「どうして君は薔薇を切っていたの?」
 その夜、ルシオラが着ていた服を片付けていると、早々とベッドに潜り込んだ彼がそう尋ねてきた。
「薔薇?」
「そう。今日ユリアに渡してただろ」
「別に意味なんかないよ。たまたま持ってたから渡しただけ」
「僕にはユリアに渡すために切ってたように見えたけど」
「何が言いたいのさ」
 ルシオラが悪くないことは分かっているのだが、思わず棘の含まれた口調になってしまった。ユリアが去ったことで僕の気持ちが定まらず、押し込めていた苛立ちが一気に噴き出してしまう。
「もう少し人の気持ちを考えてよ。そりゃあ、君はユリアと一緒にいた時間が短いからそんなに哀しくないだろうけど、僕は違う。僕たちは何年も一緒だったんだ。それが突然こんな風に別れなきゃいけないなんて」
「何年も? じゃあ哀しいね」
「哀しいよ、とても。心にぽっかり穴が開いたみたい」
「でも、君だって外に出られればユリアと会えるんだろ。そんなに哀しむ必要ないじゃない」
 彼の真っ直ぐな瞳から逃れるように、僕は視線を落とした。前まではそう信じて疑わなかったものが、今や形を変えて僕の周りを旋回していた。黒くて渦を巻くそれは、アシュレイ伯爵への不信だった。彼が僕たちの世話をしてくれていることに変わりはないが、それならばどうしてこんなところに閉じ込めているのか、自由を奪っているのか、理解できないことが多すぎる。そしてずっと彼を信じて疑わなかった自分が分からない。
「君は感じ取ったんだろ、ユリアがここを出るってことを。だから薔薇を切った」
 押し黙った僕に、ルシオラが再び問い掛ける。
「違う」
「もう分かってると思うけど、ここはおかしいよ。君までそれに飲み込まれることを、僕は望んでない」
 僕だっておかしいと薄々感じ始めていたのだ。そして今日、僕の目の前で鉄の門が閉められ、鍵を掛けられたとき、突如として深い絶望を感じたのだ。何かが音を立てて壊れ、その切っ先が僕の身体を切り刻むかのような痛みと、哀しみを。
「もういい。お願いだから僕を放っておいて」
 僕は混乱していた。アシュレイ伯爵への不信と、ユリアが去った哀しみ、そして僕たちの存在に。それらが全て複雑に絡まり合い、あちこちから無理に解こうとして更に絡まり合っている、そんな気分だった。
「おやすみ」
「幽霊に気をつけて」
 僕がランプを消して部屋を出て行こうとすると、ルシオラは真面目な声でそう言ったが、彼には良く分からない言動が多いので取り合うことなく部屋を出た。
 自室へ戻ろうと足を伸ばしかけた途端、下の階から光が漏れていることに気付く。回廊の下を除くとどうやら出元は居間らしく、消し忘れかもしれないと思った僕は、階段を下りて居間へ向かった。僅かに開いていた扉を開け放った僕の目に飛び込んできたのは、テーブルに肘をつき、物思いに耽っている様子のカレンだった。テーブルの上には僕が切った薔薇の残りと、洒落たハンカチが置かれていた。
「カレン、どうしたの」
「セシルこそ」
「光が漏れてたから、消し忘れかと思ったんだ。カレンはまだ寝ないの?」
「ええ、何だか色々考えてしまって、眠れないの」
 ユリアのことを考えているのだろうという想像は安易につく。カレンは静かに溜息をつくと、側に畳んで置いてあったハンカチを手に取った。それは僕がアシュレイ伯爵から借りたもので、カレンに洗濯を頼んだのだった。
「ねえ、セシル。わたし、ここが好きよ」
 カレンが今にも消え入りそうな声でしんみりと言うので、僕の心臓は一気に跳ね上がった。
「どうしたの、急に」
「前までは外に出ることを夢見ていたのに、今はここが、あなたたちが好きだから出たくないと思ってしまうの。今日のユリアみたいに、いきなり何の前触れもなく引き離されるのは嫌。でも、アシュレイ伯爵が迎えに来たら嫌でも従わなければならないんだわ」
