あれから、数日が流れた。結局のところ追い返すわけにもいかず、ルシオラは僕たちと生活を共にすることになった。アシュレイ伯爵の息子だと聞かされた手前、始めこそぎくしゃくとした空気が流れていたが、それもすぐに消え去った。いつの間にか以前から一緒に居たかのような錯覚を覚えるほど、僕一人を除いた全員はぴたりと息が合っているようだった。
 僕はと言えば、いくら彼と言葉を交わしても会ったときに感じた恐怖や違和感を拭い去ることが出来ず、ひたすら悶々とした日々を過ごしていた。決してルシオラが嫌いなわけではないのだ。彼の出現で波紋が生じることを僕は内心恐れていたのだが、それもないようだ。それなのに僕は、心のどこかで何かが狂い始めたことを感じている。
「ルシオラ、入るよ」
 そう声をかけてルシオラの部屋に入ると、僕は真っ先にカーテンを開けた。今日も雲ひとつない良い天気で、あまりの清々しさに自然と溜息が漏れるほどだった。
 最近の僕の日課は、ルシオラを起こすことから始まる。彼は伯爵家の子息というだけあって贅沢な暮らしをしているらしく、一人で起きるどころか着替えさえ自分でしようとはしなかった。僕が何となく避けていることを感じたのだろう、彼は僕に身の回りのことを手伝えと請求し、断ろうものなら部屋から一歩も出ない有様だった。仕方がないので、僕は嫌々ながら小間使いのようなことをする破目になったのだった。
「ルシオラ、起きなよ。こんないい天気なのにヘッドの中でぐずぐずしてるの、勿体無いよ」
 僕はカーテンを纏めながら、ベッドに横になっているはずのルシオラに声をかけた。だがいつもならすぐ起き上がるはずの彼が、今日に限って動く気配すらない。僕は不審に思い、天蓋を除けてベッドを覗き込んだ。しかしそこにはルシオラの姿はなく、皺の寄ったシーツが不在を生々しく物語っていた。
 珍しく自分で起床し、朝食を摂りに居間へ行っているのかもしれないと考えた僕は、ベッドを整えると部屋を出た。とその時、回廊を挟んだ向かい側に、寝巻き姿のルシオラを発見する。彼はふらふらと最奥へと続く細い廊下を歩いていたので、僕は弾けるように駆け出した。幾つものドアの前を通り過ぎ、寸でのところで彼を捕まえる。
「セシルだ。どうしたのさ、こんなところで」
「それはこっちが聞きたいよ。自分で起きられるんじゃないか」
 僕は呼吸を整えながら僅かな批難を込めて言った。
「今日は早く目が覚めたんだ。君が来なくて暇だったから、屋敷の中を散策しようと思って」
「じゃあ、ついでに着替えも自分で済ませれば良かっただろ。いくら育ちがいいからって、もう小さい子供じゃないんだから」
「それは駄目だよ。君のためにならないから」
 言い返そうと思った刹那、ルシオラは再び足を動かし始めたので、僕は腕を捕まえる。
「ここから先は何もないよ」
「あの突き当たりの部屋、何があるの」
 ルシオラが指差した先には、他のものと変わらない一つの扉があった。僕はうっかり、もう一つの決まりを説明し忘れていた。
「あそこの部屋には、内側から鍵が掛けられてて入れないんだ。だから行っても意味ないよ」
「ふうん。本当に鍵が掛かってるのか確かめてくる」
 僕は再び歩き出そうとしたルシオラの前に立ちはだかると、渋面を作って見せる。
「無駄だよ。本当に開かないんだから」
「確かめるくらい、いいだろ」
「確かめなくても開かないって分かってるよ。ほら、部屋に戻ろう」
 僕は文句を言い続けるルシオラを無理やり押し戻し、やっとのことで部屋に連れ帰ることが出来た。彼の性格はビアンカのそれと良く似ているので、苦労が通常より多くなったと感じる。
 ただ、ルシオラの我儘はひやりとさせられることが多く、それがまた違和感へと繋がるのだ。突き当たりの部屋にしても、開かないのが分かっているから僕たちは近寄らないのに、ルシオラはそれを知ってもなお近寄ろうとする。僕の日常や常識を覆す危険性を孕んでいる彼の態度が、無意識のうちに敬遠してしまう理由なのかもしれない。
 僕はクローゼットから服を適当に選び、ルシオラに着せ始めた。彼は手ぶらでやって来たため衣服がなく、同い年の僕がそれの面倒まで見ているのだ。
