フローライト




 息苦しささえ覚える濃厚な草木の匂いが、辺り一面に立ち込めている。
 視界が新緑の緑に覆われる中、僕は足元に伸びる曲がりくねった石畳だけを頼りに歩を進めていた。何故こんなところにいるのか、何故歩かなければならないのか、どこへ続いているのか、疑問ばかりが浮かぶものの、答えが見つからないまま泡のように弾けて消えた。
 ただ一つ分かっていることと言えば、立ち止まったり来た道を戻ったりしてはいけないということ。何故かは分からない。けれど僕の意識はそれを理解していて、不審に思いながらも脚を交互に動かし続けることを止めることができなかった。決まりを守らなければ何かが崩れ去ってしまいそうで、そして崩れれば二度と戻らないような気がして怖かったからだ。
 ふと、木立のあわいから何かが反射するのが見えた。僕は肺まで満たす緑の匂いや、背後から無言で責め立てられるような恐怖から解放されたい一心で、残りの石畳を夢中で駆け抜けた。
 転がるように拓けた場所に出ると、目に眩い光が差し込んだ。思わず顔を覆い、暫くしてからゆっくりと辺りを見回すと、そこには小振りの温室があった。太陽の光を存分に浴びて照り輝く様子は、どこか神聖な雰囲気を醸し出している。僕は恐る恐る扉を開け、中に入ると辺りを見回した。温室の中はむっとするほど暑く、様々な植物が棚に置かれ、中には天井まで枝葉を伸ばしているものもあった。
 僕はそれらをゆっくりと見回しながら、最奥へと辿り着く。ふと、薔薇の甘い香りが鼻を掠めたかと思うと、硝子で出来たテーブルの上に真紅の薔薇を咲かせた鉢植えが置かれていることに気付く。
 近付くと、薔薇は3輪咲いており、触らずともビロードのように滑らかなのだろうと推測できるほど肉厚で、細かな粒子をまぶしたかのように輝いていた。虫食いの無い葉は濃緑を光に遊ばせ、棘はより怜悧に己を守る刃となっていた。
 ふと、僕は3輪の薔薇の隠れたところに、もう一輪が姿を潜めていることに気付いた。覗き見ると、真紅とは対照的な純白の薔薇が花弁を広げているではないか。そしてその側には、まだ固く身を包んだ蕾が寄り添うように存在していた。 何故ひとつの株から異なった色の薔薇が咲くのかと不審に思ったのも手伝って、僕は純白の薔薇に手を伸ばした。すると、指に鋭い痛みが走る。人差し指に鮮やかな血の珠が膨らみ、やがてそれは純白の花弁にぽとりと落ちる。



 瞼を開けると、初夏の風に吹かれた枝葉から淡い光が漏れていた。
 瞬きを数度繰り返し、ぼんやりとした意識の中で光が散る様子を見ていると、夢の続きかと疑ってしまうほど現実味が無かった。僕はやたらと重く感じられる腕を持ち上げ、光に手のひらを翳して見る。傷はどこにも見当たらなかった。やはりあれは夢で、今が現実なのだ。
 隣には、癖の無い金髪を惜し気もなく広げ、フリルやレースがふんだんにあしらわれたドレスが汚れるのも厭わない様子で、少女が寝そべっていた。僕はまだ眠っている彼女を起こさないよう極力物音を立てずに起き上がると、木の幹に背を預け、スケッチブックに鉛筆を走らせている少年の方へ駆けていく。
「ユリア、今何時?」
 そう言いながら隣に腰掛けると、彼はポケットから懐中時計を取り出して時間を確認した。
「15時を過ぎたところ。ぐっすり寝てたようだね、セシル」
 ユリアは僕より幾つか年上なだけなのに、とても穏やかで柔らかい気性の持ち主だった。性格が滲み出ているような優しげな風貌をしていて、いつも微笑みを絶やさない。彼は絵を描くことが趣味で、今日もまたスケッチブックに鉛筆を走らせていた。
「久しぶりに夢を見てたよ。赤い薔薇と白い薔薇が出てくるんだ」