「嫌なら従うことないよ。僕らはアシュレイ伯爵の庇護の下にいるし、彼はとてもいい人だけど、分からないことが多すぎると思うんだ。僕、彼が信じられなくなった。カレンだってそうだろ」
 カレンは眉根を寄せたまま何も喋らない。肯定すべきか否定すべきか、未だ心が定まらないのだろう。
「ユリアはここを去って、本当に良かったのかな。もっと前に気付いていれば止められたかもしれない」
「ユリアは止めても行ったと思うわ。アシュレイ伯爵には誰も逆らえないもの」
 今度は僕が押し黙る番だった。もし去ろうとするユリアの腕を捕まえて行かないでくれと懇願しても、彼は迷わず僕の手を振り解いただろう。全てを悟ったような、寂しげな表情で。
「セシル、お願いがあるの。わたしがここを出るときのことよ」
 僕が顔を上げると、カレンは弱々しく微笑んだ。その瞬間、言い知れぬ哀しみに胸が震える。
「大事なことよ。わたしがここを去るときには、ユリアに渡したみたいに、わたしにも薔薇をちょうだいね」
「そんなこと言わないで、カレン。哀しくなる」
 するとカレンはゆっくりと立ち上がり、僕を優しく抱き締めた。どこかで嗅いだ懐かしい匂いが心の奥まで雪崩れ込んでくる。過去に僕は今のように誰かの腕に抱かれて、その相手からとても幸福で甘い何かをもらったような気がする。しかし、それが誰なのか記憶が曖昧だった。
「セシルは優しい子。でも、乗り越えなくちゃ。あなたもいずれ、ここを去るときがくるのだから」
 僕が去るときは本当に来るのだろうか。その言葉を飲み込んで、僕はカレンと別れ、自室へと続く階段を上った。足を一歩一歩踏み出すたび身体が軋み、僕の肌を覆っていたものが少しずつ剥がれて行って、仕舞いには壊れた自動人形のようにくずおれるのではないかという夢想に捕らわれる。それは僕の中で信じていた揺るがないものが足場を崩し、考えれば考えるほど更に崩壊していくさまに似ていた。
 ぐらりと眩暈がした。この場所も、アシュレイ伯爵も、そして僕たちも、僕が目にする全てのものが不明瞭で不確実な霧の中にある。今まで僕はその曖昧という霧を敢えて見ないようにしてきたのではないだろうか。僕が僕でいられるよう、傷付かないですむように。
 それに気付いた途端、僕の視界に見たこともない女性が飛び込んできた。髪を後ろでまとめ、質素な白い服を着て、足音もなく滑るように移動している。僕はぞっとし、その場に凍りついた。その女性は半透明で、身体の向こうがぼんやりと透けて見えたからだ。女性は僕に気がつかないらしく、目の前を通り過ぎて最奥へと続く細い廊下へ消えて行った。僕は跳ね上がる心臓を落ち着けるようにゆっくりと深呼吸をすると、恐る恐る女性の後を追いかけた。
 光のない暗闇の中、女性だけが白く浮かび上がっていた。最奥へと続く廊下は一本道だと分かっているのに、一歩踏み出すとそのまま奈落の底へと落ちてしまうのではないかと思わせるほどの漆黒の闇が広がっていた。あまりの恐怖に、僕は部屋へ帰れば良かったと後悔したが、戻ろうにも周りを闇に囲まれた中で方向感覚が分からなくなり、結局光の方へ向かわざるを得なかった。暫くの間、心臓の音が外に漏れないように息を詰めて歩き続けていると、ふいに女性が消え去った。僕が両手を前に突き出しながら手探りで進むと、すぐに冷たく固い扉が指先に触れる。あの女性がこの扉をすり抜けたと分かり、僕は扉に両手を押し付け、更に耳を寄せた。案の定、何も聞こえない。この扉は内側から鍵が掛けられていて、これ以上進むことはできないので、気になっても確かめようがないのだった。
