9 「ネージュ、ネージュ」 その絡み付くようなまろやかな声音に、ロランは執務机から顔を上げ、開け放った窓辺へ向かった。庭で、幼子が弾けるように笑っている。その笑顔を見ただけで、ロランの心が穏やかに澄み切っていくのを感じた。 「社長、いい加減にしてください」 秘書のアナトールが眼鏡の縁を持ち上げながら、そう言った。 「もう何度目ですか。仕事に集中できないのなら、もう結構です。後は私が書類に目を通しておくので」 「本当か? それは有り難い。悪いな、いつも」 「本当ですよ」 少しも笑わないアナトールに、ロランは笑い声を立てた。 「給料を弾むよ。それで勘弁してくれ」 「ええ、そうしてもらうつもりです」 「おまえ、それが社長に対する口の聞き方か? 俺が婿養子だからってなぁ」 「いえ、そんなつもりは。社長は奥様とネージュ様を心から愛していることが伝わってくるので、どうやってセドラン家に取り入ったのだろうなんて邪なことは考えませんよ。今はですが」 それでは、昔は考えていたのか。ロランは苦笑した。当たり前だ。下町育ちの貧乏な若造が、一気にいくつもの会社を持つ富豪、セドラン家に婿に入ったのだ。そう思われてもおかしくない。何年か前は会社経営なんて右も左も分からない若造が、どうやってあの風変わりな娘を口説いたのか、などどと陰口を叩かれていたことを知っているが、この五年間の業績はその者たちを閉口させるに効果があったようだ。お陰でこうして本音も言い合える部下もできた。 「何もかも、オーレリー夫人の手引きのお陰さ」 かつてはセドラン家が持ち直すまで、セドランの子会社で働いていたオーレリーの夫が代理の社長だったが、彼は今やロランの下で働いている。ただ、オーレリーはロランをこの家に連れてきた張本人であり実家なので、今も我が者顔で屋敷に入り浸っている。 「そう言ってあなたはご謙遜なさる。奥様のお心を動かしたのはあなたでしょう。かつて、私も家庭教師という名目でセドラン家にやってきたのですが」 初めて聞く話だった。ロランは思わず吸っていた煙草を落としそうになった。アナトールは平然とした顔で、書類に目を通し続けていた。 「おや、お話するのは初めてでしたか。それはそれは酷い一週間でした。奥様とオリヴィエ様は、天使の衣を纏った悪魔でした。もっとも、私はかつての奥様と会話をしたことさえありませんでしたが。話しかけても無視をするんですよ。逆にオリヴィエ様は無邪気で人懐こかったのですが、ただ残忍なところがお有りになった。命を命と思わない節があったように思います。私は数々の悪戯を受けましたよ。極めつけは部屋にねずみの死体が散乱していたときです。勤まらないと思いましたね。後になってオリヴィエ様と奥様の生い立ちを聞いたときは安心したものです」 「安心? なぜ?」 「もし奥様に見初められて婿に入ったとしても、オリヴィエ様がいるなら心の安寧は得られないと思ったからです」 秘書は書類を纏め、几帳面に整えた。そしてロランの方を向き、微かに笑った。 「冗談ですよ。私如きの男を、奥様が見初めるわけがないでしょう。社長と奥様はお互いに惹かれ合い、結婚した。その紛れもない事実にもっと胸を張るべきです。オリヴィエ様のことは、もう忘れるには十分な時間が過ぎていると思いますよ」 ロランは思わず苦笑が漏れていた。アナトールはいつもは毒舌だが、こうして気紛れに気遣いを見せることがあった。そんな彼がロランは嫌いではなかった。かつて家庭教師として雇われていたことを言わなかったのはいかがなものかと思うが。 「そうだな。所帯を持つのはいいものだよ。おまえも言い交わした女はいないのか?」 「おりません。今は社長の世話で精一杯ですので」 ロランはまた苦笑した。 「早く奥様とネージュ様の元へ行ったらどうです。突っ立っていられると仕事が進まないのですが」 「ベラベラ話してたのはおまえだろうが。まあ、いい。少し出てくる」 ロランは煙草を灰皿に押し付け、執務室を出た。テラスに顔を出すと、すぐにネージュが気付き、駆けてきた。 「お父様」 その声に、ブランシュも振り向いた。金糸の長い髪が、肩から流れる。 「ネージュ。俺たちの天使」 駆け寄ってきた娘を、ロランは高く抱き上げた。子ども特有の甘ったるい匂いが、ロランの鼻孔をくすぐった。