
「僕の痛み?」
 僕は自分の身体を見回した。だが、ルシオラのように傷があるわけでもなく、どこかが痛むわけでもない。
「僕はどこも痛くなんかないよ」
「見えないふり、感じないふりをしているだけだよ。ねえ、君はどうしたいの?」
 僕には話の筋が見えないのにルシオラの口調は真剣そのもので、向けられる瞳はいつになく青い。
「まだ迷ってるの、セシル。アシュレイ伯爵が君を迎えに来るんだよ」
 その瞬間、僕の胸は高鳴った。彼と共にこの閉鎖された場所から出ることを想像しただけで、震えるほどの喜びを感じる。僕はずっと願っていた。笑みを浮かべたアシュレイ伯爵が僕に手を差し伸べ、幸福と陶酔の中でその手を握る瞬間を。
「アシュレイ伯爵が迎えに来てくれるなら、僕はそれに従う」
「それが君の望みなの?」
「そうだよ。これ以上の幸福なんて考えられないよ。僕たちはその言葉を信じて、ずっと待っていたんだから」
 すると、ルシオラは不愉快そうに目を細める。
「それのどこが幸福だって? 君は弱虫だ。逃げてる。自分のことしか考えてない」
「ルシオラ、何をそんなに怒ってるの」
 以前この話をしても心を動かされた様子も見せなかった彼が、今は無表情の仮面の下で静かな怒りを滾らせている。僕にはその怒りがどこから来たのか理解出来ず、狼狽する。
「それは哀しくて苦しいことだって、分かったと思ってた。残った者にそんな思いをさせると分かっていて、君はあいつに着いて行くの? 見ろよ、これ」
 そう言ってルシオラが身体を横に退けると、今まで彼の身体に隠れて見えなかったものが姿を現した。それは薔薇の鉢植えだった。白い薔薇を一輪咲かせ、側には今にも開きそうな蕾が控えている。だが、以前まで咲いていた赤い薔薇は散っており、朽ちた茎が咲いている薔薇を引きずり込もうとしているかのようにだらりと垂れ下がっていた。
「赤い薔薇が二輪散っていて、もう一輪は咲いていたはずなのに、いつの間に散ったんだろう」
「たった今だよ」
 僕はふと、ルシオラの足元に目を遣った。そこには幾重にも重なったヴェールの残骸が、惨たらしい血痕のように落ちている。
「まだ散るには早いのに」
「僕が散らしたんだ。前に咲いていたのもね」
 その言葉で、僕の全身が粟立つのを感じた。苦し紛れに嘘を吐いているかもしれないと思ったが、ルシオラの瞳は揺るぐことなく僕に注がれている。僕は想像する。無表情のルシオラが、美しく、まだ咲いていられるであろう赤い薔薇をもぎ取り、細い指で花弁を一枚一枚ちぎっては捨てていく様子を。
「なんてことをしたんだ!」
 言葉と同時に身体が動き、僕はルシオラの肩を押さえて大きく揺さぶった。その途端、彼のポケットから小瓶が躍り出、地面に落ちると虚しい音を立てて転がった。中には何も入っていない。
「苦しいだろ、哀しいだろ?」
 彼は悪びれもなく、挑発するように言う。僕は唇を噛み締め、視線を落とした。彼の言葉の通り、苦しさと哀しさでどう感情の整理をつければいいのか分からなかったが、一方で全てを諦めたような冷静な自分もどこかにいるのだった。僕は何に悲鳴を上げ、何に絶望しているのだろう。
 突然、ルシオラは僕の手を振り払い、薔薇の鉢植えに近付いたかと思うと、朽ちた茎を乱暴に取り去った。僕が絶句する横で、その作業は神聖な儀式であるかのように続いていく。しかし、茎が引き裂かれ、捨てられる音が温室にこだますると同時に、僕の耳には薔薇の叫び声が響いてくる。その声は温室をも突き破って粉々にしてしまうのではないかと思うほど、高くて悲痛に満ちたものだ。
 僕はそれから逃れるように目をきつく閉じ、耳を塞いだ。すると叫び声の代わりに、静かな波動が聞こえてくる。僕の心を静めるようにゆったりと、生まれ来る前に遡ったように感じさせるそれは、身体を流れる血潮の音だ。赤い生命の営みだ。