「赤い薔薇? 白い薔薇ならそこら中に咲いてるけど、赤いのは見たことがないな」
「そう言えばそうだよね。僕も見たことないや」
 僕は木の幹に背を傾けながら、夢の内容を反芻する。いつもなら夢を見ていたという意識はあっても、目覚めると覚えていなかったり、断片的にしか思い出せなかったりすることが多いのだが、あの夢は隅々まで鮮明に思い出すことが出来た。空気や温度、匂いや痛みまで、たった今その場にいたかのように僕の周りに漂っている。その中でも強烈な印象を放っているのは赤い薔薇で、あの色を思い出すだけであまりの生々しさに寒気がするほどだった。
「ねえ、ユリア、ここに温室ってあると思う?」
「温室?」
 再び鉛筆を走らせていたユリアは、腕を止めると不思議そうに僕を見返した。
「硝子張りで、そんなに大きくないやつ。夢に出てきたんだ」
「さあ、僕は無いと思うけど。僕よりセシルの方がずっと長くここにいるのに、君が知らないことを僕が知るはずないよ」
 ユリアが言ったことは尤もで、確かに僕は長くここにいるし、敷地内を隅々まで熟知している。普段何気なく生活しているこの場所に夢で見た温室がないことは重々承知だったのだが、もしかしたら僕の知らないところにあるのかもしれないという淡い期待は打ち砕かれた。
「そんなに夢が気になるなら、探してみようか」
「ううん、いいよ。絶対無いもの。夢は夢だしね」
 僕はそう言って、思いを絶ち切るように大きく伸びをする。木陰で感じる風は清々しく、火照った身体をやんわりと撫でる。大きく息を吸い込むと微かな薔薇の香りが鼻を掠めたので、この香りのせいであの夢を見たのかもしれないと思う。
「セシル? どこなの、セシル」
 その時、離れたところで眠っていた少女が身体を起こし、明後日の方向を向いて辺りを見回していた。
「ビアンカ、こっちだよ」
 声を張り上げると、ビアンカは僕の方を振り向いてほっとしたような表情を見せた。そしてすぐにお気に入りの人形、クララをしっかりと抱き締めて駆け寄ってきたかと思うと、僕の目の前でぴたりと止まり、膨れっ面を作る。
「セシル、起きたならあたしも起こしなさいよ。それが嫌ならあたしが起きるまで側にいなさい。カレンならそうしてくれるわ」
 急に難癖を付けられて、僕は些かむっとする。
「だって怒るだろ、ビアンカは。このあいだ起こしたら、散々文句を言ったじゃないか。側にいろって言うなら、今だって少ししか離れてないよ」
「駄目よ。あたしが目を覚ましたら、すぐ視界に入る範囲に居てくれなくちゃ。それくらい分かってよ」
 無茶苦茶を言い出したビアンカに呆れ果て、僕は溜息をついた。彼女の我儘な性格を知っていても、あれこれ細かく注文をつけられると我慢ならないものがある。
「分からないよ。君の気紛れに付き合ってられるほど、僕も暇じゃないんだから」
「気紛れじゃないわ! 誰だって目が覚めたときに周りに誰もいなかったら不安になるじゃない。ねえ、ユリアだってそうでしょ」
 急に矛先を向けられたユリアは、相変わらずの穏やかな笑顔をビアンカに向ける。
「僕だって目が覚めたとき一人ぼっちだったら不安になるかもしれない。けどセシルはビアンカを一人になんかしないって、君が一番分かってると思うな。だから落ち着きなよ、無理をすると身体に障るから。セシルも分かってるよね」
 さすが年上なだけあって説得力があり、ビアンカは心持ちうな垂れて僕の側にちょこんと座り込んだ。僕と同い年の彼女は一人になることを酷く恐れているようで、そして歳の割に幼かった。
「ビアンカ、まだ怒ってる?」
 問うと、ビアンカはいつもの調子を取り戻したようで、小生意気な笑みを見せた。僅かに吊り上がった青い瞳や、クララを抱く細い腕から、しなやかな猫を連想させる。それも飛び切り自分勝手で、機嫌のいいときにしか甘えた声を出さない高貴な猫。