 しかし、諦めて戻ろうと思った刹那、背中から這い上がってくるような違和感が僕を包んだ。この扉に鍵が掛けられていると言ったのは誰だっただろうか。アシュレイ伯爵や他のみんなだろうかと思ったが、言われた記憶がない。では誰が僕にそう言ったのだろう。僕は暫く暗闇の中で考えあぐねたが、全く思い出すことができなかった。そして考えているうちに、僕が勝手に開かないものだと決め付けてしまっていたのではないか、と言う結論に達する。
 僕の心臓が早鐘を打っていた。この扉はもしかしたら開くのかもしれないと思うと、自然と右手がドアノブを探し当てる。ひやりとした金属の冷たさが、火照った手のひらの熱を急速に奪い取っていく。この扉の向こうに何があるのか、僕は知らない。だからこそ知りたいと、恐れにも似た好奇心が疼くのだ。
 手のひらに力がこもり、ドアノブを回そうとしたそのときだった。
「どうして僕を中に入れてくれないの」
 無意識のうちに、そう呟いていた。今まで感じていた恐怖が哀しみに摩り替わり、僕は扉を叩き始める。
「どうして、ねえ、どうして? お願い、ここを開けて! 開けてよ、ねえってば」
 反応がないことに諦めにも似た絶望を感じ取った僕は、扉に爪を立てながらその場に崩れるように座り込んだ。手の衝撃が骨まで響き、虫の羽音のような微かな振動を奏でているようだった。僕は扉に額を押し付け、小声で最後の懇願をする。
「僕も、そっちに行きたいんだ」
 ここで、僕の意識は途切れた。

「セシル、セシル」
 震える声が名を呼び、身体を揺するので、僕は重い目蓋を持ち上げた。何度か瞬きを繰り返すうち、寝巻き姿のままのビアンカが今にも泣き出しそうな顔で僕を覗き込んでいる様子が次第にはっきりとしてくる。
「どうしてこんなところで寝てるのよ。心配したじゃない、馬鹿」
 ビアンカは言葉とは裏腹に、安堵したような口調で顔を歪めた。僕は身体を起こし、辺りを見回す。そこは狭い廊下の突き当たりで、正面には扉が聳えている。昨日、女性を追ってここまでやって来てそのまま気を失い、夜を明かしたのだと気付くと、微かな身震いを感じる。
「どうしてこんなところで寝てたのよ。カレンもルシオラもセシルもいないから、一人になったかと思って怖かったんだから」
「カレンとルシオラがいない?」
 僕は一気に血の気が引いた。ビアンカは震えながら頷く。
「いつもカレンがあたしを起こしてくれるでしょ。でも、今日はいつもの時間になっても来なくって、おかしいと思ってカレンの部屋に行ってみたの。いなかったのよ。居間にもキッチンにも。セシルとルシオラの部屋に行っても誰もいないし、あたし、不安で……」
 そう言って大粒の涙を零し始めたビアンカをなだめるように、僕は彼女を抱き締めた。極端に孤独を嫌う彼女に、一瞬でもこの屋敷に取り残されたような気分を味わわせてしまったことに対する償いもあったが、それ以上に人の温もりで僕自身が持て余している恐怖を消し去ってしまいたいという気持ちの方が強かった。
「二人でもう一度探してみよう。大丈夫だよ、黙っていなくなるなんて、おかしいもの」
 僕はビアンカを立たせ、手を引いて部屋を一つ一つ見て回ることにした。しかし、名前を呼びながら、普段使っていない部屋から使っている部屋、それぞれの寝室を見て回っても、微かな物音どころか人の気配さえしないのだった。繋いだ手の先でビアンカが泣きじゃくり、僕は自分の心を落ち着けるかのように彼女の手を強く握り締めた。
 下の階へ行き、ほぼ義務的に居間の扉を開ける。案の定誰もいるわけがなく、がらんとした空間に朝日だけが目に眩しかった。昨夜はここにカレンがいた。そして僕と去る時の約束を交わしたのだった。
 僕ははっとし、テーブルに駆け寄った。そこには小さな手帳が置いてあるだけで、昨夜、このテーブルの上に乗っていたアシュレイ伯爵のハンカチと、薔薇の花束が無くなっていた。僕は震える手で手帳を手に取る。これに何かを書き込むカレンの姿を幾度となく見てきたのに、不思議ともうこれ以上書き込まれることはないと思い知らされる。