 ひやりとした手が優しく僕の手首に触れ、ゆっくりと耳から引き剥がした。目蓋を開けると、僅かに眉根を寄せたルシオラの顔が目の前にあった。叫び声はいつの間にか聞こえなくなり、肝心の薔薇は不要な茎を取り払われて、真っ直ぐ太陽に身を晒していた。その姿は弱々しくも美しい。
「植物がより良く育つためには、他の部分を取ってしまうことも必要だよ。その分だけ残ったところに栄養が行き届く」
 ルシオラはいつになく声を落として言った。先程までは怒っていたのに、今は何かに苦悶しているかのように僕の目を見ようともしない。
「でも、それって残酷だよね。犠牲の上に強く生きろって言われても辛いだけだ。ましてやこんな温室の中で生きろだなんて」
「ルシオラ、どうしたの? 君、変だよ」
 するとルシオラは顔を上げ、僕をじっと見つめる。
「僕、残酷なんだ。無理やりエゴを押し付けて、君の傷口を抉っている」
「エゴ?」
「ねえ、今、僕たちの間には何の隔たりもないのに、どうしてこんなにも遠いと感じてしまうんだろう」
 彼にこんな弱気なことを言わせてはならない。僕の中で何かがそう叫んだ。
「そんなこと、君の口から聞きたくなかった。だって君は……」
 この後、何か大切なことを口に出そうと思っていたのに、いざとなると何を伝えたかったのか分からなくなってしまった。困惑する僕を宥めるかのようにルシオラは僕の目の前に手を翳すと、目蓋をそっと閉じさせる。
「そのまま聞いて」
 薄暗闇の中、近くて遠い場所からルシオラがゆっくりと語りかけてくる。その声を聞いていると何故かとても安心でき、心強さも感じる。
「ビアンカにフローライトをあげたよ。彼女、少しだけ泣いていた」
 僕は、先程ルシオラのポケットから飛び出した空の小瓶を思い出す。そう言えばあれには角砂糖ほどの大きさのフローライトが入っていたのだった。だが、いくらそれを欲しがっていた彼女でも泣くほどのことだろうか。嬉しかったのか、それとも哀しかったのか、フローライトを口にしていない僕には理解できない。
「僕は、君の傷を少しでも僕に負わせて欲しいと思ってる。だけど、最後に決めるのは君自身だよ」
「荊の垣根を抜けて来たときに、もう十分すぎるくらい負っているよ」
 呟くと、薄い目蓋の向こうでルシオラが僅かに微笑んだ気がした。それから一呼吸置いて、空気が震える。
「さあ、ひとつ目の目蓋を開けて」



 部屋を満たす温かい色が、生まれたての僕の瞳に優しい。
 薄いカーテン越しに差し込む光の穏やかさは朝のそれに良く似ていたが、断言するにはどうも頼りなかった。何故なら、今目覚めたというしっかりとした感覚がなく、脳に薄靄がかかっているかのようにぼんやりとしていたからだ。ずっと起きていたようで、ずっと寝ていたようで、どちらにしても疲労感だけが身体を包んでいる。
 起き上がろうと手足に力を入れた途端、激痛が僕を襲った。思わず呻き声が漏れ、ベッドに引き戻されるが、暫くして今度はゆっくりと用心しながら身体を起こす。
 ちょうどその時、様子を窺うかのように部屋の扉が静かに開き、ビアンカが顔を出した。僕と目が合うと表情を輝かせ、跳ねるように駆けてくる。
「良かった、目が覚めたのね。このまま起きなかったらどうしようって思ってたんだから。丸二日眠ってたことになるかしら」
 その言葉で僕が眠っていたことが分かったが、何か大事なことを忘れているような気がしてならなかった。言葉を返さないでいると、ビアンカは僕の顔を覗き込む。
「覚えてないの? セシル、鉄柵を越えようとしたときに落ちたのよ。でも運良く荊の茂みに落ちたから、その傷だけで済んだと思うわ」
「荊の茂みに落ちた?」