「怒ってるって言ったらどうするの?」
「質問を質問で返すものじゃないよ」
「今回はユリアに免じて許してあげるわ。でも次からは気をつけるのよ、いい?」
人にものを頼む態度じゃない、と思ったが、僕は渋々頷いた。ここで話を混ぜっ返せば再び言い争いになることは分かり切っているので、僕が妥協する他、ビアンカの機嫌を保つ方法はなかった。
「二人は本当に仲がいいね」
 僕の心境を知ってか知らずか、ユリアは笑いながら言った。鉛筆が紙を走る規則的な音まで愉快そうにシャッシャと響く。
「そう言えばユリア、今日は何を描いてるの? て言うよりあなた、お昼寝した?」
 そう言うとビアンカはユリアの側に近付き、スケッチブックを覗き込む。
「わあ、あたしたちのお屋敷だわ」
 僕も倣って覗き込んだ。スケッチブック一面に、この場所から見える屋敷を克明に描き出している。
「昼寝はしてたよ。二人より先に起きただけ。これ、明日には色塗りに入りたくてさ」
「そんなに急がなくても、ゆっくり描けばいいのに」
 僕が何気なく言うと、一瞬だけユリアの表情に翳りが生まれた。僕はその空気を見逃さない。
「忘れないように、なるべくたくさん描いておきたい。ここを出る日まで」
 再び絵を描き始めたユリアの横顔は、微かな哀愁を帯びていた。出て行けるのは喜ばしいことであって、決して哀しいことではないはずなのに、僕の胸にはもやもやとした形の無いものが漂っている。その感情を何と呼ぶのか、上手い言葉が思い出せない。
「カレン! こっちよ、こっち」
 ビアンカの声に顔を上げると、屋敷からこちらに向かって少女が歩いてくるのが目に入った。僕たちの中では一番年上なのだが、いつも質素なロングドレスを着ていて、家事全般をそつなくこなしていた。
「どこに行ってたの、カレン」
「洗濯物を取り込んできたの。あとは夕飯の下拵え」
「どうして僕たちと一緒に休まないの? そんなの後回しでいいよ」
「いいのよ、わたしは。あなたたちのお世話をするためにここに居るのだし、動いている方が好きだもの」
 僕が眉を顰めているのを気に止めず、カレンは襟足で切り揃えられた赤毛を揺らしながら微笑んだ。そして気を取り直すかのように手を叩く。
「さあ、三人とも、お茶にしましょうよ。おやつにクランペットも作ったの。好きよね、ビアンカ?」
「大好きよ! カレンのお菓子はどれも好き。バターと蜂蜜を塗って食べるの」
 ビアンカは弾けるように立ち上がると、カレンの手を引いて屋敷へと戻っていく。僕は対照的な二人の背中を見つめていたが、やがて腰を上げる。
「セシル、先に行ってて。僕、もう少ししたら行くから」
「うん、分かった。ユリアの分のクランペット、ビアンカに食べられないようにしておくから安心していいよ」
 僕は明るく請け負うと、その場を離れた。
 小高い丘を降りれば、屋敷を囲むように咲き乱れる薔薇の垣根が眼前に迫ってくる。盛りの季節を迎えた純白の薔薇は花弁を次々と開花させ、己を誇示するかのように日を追うにつれて香りが強くなってきていた。僕は前庭へと続く長いパーゴラを歩きながら、ぼんやりと周りを見回す。右も左も、頭上にさえも握り拳大の薔薇があり、まるで無言で僕を検分しているようだった。甘い香りを発して僕を惑わそうとしているのか、それとも互いに囁きを交わしているのか分からなかったが、それぞれに身体を揺らしている。
 ふと、僕は足を止めた。今頃になって、風も吹いていないのに何故垣根が音を立てて揺れているのかという疑問が湧き上がる。どこからか入り込んだ猫や犬だろうかと思ったが、それにしては葉をかき分ける音が大きい。