「ビアンカ、カレンは……」
 恐らく、ここにはいない。僕はビアンカを居間に残して扉続きになったキッチンへ向かう。カレンの手によってたくさんの道具や食器が整理整頓され、その中に嬉々として料理に励む彼女の姿がないのがとても不自然に思えた。彼女が残した手帳をめくると、様々な料理のレシピが、彼女らしい丁寧な文字で書き込まれていた。僕はそれをポケットに入れ、居間に戻るとしゃくり上げているビアンカの手を再び引いて屋敷の外に向かう。
 ルシオラまでここを去ったとはどうしても思えず、屋敷の中にいないのなら外にいるのだろうと、僕は辺りを見回しながら庭を突き進んだ。朝の清浄な光に照らされて、薔薇は目が眩むほど白く輝いている。カレンはあの花束を持って行ったとまざまざと思い知らされているようで、無垢であるが故の残酷さが僕の胸を容赦なく突き刺す。
 その時、風に乗って微かな歌声が耳に届いた。立ち止まって耳を欹てる。
「ルシオラよ。ルシオラが歌ってるわ」
 ビアンカは涙を拭きながら言った。僕たちはどちらともなく声の方向に駆け出し、涼しい木陰を作っているパーゴラを抜けた。すると、いつも僕たちが好んで集まっている大木の側に、金の髪をなびかせたルシオラが座っているのが見えた。どこか寂しげに遠くを見遣り、それでいて全てを悟っているかのような瞳をして細い声で歌を歌っている。
 その歌は哀しみの中に優しさと祈りが、そして再生があるようで、まるで子守唄を聞いてまどろんでいるかのように穏やかな気持ちにさせる。ルシオラの高い声に木漏れ日がきらめき、彼の金髪を輝かせ、澄んだ歌声はぴんと張り詰めた糸を弾くかのように心を震わせる。その姿は天上から舞い降りた天使のようで、神聖で冒しがたい空気を作り出していた。僕の心に吹き溜まった混乱が、少しずつ溶け出していく。
 僕とビアンカが我を忘れてその場に立ち竦み、ルシオラを注視していると、暫くして視線に気付いたらしい彼が僕たちの方を向き直った。ビアンカがルシオラの方に駆け出し、僕もつられて大木の側へ足を伸ばす。
「あなたって綺麗な声で歌うのね。吃驚しちゃった。でも、何て言う曲だったかしら? 知ってるはずなんだけど思い出せないの」
「セシルなら知ってるんじゃない?」
 ルシオラは後からやって来た僕を見上げて答えを促した。僕は彼の側に腰掛け思い出そうとしたが、どうしても思い出せない。
「僕も分からない。けど、好きだな、その歌。もう一度歌ってよ」
「曲名を思い出したら歌ってあげるよ」
 彼はいつもの小賢しい笑みを見せ、僕を試そうとしているかのようだった。
「人にはものを頼むくせに僕の頼みは聞いてくれないなんて、ずるい」
「これでも譲歩してるんだよ。まあ、そのうち思い出すさ。多分近いうちに」
 いつになく寂しそうに言った彼は、視線を正門の方へ投げ、言葉を続ける。
「この歌は、ユリアとカレンへの餞だよ。少し遅くなったけど」
「何言ってるのよ、ルシオラ。カレンはまだここにいるわ。きっとあたしたちを脅かそうと思って、どこかに隠れてるのよ。そうでしょ、セシル。黙っていなくなるなんてあり得ないでしょ?」
 ビアンカは不安を打ち消そうとしているかのように金切り声を上げた。しかし、僕は懇願するような瞳を向けられても頷くことが出来ず、苦々しい思いが口の中に広がっていった。
「黙ってないで何とか言いなさいよ。カレンは、カレンは、何も言わずにあたしたちを置いて行ったりしないもの。いつもみたいに美味しいお菓子、作ってくれるんだから」
「ビアンカ、落ち着いて聞いて。カレンはもうここにはいないよ」
 途端、ビアンカの瞳は大きく見開かれ、音も無く涙が溢れ出る。いくつもの軌跡が出来た頬を伝って、握り締めた手に虚しく落下していく。