 呟くように繰り返すと、突然その時の場面が鮮明に思い出された。木々のあわいから差し込む夕日、脆弱な梯子に身体を預けている不安と浮遊感、背中に張り付く焼けるような熱さ、そして窓辺には。
「セシル、セシル!」
 耳の奥で細い音が響いている。それは幾重にも螺旋を描き、僕の脳で更に複雑な絡まりとなる。
「思い……出させないで……」
「ちょっと、セシル、どうしたの?」
 悲鳴にも似たビアンカの声で、僕は我に返った。心臓が生き急ぐかのような速さで躍動している。
「どうして君はここにいるの。ここから逃げないとアシュレイ伯爵が来るよ。僕のことなんか放っておいて、君だけでも早く」
 僕は脱走に失敗した挙句に意識を失い、大した怪我でもないのに丸二日眠り込んでいたことを理解する。恐らく、そんな僕のためにビアンカとルシオラは計画を遂行できずに留まったに違いない。
「あたしがそんなこと出来るように見える? 今までずっと一緒だったのに、セシルはあたしの何を見てたのよ。馬鹿じゃないの」
 ビアンカは器用に方眉を吊り上げ、心外だとでも言いたげに僕を睨み付ける。
「でも、早くしないと」
「それ以上言ったら怒るわよ」
 もう十分腹を立てている様子だったが、僕は口を噤んだ。するとビアンカは表情を和らげ、ベッドサイドに膝を着くと、大きな瞳で僕を見上げた。
「セシルがそう思ってくれるのは嬉しいのよ」
「僕も嬉しいよ、心配してくれて。でも今はそれどころじゃないって言うのが本音」
「あたしはセシルの瞳の中に虹を見るの」
 突然変わった声色に、漠然とした不安が僕の胸を梳く。
「きっとあたしだけじゃなくて、みんなもそうだったのよ。ユリアも、カレンも、あたしも、ルシオラだってそう。雨上がりに見る、七色の希望の虹だわ」
 ビアンカは瞬きもそこそこに僕の瞳を見つめ続け、やがて寂しそうに微笑んだ。その時、僕は彼女がフローライトを食べたこと、そして運命の流れに身を投じる諦めにも似た覚悟が出来たことを悟る。優しく真綿で首を絞められているような息苦しさと焦燥、どうすることも出来ないもどかしさと哀しみが一緒くたになって僕を襲う。
 数日前、ユリアの絵を見たときと同じ感覚だった。あの時はアシュレイ伯爵を信頼していたため、何故こんな感情を覚えるのか分からなかったが、今思うと僕はユリアとカレンが去ることに気付いていたのだ。だから餞のために薔薇を切らなければならないという衝動に突き動かされた。深い意識の中、潜在的なところで、僕は全てを理解している。だが、現在進行形で思い出すことを拒み続けている。
「だからセシル、薔薇を切ってちょうだい」
 その一言で僕ははっとした。白い薔薇の花束、それが意味するものは別れ。
「でもビアンカは、アシュレイ伯爵と一緒に行くのが嫌で、だから脱走計画に乗ったんだろ。それなのに僕が怪我をしたからって諦めるつもりなの? それとも初めからそんなつもりはなくて、僕をからかったの? アシュレイ伯爵から逃れたいと思ってるのは僕だけ?」
 ビアンカを責める理由などどこにもないし、彼女がそんなことを思っていないのは十分過ぎるほど分かっていたのだが、僕の口は何かを繋ぎ止めようとするかのように未練がましい言葉を紡ぐ。ビアンカは眉を顰め、クララを抱く腕に力を込める。
「あたしはセシルと離れ離れになるのも、おじさまの言いなりになるのも嫌。だけどルシオラに貰ったフローライトを食べたら分かったのよ。絶対に逃げられないことが」
 否定できる事実も見つからないまま、僕は抗うことも許されない定めを呪った。初めから逃れられるはずもなかったのだ。鉄柵を越えようとしたとき確かな反発を感じたのは、僕自身が知らず知らずのうちにその運命に突き動かされてきたからだ。