「ビアンカ? カレン?」
 案の定、返事はない。先に屋敷へ向かった二人が垣根の中にいるとは考えられなかったが、声を出さないと恐怖でどうにかなってしまいそうだった。足が硬直してしまい、僕は逃げ出すことも叫んで助けを呼ぶことも出来ず、ただ怯えながら何かが近付いてくるのを待った。
 荊をかき分ける音は次第に大きくなり、やがて右手の垣根から二本の白い腕が突き出した。僕は思わず短い悲鳴を上げる。その腕は二の腕から手首まで同じ細さで続いていたので、すぐに僕と同じくらいの子供だと推測できた。ただ、無数にある掻き傷から滲み出た血が一滴、純白の薔薇に垂れたとき、僕の中である場面と重なった。
「だ、だれ?」
 恐る恐る問い掛けたと同時に、垣根から見たこともない少年が姿を現した。金の巻き毛に気が強そうな青い瞳を持ち、天使のような風貌なのに、どうしたわけか纏っている空気は清廉ではない。剥き出しになった腕と脚には無数の掻き傷があり、洒落たブラウスも所々破けていた。
 僕はその少年を見た途端、どこか懐かしい記憶に絡め取られたような気がした。夢と同じ場面を現実でも見たからではなく、潜在的なところにある何かが僕の扉を無理矢理こじ開けようとしているかのようだった。
「君、だれ?」
 搾り出すように声を出すと、少年は腕を舐めるのを止め、僕を真っ向から見据えた。すると何を思ったのか無言で近付いてきたので後退するが、すぐに垣根に阻まれる。少年は傷だらけの腕を持ち上げたかと思うと、細い指を僕の首元に寄せた。
 絞められる、咄嗟にそう思った。だが彼は、ゆっくりとした動作で僕の襟元に結ばれていたリボンを整えてくれていた。いつの間にか緩んでいたのだろう。途端に危機感が解けていくのが分かったが、彼に対する違和感は消えない。間近で彼の血が滲んだ傷だらけの腕を見ると、ふいに視界が歪んだ。
「匂いに酔った? 薔薇はね、記憶の鍵。螺旋の渦」
 ぼんやりと、彼の言うことは当たっているかもしれないと思う。薔薇の香りが強すぎる。頭が重い。
「君はどこから来たの」
 少年は手を下ろすと、首を傾げた。僕はあまりのだるさに頭を押さえながら、更に問い掛ける。
「ここ、鉄柵で囲われていただろ。登ったの?」
「分からない」
「分からないはずないよ。正直に言えよ、見逃してあげるから。ここ、部外者は立ち入り禁止なんだ」
「何故?」
「何故って……」
 それから言葉が続かなかった。ここは、屋敷を中心として広大な土地が広がっている。僕たちは高い鉄柵に囲われた内側ならばどこへ行っても構わなかったが、不思議なことに今まで外側へ出ようと考えたこともなかった。逆に、外側の人間が内側に入って来ることは、ただ一人しか許されていなかった。
「早く出て行かないと大変なことになる」
「だから何故?」
 重ねて問われ、僕は考え込む。口をついて出たものの、理由が見つからない。
「分からない」
「君だって分からないんじゃないか。でも僕は知ってる。薔薇が君を狂わせたってこと」
 ほら、と少年は両腕を差し出す。
「荊の守りは固いけど、抜けられないわけじゃないのに」
 幾つもの傷口から滲んだ血は肌を伝って指先から滴っていたようで、彼の手のひらには赤い筋が出来ていた。僕は目を逸らす。赤い色は嫌いだ。今、はっきりとそう感じる。
「訳が分からないよ。出て行けよ、早く。僕の前から消えろ!」
 予想以上に大きな声が出てしまい、はっとする。彼に対して芽生えた感情は、紛れもない恐怖だった。少年の顔を見ると、何を言われたのか分かっていない様子で、瞬きを二度三度繰り返していた。
「どうしたの?」
 刹那、屋敷に向かうところだったのだろうユリアが、僕の声に驚いた様子でパーゴラに駆け付けた。少年の姿を見ると目を見開き、その場に立ち尽くす。