「昨日まであったはずの薔薇の花束とアシュレイ伯爵から借りたハンカチが無くなっていて、代わりにこれが置いてあった」
 僕はポケットから手帳を取り出す。
「昨日の夜、父さんはまた来たんだよ」
 呟くようなルシオラの言葉に、僕は顔を上げた。ルシオラは正門を見つめたまま、風に乱れた髪を押さえ付ける。
「正門が開く音で目が覚めて窓辺に寄ってみたら、父さんが屋敷に歩いてくるところだった。暫くしたら、薔薇の花束を持ったカレンと一緒に出てきたよ。そしてそのまま、正門の外へ」
「気付いたなら、どうして止めてくれなかったのよ。こんなのおかしい。ちゃんとお別れさせてくれないなんて酷いわ」
 ビアンカの言う通りだった。気付いたなら、別れの挨拶もなく去ることを強制するアシュレイ伯爵を咎め、カレンを止めて欲しかった。それなのに彼は成り行きをただ傍観していたのだ。
「無駄だよ。彼の力を前に、僕たちはあまりにも無力だ。彼は君たちにとって絶対的な存在、抗うことは許されない。そうだろ?」
 的を射た発言に、僕は返す言葉もなく押し黙った。
「彼が別れの挨拶もさせずカレンを連れて行くことを望んだのなら、彼女も君たちもそれに従うしかない。文句だって言えないはずだ。それとも、セシルは彼に立て付くことが出来る? 運命は変えることができないのに、無理やり変えようとする?」
「運命を変える。出来るなら、そうしてしまいたい。僕たちとアシュレイ伯爵の関係を断ち切って、それで……」
「自由になりたい? いいよ、君がそう望むなら、僕は協力する」
 アシュレイ伯爵の手から逃れて、自由になる。それは途方も無い話に思えた。彼を失ってしまったら僕たちはこれからどうやって生きて行けばいいのか、全く見当がつかない。しかし、僕の心に芽生えた感情は、それを押し退ける勢いで成長を続けているのだ。
「僕は自由になりたい。君はどうする、ビアンカ」
 彼女は下を向いて押し黙っていたが、暫くすると涙を拭って僕を正面から見据えた。泣き腫れて赤くなった瞳からは強い意志が伺える。
「問題はどうやってあいつを出し抜くか、だね」
 僕は耳を疑った。先程からルシオラが自分の父親をまるで他人であるかのように、彼、と言っていたのにも違和感を覚えていたが、あいつ、と呼んだのには驚いた。親子には間違いないようだが、普通父親をそんな風に呼ぶものだろうか。
「アシュレイ伯爵は、本当に君の父親なの?」
 するとルシオラは一瞬、間の抜けたような表情をする。
「そうだよ。その疑いは晴れたものだと思ってたんだけど」
「でも自分の父親を、彼とかあいつとか呼ぶから」
 無意識のうちに言っていたらしく、彼は立った今それに気付いたようだった。そして哀しそうな表情をして僕を見る。
「ここでの彼は僕の父親であって、父親じゃない」
 どういう意味なのか再び問い掛ける暇を与えず、彼は立ち上がって屋敷へと歩き始めた。

「ここから脱出する? あの高い鉄柵を越えるって言うの?」
 ルシオラの意見に、ビアンカは驚きを隠せない様子でテーブルを叩いた。
「無理よ、絶対。あの柵、見上げるほど高いもの」
「でもルシオラって柵を乗り越えて入ってきたんだろ。出来ないことじゃないよね」
 僕はルシオラを横目で窺ったが、彼は正面を向いたまま肯定もしないし、否定もしない。
「心配いらないよ。この間、屋敷の裏で梯子を見つけたから、それを使えば簡単に越えられる」
「梯子なんてここにあったの? 知ってた、セシル」
 僕は首を横に振る。長い間ここにいるが、梯子なんて見たこともなかった。しかし、今まで脱走しようとも思わなかったため、視界に入ってもそれほど印象に残っていないだけかもしれない。
「でも、梯子ならビアンカでも大丈夫だろ」
「うん、平気」
「じゃあ、決まり。すぐ行こう」
 僕は立ち上がり、ルシオラとビアンカが続くのを待った。だが、二人はきょとんとした顔をして僕を見上げている。