「僕たちは、逃げられない。彼に従わなきゃいけない」
「でもセシルは逃げ出せるわ。ううん、逃げるのよ。あなたはここにいちゃいけないの」
 ビアンカは僕を奮い立たせでもするように意気込んだが、僕はゆっくりと首を振る。
「ユリアも、カレンも、君もいないのに、逃げる必要ないよ」
「ルシオラがいるわ」
「僕がなに?」
 声のした方向を見ると、開け放してあった扉に腕を組んだルシオラがもたれ掛かっていた。哀しみも喜びも感じられない、だが全てを包括したような瞳で僕を見つめている。以前までの、僕を観察するかのような視線とは明らかに違う。
「ルシオラ、セシルと一緒に逃げて。あなた、このために来たんでしょ」
「このためって、どういうこと?」
 話の展開が見えず、僕は思わず聞き返した。ルシオラは視線をゆっくりとビアンカに移す。
「最後に決めるのは、僕じゃない」
「何よ、それ。ここまで来て見捨てるつもり?」
「逃げてもセシルにとっていいことなのか、分からなくなった」
「いいに決まってるじゃない! あなた、ずっとセシルが思い出すのを待ってるんでしょ。いつからそんなに弱気になったのよ」
「……彼が梯子から落ちたとき」
 ビアンカは息を呑んだ。そしてそれ以上ルシオラを詰る気が殺がれたらしく、視線を泳がせた。
「それでも、あたしは逃げて欲しいの」
 呟くように言ったビアンカの言葉は、澱のように僕の心に深く沈む。ビアンカもルシオラも僕が逃げることを望んでいるようだが、僕には犠牲を払ってまで自分だけ易々と逃げることなど出来そうもない。アシュレイ伯爵に対する不信は消えたわけではないものの、掟通り彼と共にここを去ることが一番無難な道に思える。ユリアもカレンも、そしてこれからビアンカも通ることになる道と何ら変わりないからか、恐れは全く感じない。これが僕の望んだ結末なら、ルシオラも納得してくれるだろう。
「薔薇、切りに行くんだろ」
 その時、部屋にルシオラの声が響いた。すっかり思考に潜り込んでしまっていた僕は顔を上げ、一瞬頷いていいものか迷った。だが立ち上がったビアンカの顔を見るととても穏やかで、同時に潔さのようなものを感じたので、僕は哀しさを噛み殺して頷く。彼女には頑とした覚悟が出来ているのだ。
 ふと、僕もその時が来れば潔く受け入れることが出来るのだろうかと心配になる。鉄柵の外に出たユリアが振り返らなかったように、もしここに残されたルシオラが後ろから僕を呼んだら振り返らずにいられるだろうか。その事実に直面した時、僕は雷に打たれたかのような衝撃を味わった。
「手足まだ痛いんだろ。着替え、手伝おうか?」
 そう言って近寄ってきたルシオラの顔を見ることが出来ない。自分の愚かさに、残酷さに吐き気がした。
「いい。自分でやる」
 搾り出すように声を出すと、ビアンカとルシオラは静かに部屋を出て行った。
 僕は両腕に施された丁寧な手当てを見る。突然、薔薇の垣根を抜けて傷だらけのルシオラがここへやって来て、カレンが手当てをしたときのことを思い出す。今の僕はあの時の彼と同じ状況にある。怪我をしてから二日も経っているので動けないほど痛いわけではないが、あの時血を滴らせながらも痛む素振りを見せなかったルシオラは、飄々とした仮面の裏で本当は目が眩むほどの痛みと戦っていたのではないだろうか。
 我慢していたのだ、僕のために。彼は僕の痛みを味わっていたのだ。何故もっと早く気付かなかったのだろう。何故彼の言葉にもっと真剣に耳を傾けなかったのだろう。彼はずっと僕に合図を送り続けていたというのに。
 耳の奥で嵐が吹き荒れるような、轟々とした音がした。僕がこのままアシュレイ伯爵とここを去ってしまえば、ルシオラは一人になってしまう。僕はルシオラにもまた同じ思いをさせようとしているのだ。エゴを貫き通して誰かを傷付けているのは、僕の方だ。