「セシル、ここには鏡がないよね」
 ブラウスのボタンを掛けていると、ルシオラは唐突にそう言った。
「そう言えばないね。考えたこともなかったけど」
「どうしてないんだろう。変だと思わない?」
 まただ、と僕は思う。彼は僕に一石を投じる。そのことで僕は曖昧な記憶の淵に手を掛けることになるのだ。確かに、この屋敷には鏡がない。しかし、なくて不便だという声は一度だって聞いたことがないし、僕自身も全く気にしたことが無かった。考えれば考えるほどとても不自然なことのように思えてくるが、僕は何事もなかったかのように淡々と作業を続ける。
「さあ、ここの所有者はアシュレイ伯爵だから分からないよ」
「変なの」
 ルシオラの視線が僕の瞳を捕らえようとしているのを感じたが、敢えて無視し続けた。今、彼に捕まれば、嫌でもそのことを考えなくてはならなくなる。しかし僕は自分自身が信じて守り続けているものを少しでも疑いたくはないし、壊したくもないので、手っ取り早く頭から排除した。

「どうしてあたしにはくれないの?」
 その声で、僕は目を覚ました。目の前には風と光に戯れる木々があり、放ったままの手のひらからはしっとりとした草の冷たさを感じた。上体を起こし、声がした方向を見遣ると、ビアンカ、ユリア、カレン、そしてルシオラが幹の周辺に集まっていたので、ほっと胸を撫で下ろした。
 僕はまた、赤い薔薇と白い薔薇が出てくる夢を見ていた。鬱蒼と生い茂る草木を通り抜けて温室へ辿り着き、そこで薔薇を発見するという以前と変わらない展開だったのだが、一つだけ違っていることがあった。三輪咲いていた赤い薔薇のうち、二輪が散っていたのだった。だが、地面に落ちた真紅の花弁は瑞々しく、まだ散るには早いと感じた。まるで人の手で散らされたかのように。
「聞いてよ、セシル。ルシオラったら意地悪なのよ」
 僕が目を覚ましたことに気付いたビアンカは、頬を膨らませて見せた。
「ユリアとカレンにはあげたのに、あたしにはくれないの。石なのにすごく綺麗で食べられるのよ。ね、酷いでしょ? セシルも何か言ってやってよ」
「何があったの?」
 要領を得ないビアンカの話では埒が明かないと思い、僕は他の三人に問い掛けた。ユリアとカレンは顔を見合わせ、やがてカレンがおずおずと話し始めた。
「あのね、ルシオラがわたしとユリアに石をくれたの。だけどビアンカにはあげなかったから怒ってるのよ」
「あたしたち、仲間なのよ。あたしとセシルにもくれたっていいじゃない」
 するとルシオラは溜息を吐き、小さな小瓶をビアンカの目の前に差し出した。僕は起き上がり、側に行って中に入っている物体を覘き見る。そこには、八面体にカットされた、角砂糖ほどの大きさの青い石が入っていた。まるで空の色を写したかのような薄い青は、見ていると物哀しい気持ちになるほど美しい。
「この、最後に残ったフローライトはビアンカにあげるって言っただろ。でも君にはまだ早いんだよ。もう少し待つんだね」
「もう少しってどのくらいよ」
「もう少しだよ。明日かもしれないし、一ヵ月後かもしれない。今日じゃないことだけは確かだ」
 その答えにビアンカは不服そうだったが、いずれは貰えるのだということが分かると機嫌を少しだけ直したようだった。
「これ、何て言ったっけ。フローライト?」
「そうだよ。でも悪いけど、セシルにはあげられない。最後の一個はビアンカのものだからね」
 揶揄を含んだ言い方に、僕はむっとする。
「そんなの欲しくないよ。石なんだろ、ただの」
「でも、食べられるんだ。甘くて爽やかで不思議な味だったよ」
 相変わらずスケッチブックに向かっていたユリアは、バケツで筆を洗いながら言った。
「石なのに食べたの、二人とも。お腹壊しても知らないよ」
「大丈夫よ。口の中に入れたら水みたいに溶けちゃったもの。でも何だかわたし、不思議な気持ちなの。嬉しいような哀しいような、笑い出したいような泣き出したいような」
 カレンは薄く微笑みながら言った。瞳はどこか遠くを見ているかのようにぼんやりと、それでいて確かな何かを見つめているかのようだった。するとユリアも小さく微笑み、スケッチブックを高く掲げた。