「どうしたの、脱出するんじゃないの?」
「今すぐ行くの? 荷造りする時間もないじゃない」
「荷造りなんてしなくていいよ。大切なものだけ持てば十分だよ。今日アシュレイ伯爵が戻って来ないとも限らないし」
 ユリアが去ったあと、その日のうちに戻ってきた彼のことだ。ぐずぐずしていたらまた同じ悲劇が起こってしまうとも限らない。
「そうだね、早く行こう。せっかく君がそんなにやる気なんだし」
 ルシオラは何が嬉しいのか僕に笑いかけ、ビアンカはお気に入りの人形、クララを連れて来ると言い残して自室へ駆けて行った。僕も彼女に倣い、ユリアから貰ったスケッチブックと、カレンが置いて行った手帳を持って行くことにした。部屋を出て下の階へ向かう途中、昨日の出来事を思い出して、ふと最奥の扉を開けてみようかと思ったが、去ることになる屋敷を今更詮索したとしても何も変わらないと思い、その場を後にした。
 ルシオラが案内した先は、屋敷の真後ろだった。そこには確かに、ある窓に向かって掛けられた長い梯子があり、見た目は錆び付いて今にも壊れそうに見えるが、今はこれに頼ることしか出来なかった。僕とルシオラで協力して梯子を移動させ、鉄柵に立て掛けると、僕たちはお互いの表情を窺った。
「不安になった?」
 ルシオラは僕とビアンカを見つめながら真剣な口調で言った。
「不安よ。今までアシュレイ伯爵が外に連れて行ってくれるって思っていたし、まさか自分でここを出るなんて考えたことも無かったもの」
「でも、僕はもうたくさんだよ。本当か嘘かも分からないことを信じた結果がこの喪失感と哀しみなら、僕たちが夢見ていた幸せから遠ざかっていくばかりだ。これ以上引き裂かれるのも、辛い思いをするのも嫌だよ」
 僕たちがただの無力な子供だからと言って、大人の言いなりになるほど都合のいい存在ではないのだ。アシュレイ伯爵に何の目的があるのか分からないが、僕たちが僕たちの存在に不安を感じ絶対的な支配に疑問を抱いたなら、自分の声に従って動く他、哀しみを癒す方法はない。
「僕が最初に行くよ。反対側に着地したら、二人も続いて」
 二人が了承したのを確認して、僕は一歩一歩梯子を上り始めた。長いあいだ雨風に晒されていたのだろうそれは、足を掛けるたびに軋み、錆がぱらぱらと散っていく。少しずつ地上から身体が離れていくのは酷く不安定で、いつ梯子が崩れるか分からないことも手伝って、頂上に近付くにつれて視界が歪んで行った。鉄柵の向こうには林が広がっているが、落日の太陽を完全に覆い隠すことが出来ず、木々のあわいから強烈な光が漏れていた。僕は目を細めながら更に上り続け、やっとのことで突き刺すように伸びた鉄柵の終わりを見る。ここを越えることが出来れば、僕は自由になれる。アシュレイ伯爵の手に落ちてしまったユリアとカレンのためにも、僕たちは行動を起こさなければならない。
 しかし、鉄柵に手を掛け乗り越えようと思った刹那、世界が間延びした。熟れた果実のような太陽から溢れる光は、ねっとりとした熱い触手を僕に向かって伸ばしてくる。その時、僕は違和感に気付く。今は太陽が落ちる時間帯だっただろうか、と。
 僕は光から逃れるように後ろを振り返った。少し先に光を受けて橙色に輝く窓があり、濃い影を描いた部屋の様子も僅かだが見える。そして僕は目を疑った。窓辺に誰かが座っているのだ。ほっそりとした白い手、身体に巻き付けたショール、長い髪。
 瞬きも背を焼く熱さも忘れ、僕の目はただ一点にだけ注がれる。眩暈がした。耳の奥で何かが音を立てて崩れていく音がする。それは海の底より深い絶望が生まれる音だ。僕はそれが生まれた瞬間を知っている。
 そしてただ、落下していくばかり。



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