「君、どこから来たの? ここは……」
「高い鉄柵に囲われている、関係者以外立ち入り禁止、だろ。もう聞いたよ」
 少年はやや捨て鉢な態度で言葉を遮る。ユリアは意表を突かれたようだったが、すぐに真剣な表情になった。
「とにかく屋敷へ行こう」
「駄目だよ、ユリア。彼は部外者だ」
「そうだけど、傷の手当てくらいしてあげなきゃ。痛々しくて見ていられない。セシル、どうしたの、そんなに怯えて」
 ユリアに心配そうな視線を向けられて、身体が小刻みに震えていることに気付く。
「何でもないよ」
 僕はそう言って、屋敷へと歩き出した。後ろからユリアと少年が付いてきている気配を感じる。そして僕の背中を貫くかのような視線が、少年から発せられていることも。
 屋敷は僕たち4人だけで生活するには十分過ぎるほど大きく、外装内装ともに瀟洒だった。使っている部屋より使っていない部屋の方が多いくらいだったが、カレンが小まめに掃除をしているので清潔さは保たれていた。
 玄関を抜けると、音を聞きつけたらしいビアンカが、居間から顔を覗かせた。すると例に漏れず驚きで短い悲鳴を上げ、後からやってきたカレンもまた口を覆った。
「カレン、悪いけど手当てしてくれるかな」
「え、ええ、こっちへいらっしゃい」
 ユリアが声をかけるとカレンは我に返ったようで、大急ぎで手当ての準備をし始めた。僕たちは居間へ行き、適当なソファに少年を座らせる。
「手当てなんていらないよ。こんな傷、すぐ治る」
 カレンが洗面器とタオルを持ってきて腕を拭き始めると、少年は痛みで腕を引っ込めながら言った。
「駄目よ、破傷風になってしまうかもしれないでしょう。どんな傷でも、きちんとした処置さえすれば良くなるのよ」
 すると少年は傍らに立っている僕をちらりと見て、すぐに視線を移した。何の意味があるのか分からなかったが、彼の瞳には特別な何かを感じてしまう。
「ねえ、あなた、どうやってここに来たの? この傷はなあに?」
 物怖じしないビアンカは、興味津々といった態度を隠さずに問い掛ける。
「僕は荊を抜けて来たんだよ」
「だからこんなに傷だらけになっちゃったのね。痛かったでしょ、どうしてそんな無茶をしたのよ。セシルでもそんなことしないわよ」
「どれくらい痛いのか、試した」
 そう言うと少年は自嘲気味に口元を歪めた。自ら進んで荊を抜けたとは、相当変わった性格をしていると感じる。
「馬鹿ね、自分から傷付く人がいるもんですか」
「僕はこの痛みを知らなきゃいけなかったのさ。どうしてもね」
 ビアンカは疑問の残る表情を向け、首を傾げたので、僕も分からないという素振りをして見せた。少年の言葉は、僕たちが理解する意味の他に違うそれもあるような、どこか不思議な響きを持っている。
「さあ、もういいわよ」
 手当てが終わると、カレンは満足そうに微笑んだ。一方、少年は腕を持ち上げながら眉根を寄せる。
「ミイラみたいだ」
「仕方ないわ、傷が広範囲なんだもの。ねえ、折角だし、あなたもお茶を飲んでいきなさいよ。カレンの作るクランペット、美味しいのよ」
 少年が答える暇も与えず、ビアンカは彼をテーブルまで案内すると椅子に座らせた。その瞬間、突然警報が鳴り響いたかのような衝撃が、僕の頭を殴る。
「駄目だよ。彼は僕たちとは無関係なんだから」
 次々に椅子に座る彼らを見て、僕は一人突っ立ったまま主張した。ビアンカ、ユリア、カレンは驚いたように僕を見、最後に少年がゆっくりと振り向いた。
「早く出て行けよ。もう十分だろ。ここは君が来ていいところじゃない」
「ちょっと、セシル、何を言い出すのよ。そんな意地悪、言わなくてもいいじゃない」