「僕もそんな気分。不思議だな、それを食べたら全てが愛しく思えるんだから。ここも、君たちも、みんな」
 ユリアが数日前から描いていた絵はたった今完成したようで、僕たちはよく見える場所まで移動すると、たちまち笑みが零れた。屋敷と、空にかかった虹、周囲を囲むように咲き乱れる木々や草花を鮮明に描き出した水彩画は、ただひたすらに美しく儚い印象を与える。豊かな自然の緑、空の青、薔薇の白、その中に埋もれるように存在する子供たちだけの城。それは僕たちの世界の全てだった。
 でも何故だろう。何故こんなにも胸が詰まって、泣きたくなってしまうのだろうか。愛しいのに、哀しい。苦しくて、痛ましい。
 僕は立ち上がると、夢中で丘を駆け下りた。後ろから僕を呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることが出来なかった。僕は屋敷に戻って剪定鋏を取ると再び外へ出て、適当な茂みの中に分け入る。そしてそこら中に咲き乱れている白い薔薇を、次々に切り落としていった。
 鋏を入れた瞬間、薔薇は最後の足掻きでもするかのように、より強い芳香を放つ。僕は一本、また一本と腕の中に薔薇を加えながら、涙を流し続けた。何故泣けてしまうのか、はっきりとした理由は分からないが、止め処なくそれは溢れ出る。
 嵐の前触れのように、心が騒いでいた。僕の胸に潜む泉が掻き乱され、飛沫を上げているのだ。中で暴れているものは僕がずっとひた隠しにしてきた黒くて大きな生き物だ。溺れて、乱れて、苦しんでいるのに、僕はそれを救い出す術を知らない。僕が出来ることは何もない。こうして薔薇を切り落とす以外は。
 両手から溢れんばかりの薔薇を抱えながら、僕はその場に崩れるように座り込んだ。強い香りと泣いているせいで、脳が膨張したかのように痛み、張り詰めていた。僕たちはこれからどうなってしまうのだろうと考えると、不安が足元を掬い上げる。今までは平和で大きな争いもなく、ただアシュレイ伯爵が迎えに来て、外へ連れ出してくれることだけを夢見ていたはずなのだ。一度だって疑ったこともなかった。しかし、今僕の心を占めているのは、不安と絶望、そして焦燥だった。
 何かがおかしい。ルシオラがやって来てから、いや、あの夢を見てから何かが変わり始めてしまった。夢の光景が頭の中を巡る。
「どうしたんだい、セシル。こんなところに座り込んで」
 聞き慣れない声に、僕ははっとした。恐る恐る視線を上に持っていくと、順にスラックス、ステッキ、フロックコート、ベストが、最後に人の良さそうな表情をした紳士と視線が絡み合う。
「アシュレイ伯爵……」
 呟くと、アシュレイ伯爵は僅かに眉を顰めて心配そうな表情を作った。ごく自然な動作でポケットからハンカチを取り出し、僕に差し出す。僕は恐る恐るそれを受け取った。夢のようで、夢ではない。アシュレイ伯爵が目の前にいた。
「泣いていたのかい?」
「すみません、何でもありません」
 僕は慌てて涙を拭きながら言い、立ち上がると、無理に笑顔を作る。
「アシュレイ伯爵、お久しぶりです。どのくらい会ってないのか忘れてしまったけど、お元気そうで何よりです」
「本当に久しぶりだね。他のみんなも変わりはないかい?」
「ええ。相変わらずユリアは絵が好きだし、カレンは働き者だし、ビアンカは我儘です」
 するとアシュレイ伯爵は笑顔を作ったかと思うと、僕の頭に優しく手を置いた。大きな手のひらは温かく、安心感が広がっていく。
「セシルも相変わらずだね。少し大人び過ぎているな。何か辛いことでもあるんだろう、話してご覧なさい」
 伯爵の心遣いは嬉しかったが、僕は未だ心の整理がつかず、もやもやとしたものが形になっていない状態だった。しかし、僕の意思とは裏腹に口が勝手に動き出す。
「突然、不安になってしまったんです。何もかもが、みんなが、僕を置いてどこかへ行ってしまいそうで、壊れてしまいそうで怖い。そうしたら僕はまた、一人ぼっちになってしまう」
 呟いてから、僕は不可解な感覚に絡め取られた。自分の発言が理解できないのだ。まるで僕の中にもう一人の僕がいて、口を借りたかのようだった。