 ルシオラは僕が去ろうとする時も引き止めたりせず、僕が下した決断を責めることもなく、いつもの斜に構えた態度で送り出すのだろう。僕が背を向けても彼は叫び声一つ上げることなく、ずっと唇を引き結んでいるのだろう。だが、僕には分かる。彼が心の中で僕を呼び続けていることを。
 彼は今もずっと、応えてくれるのを待っている。青い瞳をただ僕に注ぎながら。

 剪定鋏の空気を震わすような音が、迷いを断ち切るかのように高らかと響き渡る。
 今や庭は盛りの季節を向かえ、大輪の薔薇が所狭しとひしめいていた。まるで今日を境に下降の一途を辿ることを悟っているかのように、それぞれが強い芳香を放っている。それは僕にとって甘い蜜に溺れているかのような幸福な気持ちにさせる一方で、頭を蕩けさせる毒の一面も垣間見え、そして別れも連想させる香りだ。僕はその様々な哀しみを剪定鋏に込め、腕に一本一本薔薇を加えていく。
 暫くして花束にちょうどいいくらいになると、僕のすぐ後ろで様子を見ていたルシオラがポケットから白いリボンを取り出して、前と同じように茎を結んでくれた。そして誰ともなく正門へ足を向ける。僕たちの横を、夏の風が通り過ぎて行った。
 正門が見えるところまで来ると、一人の男性が木の木陰に立っていることに気付く。相変わらずこの場所にそぐわない黒いフロックコートを着込み、優しげな笑みを絶やさない彼に、僕は初めて慄きに似た感情を覚える。この人の優しさは残酷だ、と。
「もうすっかり夏だね。日差しが強くて少し休んでいたんだ」
 そう言って木陰から姿を現したアシュレイ伯爵は、手に持っていた山高帽子を頭にのせると、押し黙ったまま何の反応もしない僕たちを見回した。
「おや、私が来るのを知っていた様子だね」
 するとビアンカはアシュレイ伯爵の前に進み出、丁寧にスカートの端を持ち上げて挨拶をした。アシュレイ伯爵はビアンカの頭を優しく撫でる。
「強い子だね、ビアンカ」
 その拍子に箍が外れたのか、ビアンカは急に泣き出してしまった。今までずっと我慢していたのだろう感情が、アシュレイ伯爵を目の前にして抑えられなくなってしまったのだろう。いくら気丈に定めを受け入れようとしたところで、たった14歳の、しかも一人になることをとても恐れる彼女には余りにも酷だ。だが僕とルシオラは彼女の側に駆け寄り、大きく震える肩に手を置くことしか出来なかった。もどかしい思いが僕の心を駆けずり回る。
「ビアンカ、泣かないで。僕は笑ってる君の方が好きだよ」
 ビアンカの涙は治まらず、むしろ煽ってしまったようで、嗚咽が激しくなる。
「僕、本当言うと君の我儘に呆れてたんだ。君ってどういう育ち方をしたのか分からないけど常識が全然通用しないから、いつもいつも手を焼いてたよ。あっちに行けって言われてその通りにしたら、一人にするなって怒ったときもあったろ。いつも僕はそんな調子で怒られてたっけ。でも無茶苦茶だって思ってたけど、僕は案外君のそうやって人を振り回すところ気に入ってたよ」
「何よ、人のこと散々言ってくれちゃって」
 ビアンカは震える声でそう言うと、涙を拭ってやっと僕を見上げる。その瞳には凛とした輝きが戻ってきていたので、僕は自然と笑みが漏れた。
「もっと一緒にいたかったな。それにもっとたくさん優しくすれば良かったわ。セシルったら何でも言うこと聞いてくれちゃうから、つい口が滑っちゃうの」
「言うこと聞かないと後が怖いからね」
「じゃあ、あたしの最後のお願い、聞いてくれる?」
 ビアンカは僕と、それからルシオラに視線を送り、反応を待った。僕たちは目配せをしながらそれぞれ頷いた。
