ロランは夢中でアニエスの日記を読んだ。前半は子どもが生まれた喜びに満ちた内容だったのに、徐々にそれは変化してくる。夫の浮気。同じ男であるオリヴィエへの嫌悪からくる拒否反応。ブランシュへの異常な執着。そして、湖での出来事。続けざまに死んだ夫。それ以来、記憶を無くしたアニエス。忘れられ、彼女の中で死んだ悪魔、オリヴィエ。そして天使であるブランシュ。
 ロランは、耳の奥で心臓がせわしなく動く音を聞いた。この日記は何なのだろう。なぜ、こんなところにあるのだろう。湖で何が起こったというのか。オリヴィエは生きている。クレマンはなぜ嘘を伝えたのか。夫の死は事故なのか故意なのか。だとしたら誰が殺したのだろう。記憶を失ったアニエスか。
 その時、扉が激しく叩かれた。心臓が跳ね上がり、思索に耽っていたロランはすぐには動けなかったが、なおも扉は激しく叩かれた。おぼつかない足で近付いていき、扉を開け放つと、オーレリーが必死の形相で立っていた。
「大変よ。アニエスが死んでいたの」
 ロランの心臓は再び跳ね上がった。
「どうしてですか」
「知らないわ。今、クレマンが様子を見に行ったら、部屋で倒れていたんですって。ロラン、ブランシュを呼んできてちょうだい。あの子は私の言うことは聞かないけど、あなたの言うことなら聞くでしょう。頼んだわよ」
 返事を聞かずオーレリーは廊下を駆けていき、やがて暗闇の中に消えた。アニエスが死んだ。突然もたらされた現実が、ロランを追い立てるようにブランシュの部屋へと走らせた。あのとき、ブランシュの言うことを無視して、クレマンを呼びに行けばよかったのだろうか。そうしたら、こんなことにはならなかったのではないだろうか。
 ブランシュの部屋の扉を叩くと、扉がゆっくりと開いた。隙間からぬっと出てきた細い手はロランの手を取り、部屋の中へといざなった。部屋の中は暗かったが、ベッド付近だけはほの青かった。
「ブランシュ、君の母親が死んだそうだ」
 ロランは自分の声が震えていることに驚いた。ブランシュは立ち止まり、手を放した。
「予想通りだ」
 その抑揚のない声に、ロランは度肝を抜かれた。
「ああいう風に言えば、お母様は怒りで癇癪を起こすって分かってた。そして多分、取り返しのつかないことになるってことも」
 ロランはブランシュの前に立ち塞がり、肩を掴んで揺さぶった。
「何てことを……! 分かっているのか、君は母親を殺したも同然なんだぞ」
「分かってるよ。ロラン、あんたも同罪だ」
 突然、空を割るような雷鳴が轟いた。窓から差し込んだ強い光が、一瞬ブランシュの表情を浮かび上がらせた。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。首に腕が絡まったと思った途端、ロランは唇にブランシュを感じていた。雨が堰き切ったように振り出したこと感じたのも束の間、ロランは強い力で押され、ベッドへ倒れた。ブランシュはロランの身体の上に跨り、昏い瞳で見下ろしていた。
「ロラン、逃げるなら今だ。今、この混乱の中なら逃げられる。僕を愛しているなら、一緒に逃げて」
「どうしてだ。なぜ母親を殺してまで逃げる必要がある?」
 ロランは突然、部屋からずっと手に持っていた本の存在を思い出した。アニエスの日記を、ブランシュの前に翳した。
「君たちの母親の日記を読んだ」
 ブランシュの表情は、無から驚愕に変わった。
「どうしてそれを?」
「知らない。部屋にあった。ブランシュ、君はオリヴィエと違って母親に愛されていたじゃないか。それなのにどうして、こんなことができる?」
「それは……お母様は僕を……」
 ブランシュは口籠もり、かたかたと震え出した。ロランは手を伸ばし、ブランシュの冷え切った手を強く握った。
「ブランシュ、全てを話してくれ。君たち双子が生まれてから、現在までのことを」
 ブランシュはロランと自分の指を一本一本絡み合わせ、瞳を覗き込んできた。
「ロラン、僕を愛している? そう言ったのは嘘じゃない?」
「嘘じゃないよ。俺は君がどうしてこんなことをしたのか、それを知りたいだけだ」
 ブランシュは目を伏せ、しばらくの間思案しているようだったが、やがて小さな声で語り始めた。雨音で声がかき消されないように、ロランは全神経をブランシュに集中させた。
「幼いころ、お母様は僕たち双子に分け隔てなく優しかった。でも、崩壊は少しずつ少しずつ始まっていたんだ。お父様の浮気が激しくなるにつれて、お母様の精神は嫉妬と憎悪で犯されていった。でも、お母様が完全に壊れたのは、僕たちが8歳のときだった。湖で水浴びをしていたとき、野犬がオリヴィエを襲ったんだ。オリヴィエは身体中を噛まれて……」
 ブランシュは身体を支えていられなくなり、繋いでいない方の手をロランの胸に突いた。
「男ではなくなった」
 その声には何の感情もなく、しかしはっきりとロランの耳に届いた。ロランの脳裏に、未だ少女のようなオリヴィエの姿が浮かんだ。もう16歳だと言うのに変声期すら迎えておらず、体つきも少女のように貧弱で、背もブランシュと変わらない。そして時折思い詰めたような表情をしていたこともあり、今は心身のバランスを崩して病床に伏している。その背景には、オリヴィエが跡取りなのにも関わらず男として機能しないことが関係していたのだ。