「僕は何を言ってるんだろう。僕は、一体……」
「いいかい、セシル。君は理解しなくてはいけないよ。君が一人ではないことに」
 僕は首を傾げた。今度はアシュレイ伯爵の言っている意味が良く分からなかった。
「アシュレイ伯爵、僕は一人ではありません。みんながいるもの」
「……ゆっくりでいい、思い出したまえ」
 アシュレイ伯爵は泣き笑いのような表情を見せ、愛しいものを見るような視線を送って寄越した。しかし、その真摯な様子は、過去ならば僕の心に一点の疑いもなく刻み込まれただろうに、何故か今は違和感を感じずにはいられなかった。僕に何を思い出せと言うのだろう。
 その時、背後から物音が聞こえたので振り返ると、そこにはルシオラの姿があった。僕を探していたのか、僅かに息が切れている。
「ルシオラ」
 彼は驚いた様子でアシュレイ伯爵と対峙していたが、すぐに口元を引き上げた。僕は会話を交わすでもなく、無表情で見詰め合っている彼らの様子を窺いながら、言葉を発した。
「あの、アシュレイ伯爵、彼があなたの息子だというのは本当ですか?」
「ああ、本当だよ」
「ほら見なよ。僕は嘘なんかついていなかっただろ」
 そう言うとルシオラは近付いてきて、僕が抱える薔薇を半分ほど奪い取った。そして白いリボンをポケットから取り出して茎を器用に結わえると、僕が持っている方にも同じようにした。
「お別れだよ」
「え?」
 僕が聞き返したと同時に、ビアンカ、ユリア、カレンが相次いで姿を現し、その顔を輝かせた。ビアンカはアシュレイ伯爵に抱き付かんばかりの勢いで駆け寄ると、スカートの端を持ち上げて可愛らしく会釈をした。
「おやおや、ビアンカ、少し見ないうちに大人になったね」
「わたし、ずっと待っていたのよ、おじ様。来て下さって嬉しいわ」
「アシュレイ伯爵様、お久しぶりです。またお会いできて光栄です」
「僕たち、アシュレイ伯爵が来られるのをずっと心待ちにしていました」
 アシュレイ伯爵は顔をますます綻ばせ、僕たちの顔を見回した。
「そんなに歓迎してくれて嬉しいよ。どうもありがとう。息子とも仲良くしてくれているみたいで、感謝しているよ」
「ここで立ち話もなんですから、中で休まれませんか? お疲れでしょう」
 カレンが言うと、アシュレイ伯爵はやんわりと首を横に振る。
「そうしたいのは山々なんだが、少し急いでいてね。すぐにでも行かなければならないんだ。君たち、私がどうして来たか分かっているね?」
 僕たちは顔を見合わせ、それぞれに頷いた。とうとうこの日が来てしまった。アシュレイ伯爵が僕たちの中の誰か一人をここから連れ出す日が。
「今日はユリア、君を連れて行くよ」
 羨望と憧憬の視線がユリアに集中する。彼は驚きもせず、全てを悟ったかのように唇を引き結ぶと、しっかりとした足取りでアシュレイ伯爵の方へ進み出た。
「未練はないね?」
「はい、伯爵。覚悟を決めていましたから」
「よろしい。ではみんな、正門へ移動しよう」
 僕はアシュレイ伯爵について正門へと向かいながら隣を歩くビアンカを盗み見ると、彼女の表情は酷く哀しそうで、クララを抱く手にも力が入っているようだった。今連れて行かれるのが自分ではないから悔しい、という感情の表れではないことが、僕には手に取るように分かる。ユリアが突然ここを去ることが、ただただ哀しいのだ。そしてその哀しみを覚える自分を責めているのだ。
 僕は視線を戻し、前を歩くアシュレイ伯爵とユリアの背中を見て、涙が溢れないよう唇を噛み締めた。何も泣くことはない、ユリアはやっとここから出て自由になれるのだから喜ばしいことだ。しかし、止める権利なんてないと分かっていても、本心では行って欲しくないと強く願ってしまう自分がいた。ユリアの穏やかな話し方や優しい笑み、争いを好まない性格、そしてあの絵を描く姿をもう見ることはないのだと思うと胸が締め付けられるようだった。
 重厚な正門までやってきた僕たちは、足を止めて向かい合った。重い空気を取り払うようにユリアは寂しそうに微笑む。