「幸せって必ずしも同じ形じゃないでしょ。人の数だけ色んな幸せの形があるから、自分の思う幸せを他人に押し付けても受け入れられないときだってあると思うわ。鏡で映したみたいに全部同じなんて有り得ないの。でも、だからって押し付けるのはエゴかしら? あたしはその気持ちって優しいと思うわ」
「どうして? だって押し付けてるんだよ」
 僕はルシオラに、痛みという幸福を押し付けている。それを優しいというのなら、余程思い上がっている人間だ。
「じゃあセシルは、あたしがどんな気持ちでいたか知ってる? あたしはもちろん一人でいるのは苦手。でも、セシルだってあたしと同じくらい一人ぼっちが嫌いでしょ」
 僕は驚いて声も出なかった。今まで話したことも表に出したこともなかったはずなのに、ビアンカは知っていたのだ。
「それって、誰かが自分のことを考えてくれている、心配してくれているってことでしょ。それでもエゴだって言い張るなら、そうね、我儘なのよ。自分を分かって欲しいし、助けて欲しいって願ってるんだわ」
 ビアンカはにこりと微笑むと、僕の腕から薔薇の花束を奪い、変わりに大切にしていたクララを抱かせた。
「あたしのお願いは、ちゃんと向かい合って欲しいってことなの」
 向かい合う、それは僕が僕自身を受け止め、そしてルシオラを真っ向から見据えることだ。全てを思い出したとき、僕の心に何が芽生えるのかと考えると途轍もなく恐ろしく、救いようのない暗闇へ落下してしまうのではないかと危惧する。しかし僕はもうこれ以上、見ないふり知らないふりを続けていられない。
「セシルは少しずつ思い出し始めているね。心の瞳で、真実を見極めなさい」
 優しい声音のアシュレイ伯爵は、僕と視線が合うと微笑んだまま大きく頷いた。そしてビアンカを促し正門の外へ出ると、再びあの重苦しい鍵を掛ける。
「アシュレイ伯爵、真実を知ったとき、僕はどうすればいいのですか?」
 すると鉄柵を挟んだ向かい側から、ビアンカがまるで宥めるかのように優しく僕の手に触れた。
「じゃあね」
「ビアンカ、教えて」
「心の瞳を開けなさい。そうしたらすぐにまた、迎えに来よう」
 アシュレイ伯爵は再びそう言い、ビアンカと共に背を向けて歩き出した。二人の姿は木々の隙間から現れては消えを何度か繰り返し、やがて溶けるように緑陰の闇に消えた。
 ビアンカの姿をもう見られないと分かると、突如として僕の胸に深い哀しみが打ち寄せた。まるで逃げ水を捕まえようとするかのように、僕は無駄だと知りながら去る者の背中ばかり追っている。穏やかな笑みと言葉を残したまま僕の元を去って行ってしまうなんて、大切であればあるほど、彼らの影に苦しめられるだけだ。どうして誰も僕の側に留まってはくれないのだろう。
「どうする、これから」
 抑揚のないルシオラの声が、僕を現実へと引き戻す。僕は意を決して振り返り、彼と対峙する。
「やっと向き合う覚悟ができた?」
「もう、見て見ぬふりは出来ないんだね。崩れ始めてたんだ、君が来たときから」
 ルシオラは何も答えない。彼はいつだって、僕の答えを待ち続けている。僕はそんな彼の期待を何度裏切っただろう。
「これで終わりだよ、ルシオラ。もう君を裏切らないから、逃げないから、だから最後まで付き合って欲しい。僕一人じゃ、とても耐えられそうにない」
「いいよ、そこまで言うなら付き合ってあげても。僕が君の頼み事を聞くなんて、最初で最後になるかもしれないけど」
 僕は最後まで彼の優しさを利用し、逆手にとって傷付けることしか出来ない。それでもルシオラは傷付くことを恐れず、真っ向から向かっていく強さを持っている。ルシオラを僕から解放しなければ。



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