「ビアンカの言う通りだよ。そう注意深くならなくても、お茶くらいいいじゃないか」
 口々に意見する姿を見て、彼らは僕のように少年に対して恐怖を持っていないということに気付く。どうして僕だけが、こんなに彼を拒絶してしまうのだろう。
「ふうん、そんなに秩序が乱されることが怖いの」
 少年は挑発するように言うと、立ち上がって僕の目の前にやって来た。冴え冴えとした青い瞳は、月光のように心の襞を突き刺す。
「さっきからずっと怖がってるよね、君。自分がこの国の王様にでもなったつもりで、異端者を弾き出そうとしてるんだろ。思い上がって、馬鹿みたいだ」
「随分勝手なこと言ってくれるね。部外者の癖に図々しいよ」
「何さ、部外者部外者って。そんなに君は偉いわけ」
「ここにはここの決まりがあって、僕たちはそれに従って生きてるだけだよ」
「決まりってどんな?」
 僕は、ちらりとテーブルを囲む三人を見る。事の成り行きを見守ってはいるものの、それぞれに気を揉んでいるようで、心配そうな視線を僕に送り続けていた。少年の出現によって、僕たちが肯定していた事柄の輪郭がぼやけて、終いには剥落していくのではないかという絶望に捕らわれる。僕は内心首を振る。決してそんなことはない。
「僕たちは、自分の意思では柵の外に出られない。正門には鍵が掛けられているし、高い鉄柵に囲われているから。だけど僕たちが大人しくしているのは、外から偶に顔を出してくれる人が一人いるからなんだ。彼がこの決まりを作った」
「その変な決まりを作ったの、誰さ」
 見ず知らずに他人に明かすことではないと思ったが、正当な理由がないと少年は納得しないだろうと思い、一呼吸置いて僕はその名を口にした。
「アシュレイ伯爵」
 少年が僅かに目を見開いたのを見て、僕は更に畳み掛ける。
「彼は庇護者なんだ。僕たちが生活するのに困らない場所、食料、衣服を与えてくれている。そして彼は決まりを守って大人しくしていたら、僕たちを一人ずつ外の世界へ帰すと約束してくれた。だからそれまで、アシュレイ伯爵が迎えに来るまで、僕たちはここで待ってるんだ。何の意味があるのかは分からないけど、彼に考えがあるんだと思う。だから君は、今すぐここを出なくちゃいけない」
「分かった。じゃあ、僕もここに置いて」
 そのあっけらかんとした様子に、僕は唖然とする。本当に聞いていたのか、理解したのか、揺さぶって詰問したい気分に襲われたが、それ以上に驚きの方が勝っていた。
「自分が何を言ってるのか、分かってる?」
「ああ。僕をここに置いて欲しいんだ。いけない?」
「だから、たった今駄目だって説明しただろ。どうしてそう話が飛躍するの」
「君、大口を叩くのもいい加減にしなよ。僕はアシュレイ伯爵の息子だ」
 僕は再び言葉を失った。言い合いを観察していたビアンカたちも、顔を見合わせている。空気を察したのか、少年は更に言葉を続けた。
「嘘じゃないよ。僕は父さんと一緒にここに来るはずだったけど、手違いで僕が先に着いたんだ。でもあと何日かすれば来ると思うよ」
「本当なの? おじ様、ここに来るの?」
 ビアンカが喜びに震えた声で尋ねると、少年は頷いた。
「でも、君がアシュレイ伯爵の息子だという証拠がない」
「信じられないなら、父さんが来たとき直接聞けばいいさ。一目瞭然だろ。どう、セシル。これでも僕をここに置いてくれないの?」
 少年が僕の名前を呼んだことで、僕は短く声を上げた。彼の名前を聞いていなかったことに気付いたのだ。
「君の、名前は?」
 涙で固めた硝子のような瞳の奥で、何かが光った。
「ルシオラ」



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