「カレン、あまり無理して頑張りすぎないようにね。ビアンカ、君にはそのままでいて欲しいな。ねえ、何も泣くことはないよ。すぐ会えるよ」
 カレンは声を出さずに涙を流していて、堪えていたビアンカも釣られたらしく肩を震わせていた。
「ユリア、行かないで。ずっとあたしたちと一緒にいて。あたし、この時が来たら笑顔で送り出そうって思ってたの。でも無理だわ。誰一人欠けて欲しくないの」
「ありがとう、ビアンカ。でも、それは出来ないよ。僕たちはいつかここを出なければならないって、そういう決まりだったじゃない。僕は今が帰るときなんだ」
 ビアンカをなだめるように言うと、ユリアは次にルシオラに視線を移した。
「ルシオラ、フローライトをありがとう。短い間だったけど、君と知り合えて本当に良かった。僕の代わりに助けてやって。遠いところからずっと願ってるから」
「うん、きっと大丈夫」
 二人は意味有り気な目配せをしたあと、揃って僕の方を見た。するとユリアは僕にスケッチブックを差し出したので、反射的に受け取る。
「セシルにあげる。君に持っていて欲しい」
「でも、ユリアの一番大切なものなんじゃないの」
「だからこそ、持っていて欲しいんだ。セシル、ありがとう。僕が君にどのくらい助けられたか、君は知らないだろうけど」
 それは僕の方だ、と言おうと思っても、言葉より先に涙が頬を伝った。感傷的になることなどないのに、ここを出られれば外で会うことも出来るのに、突然齎された別れは想像以上に大きな喪失となって僕に襲い掛かった。
「ごめん、ユリア。喜ばなきゃいけないのに、涙が勝手に……」
 零れた涙は薔薇に降り注ぎ、たくさんの粒を滴らせた。もし、この涙で白い薔薇を染めることが出来るならば、ルシオラが持っているフローライトのような冴え冴えとした青い色に染まるに違いない。白は何色にも染まってしまう。
 僕は花束をユリアに差し出し、色が染まるのを防いだ。そっと受け取った彼の伏せた瞼からも、きらりと光るものを見た気がした。
「ユリア、そろそろ行こうか」
 深みのある優しい声が、もう僕たちに残された時間がないことを知らせた。アシュレイ伯爵が正門を押し開いて外に出ると、それにユリアが続いた。すぐに力強い正門を挟んだ向かいで、再び鍵が掛けられる。金属が触れ合う音、鍵を回す音が、ゆっくりと重苦しく僕の耳に届く。そして脳で破裂した。
「さよなら」
 ユリアのか細い声に刺激されたかのように、僕は正門に駆け寄り、泣きながら力任せに揺らし続けた。
「ユリア、戻って来て! 僕たちを置いて行かないで!」
 どんなに叫んでも二つの後ろ姿は振り返ることも立ち止まることもせず、やがて梢に隠れて見えなくなってしまった。甘い香りを乗せた風が通り抜け、僕はその場にずるずるとへたり込む。柵を掴んでいた手だけが無機質に冷えていた。
「どうして僕たちは、こんなところに閉じ込められているんだ。何のために?」
 ビアンカとカレンの啜り泣きが大きく頭に響く。ユリアの寂しそうな顔が浮かぶ。
「アシュレイ伯爵は何をしようとしてる? ユリアはどこに連れて行かれた? 僕たちはあの人を信じていいの?」
「セシル、もう止めて。アシュレイ伯爵を疑うなんて。わたしたちにはあの人しかいないのよ。あの人が全てなの。ユリアはここを出られて幸福だわ。そしてわたしたちも幸福にならなければいけないのよ」
 カレンは悲鳴にも似た声で言った。しかし、言葉とは裏腹に酷く肩を震わせ、哀しみの涙を流し続ける。
「でもカレン、どうして泣くの? そう言うなら、どうして? ビアンカだって……」
「わたし、分かってしまったの」
 僕にはそれ以上問い詰めることが出来なかった。カレンが何を理解したのか、それを僕まで理解してしまうことに途轍もない絶望を感じ取ってしまったのだ。僕の意識がそれから顔を背け、忌避したがる。僕たちの存在に対して薄々感じていた恐怖、違和感、そんなものが形になってしまうのが耐えられない。
 ここを出ることが幸福なのか、留まることが幸福なのか、答えが見つからない。



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