ネージュはきゃらきゃらと笑い、ブランシュによく似た顔立ちを輝かせた。 「あなた、お仕事は?」 近付いてきたブランシュの声には、僅かな棘があった。ロランはブランシュから顔を背け、ネージュのばら色の頬にキスを落とした。 「大丈夫。もう終わったよ」 「アナトールに任せてきたんでしょう」 思わず口籠もったロランに、ネージュがくすくすと笑った。 「どうして分かるんだ」 「分かるわよ。あなた、本社で仕事をした方がいいんじゃなくて? 家にいるとネージュが気になって集中できないのでしょ」 「手厳しいな、君は。婿養子とは肩身の狭いものだ」 ブランシュはくすくすと笑い、ネージュもまた釣られて笑った。 「冗談よ。私もネージュも、あなたがいると安心するわ」 ロランは愛しい妻にキスを落とした。途端、ブランシュの身体が傾いだ。思わず細い腰を抱き寄せる。 「大丈夫か」 「ただの立ちくらみよ。日光に当たりすぎたのかしら」 ロランは眉を顰めた。五年前にネージュを生んでから、ブランシュは身体を崩し始めた。元々虚弱体質だったこともあったが、17歳という若い年齢で出産したことが祟ったのだろう。 「イレーヌ、イレーヌ!」 呼ぶと、イレーヌはすぐに顔を出した。 「お呼びでしょうか」 「ブランシュに何か冷たいものを持ってきてくれ」 「はい、旦那様」 イレーヌが行ってしまうと、ブランシュは顔を上げた。 「大丈夫よ」 「無理をしてはいけない。君は日陰で休んでいなさい」 ブランシュはネージュの頬にキスを落とし、渋々といった様子で日陰の椅子に腰掛けた。すぐにイレーヌが盆を持って戻ってきた。 「ジンジャーエールです、奥様」 「ありがとう、イレーヌ。あなたも一緒にお茶でもいかが?」 「いいえ、滅相もない。ただいま、昼食の準備をして参ります。こちらでお召し上がりになりますか?」 「そうね。ロランも外の空気に触れていたいだろうし」 イレーヌが慌ただしく室内へ戻ったあと、ロランはネージュを抱えたまま庭のビニールプールへと向かった。 「さあ、ネージュ。今度はお父さまと遊ぼう」 「もっと冷たいお水がいいわ」 ネージュはぬくまったビニールプールの方を見て、ロランに訴えた。 「それじゃあ、水を取り替えよう」 「湖のお水はもっと冷たいの?」 その問いに、ロランもブランシュも笑顔を失った。 「この気温だ。湖もぬるいさ。ネージュ、お父様とお母様との約束を忘れてはいないだろうね?」 「湖に近付いちゃいけないんでしょう」 「そうだ。あそこは君のお祖父様やお祖母様が眠る神聖な場所だ。過去に一度、君も溺れかかったことがあるんだよ。覚えているかい?」 「覚えてるわ。冷たくてきらきらしてて、お日さまも木も青いのよ。お父さま、わたし、人魚になりたいな。湖の底のお城で暮らすの」 ネージュは湖水色の瞳をうっとりと潤ませた。ブランシュが読み聞かせた本の影響だろう。ネージュは夢見がちな少女に育った。弟しかいなかったロランにとって、ネージュの空想的な言動や行動に戸惑うことも多かったが、ブランシュは女の子とはこんなものだと深く考えていなかった。今ではロランもさほど気にしていない。しかし、湖に興味があることは危険だと思っている。ネージュが2歳になるかならないかというころ、湖で水浴びをしていたところ、足を滑らせて危うく溺れかかったことがあるのだ。それ以来、ブランシュはネージュが湖に近付くのを嫌った。あの場所は墓所であり、父とオリヴィエが野犬に襲われた場所であり、命を落とした場所でもあったからだ。もう再び陰惨な事故が起きることがないように、ロランとブランシュはネージュが湖に近付くことを禁止したのだった。 「ネージュ、君は立派なお屋敷に住んでいるじゃないか。君はお父様とお母様のお姫様なんだよ。湖の国へ行ったらもう会えなくなる」 「そんなの嫌よ」 「それなら、言うことを聞いてくれるね? 湖には近付かないこと」 「分かったわ、お父様」 「いい子だ」 ロランは袖とスラックスを捲り上げ、ネージュと水をかけ合って遊んだ。やがて、ブランシュがテラスから呼んだので、3人で昼食を食べた。ブランシュは子どもを一人産んでも少女のような瑞々しさを失わず、ネージュは邪気の欠片もない天使のような子どもだった。ロランは自分が世界で一番幸福な男だと信じて疑わなかった。 back? next? |