僕は、光の中にいた。
 まるで深海から引き上げられたように、突如として刺すような眩しさが目に飛び込んできた。思わず目を閉じたが、暫くして今度はゆっくりと瞬きをしながら光を受け入れた。見慣れた部屋に、僕は横たわっていた。午後の柔らかい日差しが薄いカーテン越しに部屋中を満たし、全てを透明に染め上げている。僕は、僕自身の心が途轍もなく静かで、凪のように穏やかなのが当然であるかのような心情に、驚いた。今や僕は他人を自分の荒波に巻き込む術を失ってしまい、とても無防備な姿だった。
 長い長い夢を見ていた。甘いのに息苦しく、哀しいのにほんのりと光が差し込んでいる、そんな夢だった。その中で僕は絶望と希望の狭間で揺れ動き、そして僕自身を破壊したのだ。
 ふと、強い風が窓から入り込み、僕の頬を通り抜けて行った。僅かな薔薇の香りと数枚の白い花弁が舞い込んで来て、踊るように身を翻したあと、床に着地する。もう夏も終わりに近付きつつある。
 その刹那、扉が静かに開いて見知った人物が部屋に入ってきた。その人は僕を見るなり心底驚いた表情をし、手に持った花瓶を取り落とすところだった。しかし次の瞬間には部屋の外で慌てて声を張り上げる。
「伯爵様、伯爵様! セシル様が目を覚まされましたよ!」
 すると数人が廊下を走る音で静寂が破られ、音の主が次々と僕の部屋へなだれ込んで来た。やつれたようなアシュレイ伯爵、初老の医師、若い看護士のシェリー、そして泣いているメイドのクレア。
「セシル、セシル、ああ、奇跡だ」
 アシュレイ伯爵は僕の元に駆け寄り、目に涙を浮かべながら言った。僕はゆっくりと唇を動かす。
「僕は……生きているの?」
「そうだ、生きているよ、セシル。運良く荊の垣根に落ちたから命に別状はないのに、君は3日も眠り続けたままだった。わたしは君がこのまま目を覚まさなかったらと悪い方にばかり考えてしまって、本当にどうしようかと……」
 感情が昂ったのか、アシュレイ伯爵は目頭を押さえた。入れ替わって、医師が老いた顔に泣き笑いのような顔を作る。
「本当に良かった、セシル。今の気分はどうだい?」
「良いです、先生。吃驚するくらい」
 するとクレアがもっと激しく泣き出したので、シェリーが彼女から花瓶を受け取って、近くの棚に飾った。白い薔薇が一輪と、それに寄り添うような蕾がひとつ活けられていた。花瓶の側には遺品であるユリアのスケッチブック、カレンの手帳、ビアンカの人形が置かれていたので、理解はしていても胸が軋んだ。
「その薔薇は?」
「これは、ルシオラ様がセシル様にと、切って下さったのです」
 尋ねると、クレアは激しくしゃっくり上げながら説明した。そしてシェリーが微笑みながら言葉を繋ぐ。
「他の薔薇はもう散り始めていますけど、これは遅咲きですね。この蕾もじきに綺麗な白い花びらを開かせると思いますよ」
「赤かもしれない」
 僕の呟きに、シェリーは首を傾げた。すると涙を拭いたアシュレイ伯爵が、僕の頭を優しく撫でる。
「いいかい、セシル。君の胸に赤い薔薇は咲いていないよ。咲くのは白い薔薇だ」
 その言葉は僕の心の深い穴に吸い込まれる。やっと胸の痞えが取れ、深く息が吸えるようになった。
 僕はアシュレイ伯爵にも他の大人たちにもたくさんの苦労をさせてしまったことを心から申し訳なく思った。彼らは僕を何とかして救おうとしてくれていたのに、不器用な僕は救いの手を振り払うことしか知らなかった。
「ごめんなさい、今までたくさん迷惑をかけて。でももう安心して下さい、僕は生きるから」
 ベッドを囲んでいた大人たちはそれぞれ微笑みを交わしているのを見て、僕は身体を起こした。荊の棘で出来た傷が所々で痛んだが、我慢をしてベッドから抜け出る。立ち上がるとぐらりと眩暈がし、倒れそうになった僕をアシュレイ伯爵が支えてくれた。
「そんな身体でどこへ行くんだ。まだ寝ていてくれなければ、わたしは心配で……」
「父さん、僕はルシオラに会わなくちゃ。そうしたら、あなたの言う通りにする」
 そう言って微笑を向けると、アシュレイ伯爵、いや、父は驚いて声も出ないようだった。僕の心に憎しみはもう欠片さえ残っていなかった。父もまた長年苦しみ、僕に対しても深い悔恨を抱いていることを知っている。
 僕は大人たちを部屋に残し、思い出が染み付いた屋敷を駆け抜けた。3日間眠り続けていたので眩暈がし、足も酷くおぼつかなかったが、彼に会いたいという気持ちだけで心と身体が競うように前へ前へと進む。
 外に出て、庭を突き進んだ。薔薇の盛りは終わりに近付き、散った花弁が風に乗ってそこら中で舞い上がっていた。現実の世界なのに夢のように美しく、まるで全てが終わったことを祝福してくれているようにも見える。そう、終わったのだ。僕の孤独と自我との戦いは、たった一人の少年によって終止符を打たれた。
 長いパーゴラを抜けたその時、僕の耳に聞き覚えのある歌声が届いた。更に駆けて行くと、大木の幹にもたれ掛かり、どこか遠いところを見るような目をした少年を見つける。彼は相変わらず細い声で歌を歌っていた。雲の切れ間から差し込む光を思わせる、柔らかくて高い歌声。そして、天に捧げる祈りの歌詞。
 僕がいることに気付いたルシオラは歌うのを止め、僅かに目を瞠った。僕は彼との間にある距離を早く短くしてしまいたくて、転がるように駆けて行った。だがやっと彼を目の前にすると急に足から力が抜けてしまい、その場に力なく座り込んだ。ルシオラは慌てた様子で僕の正面に屈む。
「何しに来たの、3日も寝てたくせに無理するなよ」
「今の歌、フォーレのピエ・イエスだ」
 僕は息を切らしながら、搾り出すように言った。ルシオラは意表を突かれたような顔をしたあと、すぐに笑顔を作る。
「やっと思い出したの? 遅いよ」
 夢の中で、ルシオラが歌っていたときのことを思い出す。あれは彼なりに僕に信号を送っていたのだ。何か一つでも思い出すように、祈りを込めながら。考えると、他にもルシオラは様々なヒントを与えてくれていた。僕が現実で眠ったままにならないよう、悲しみを乗り越えて生きてくれるように。
「僕もたった今目が覚めたところ。ここで少し昼寝をしてたんだ」
「僕と君は同じ夢を見ていたよね。ユリアとカレンとビアンカがいて、一人ずつアシュレイ伯爵に連れて行かれる夢。そして最後に僕は、真実を思い出すんだ」
 ルシオラが頷くと、僕は急に感情が込み上げてきて、頬を涙が伝った。哀しくなんてないのに涙は後から後から溢れる。僕は今まで哀しみの涙しか流したことがなく、嬉しくて泣くなんて不思議な気分だった。しかしこの感情は、今まで感じた何よりも愛しい。
「夢でも現実でも、君は泣いてばかりだ」
 ルシオラは呆れた口調の中に笑みを含ませて言った。本当にその通りで、僕は笑う。
「そう言えば僕ら、現実では14年ぶりの再会をしたことになるんだよね。でも先に夢で会ったから不思議な気分だ」
「そう言えば、どうして同じ夢を見ていたんだろう」
 僕は涙を拭きながら素朴な疑問を口にした。するとルシオラは呆気に取られたような顔で目を瞬く。
「双子だからに決まってるよ」
 その言葉で、僕は意外にも納得出来てしまった。僕と彼は長年離れていても、根底では何かが繋がっているのかもしれない。
「それに僕は祈ってた。君が真っ暗な道で迷子にならないように、僕がランプになりますって」
「本当に君はランプだったよ。立ちすくんでる僕を、現実まで導いてくれたもの」
 するとルシオラは小さく微笑んだ。
「ランプだって、消えるときもあるけど」
 その瞬間、彼にも彼なりの苦しみがあることを知った。考えると、母を疎んじていた伯爵家で、望まれない子であるルシオラが肩身が狭い思いをしていないはずがなかった。僕はこれから彼のことを知っていかなければならない。そして挫けそうになったときは、今度は僕が支えなければ。
 僕たちの横を、夏の風が通り過ぎて行った。群生する緑の木々は幾つもの光の粒を散らし、僕たちの行く末をただただ見守っている。僕たちはかつてこの中で暮らしていた。涼やかな緑陰で、太陽で温もった草原で、花盛りの庭園で、僕たちは妖精のように暮らしていた。
「ねえ、またあれを歌ってよ。曲名当てられたら歌ってくれるって約束してただろ」
「君の頼みを聞くの、あのときが最初で最後にならなかったな」
 ルシオラは皮肉って言ったが、少しもそんなことを思っていないのは明らかだった。やがて彼は透き通った青い瞳で僕を真っ直ぐ見据え、穏やかに笑いかける。
「君も一緒に歌うならいいよ」
 そして僕たちは静かに歌い始めた。この場所で命を落とした4人に届くよう、そして僕たちの未来が幸福であることを願って。
 そのレクイエムは、薔薇の螺旋に乗って天上高く舞い上がる。


<fin>



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