「お母様はあまりのショックで、無意識のうちに忌まわしい記憶に蓋をした。お母様は奇形になったオリヴィエを前以上に受け入れられなくなった」
「それで、クレマン先生はオリヴィエを死んだことにしたのか。あの人の精神を保つために」
「そう。心身に傷を負い、いない子どもになったオリヴィエを哀れだと思う?」
「ああ。……とても」
 幼いときに授かった性を生きられなくなったオリヴィエ。アニエスを求めて泣いたオリヴィエ。未だベッドから起き上がることができないオリヴィエ。それらが全て重なり合い、ロランの胸を軋ませた。
「本当に? 心の底から?」
「ああ。身が引き裂かれるようだ」
 ロランはブランシュから視線を外し、窓の外を見遣った。強弱をつけながら窓を叩く雨音の合間に、閃光が闇を切り裂いた。途轍もない哀しみが、ロランの内側から染み出してきた。オリヴィエはあの小さな身体で、両親から愛された記憶もないまま、跡取りとして生きて行けなければならない。その重責は、いずれオリヴィエを押し潰してしまうのではないだろうか。ロランはあの頼りない細い身体を抱き締めてやりたい衝動に駆られた。
「オリヴィエは跡継ぎで、ブランシュは子を成さなければならない」
 ブランシュは独り言のように呟いた。視線を戻すと、ブランシュはロランと繋いだ手を放し、ワンピースのボタンを外し始めていた。暗がりの中でも、ブランシュの指は発光しているかのように白く、ロランの目は動かせなくなった。
「それが僕たちの使命だった」
 雷鳴が轟き、閃光が部屋を満たした。くっきりと浮き出た鎖骨が映し出され、そっと開いた胸元さえも余すところなく晒された。ロランは自分の目に映るものが信じられず、大きな力で奈落の底へ突き落とされていくような感覚がした。
「ブランシュがあんたに惹かれていたのに、僕もあんたを愛してしまった。あんたは優しかった。お父様にもお母様にも虐げられてきた僕を……愛してくれた」
 金の長い髪が、閃光を浴びて銀に光る。瞳は昏い湖の色を湛え、ロランを凝視している。そして開かれた胸はただただ薄く、少女の証である起伏がなかった。その代わりに縫合の跡が蛇のように平らな胸を這っている。
「まさか……君は、オリヴィエ……?」
 喉が渇いていた。やっとのことでそう口にすると、ロランに跨った人物は苦しそうに頷いた。
「お父様が死んでから、お母様は半狂乱になった。愛していたブランシュでさえ、受け入れられなくなった。ブランシュも、お母様には近付かなくなった。なぜなら、ブランシュは女である自分を捨てたから。この辺のいきさつは、僕は詳しく知らない。僕は生死の境をさまよっていたから」
 激しい雷鳴と閃光のせいで、陰惨な事故の名残がロランの目に残像を残すほどはっきりと映り込む。夢でも幻でもないと訴えかける。
「ブランシュはお父様に性的な虐待をされていたんだ。だから、女が嫌になったんじゃないかと思う。煙草の火だって、僕がブランシュに頼まれたんだ。首筋に残った鬱血が嫌だから焼いてくれって。僕はお父様が心の底から憎かった。お母様もブランシュも、お父様のせいで苦しんでいた」
 触らないで、と拒絶されたときのことを、ロランは思い出した。痣だと言った首元は、痣と言うには焼け爛れたような跡ではなかったか。あの人物はオリヴィエではなく、ブランシュだというのか。
「お母様の状態が落ち着いてきたころ、ブランシュを部屋に呼んだ。けど、ブランシュは頑なに拒んだ。だから仕方なく僕がお母様と面会した。その頃の僕は髪が短かったし、すぐにブランシュではないと気付くと思っていた。でも、お母様は気付かなかった。僕をブランシュだと思い込んでいた。僕は髪を伸ばしブランシュと名乗り、ブランシュは髪を切りオリヴィエと名乗るようになった。幸い、僕は男としての特徴が出てこなかったから、お母様を騙し通すことができた。僕は嬉しかったんだ。ブランシュとは少し気まずかったけど、オリヴィエとして見えもらえなくても、お母様に優しく接してもらえることが嬉しかったよ」
 入れ替わった双子と、狂った母。愛情を注がれなかった子どもは、歪んだ愛情を受け入れた。
「オーレリーは、この家の異常性を憂いていた。血が途絶えることだけは避けなければならないと、家庭教師として若い男を何人も連れてきた。だけど、ブランシュはどの男も気に入らなかったし、跡取りとしての、女としての自分を認めたくなかった。僕たちはそいつらが自発的に辞めていくように色々と仕組んだ。ロラン、あんたもその一人だった。でも、あんたは特別だ。ブランシュが、あんたに一目惚れをしたんだ。あんたはもう逃げられない。近い将来、ブランシュと結婚させられる。この間、オーレリーとクレマンが話し合っているのを偶然聞いたんだ。ブランシュの身体が女になりつつあることも……」
 オリヴィエは、ロランの服を強く掴んだが、涙は抑えられなかったようだ。肩を揺らしながら、オリヴィエは、ロランの胸の上にいくつもの涙を落とした。
「ブランシュはもう、僕のような頼りない兄を必要としていない。僕は、男がブランシュに触れるのが嫌だったから、これまでたくさんの悪戯をして追い出してきた。でも今は、ロラン、あんたが僕じゃなくブランシュに触れることが嫌なんだ」
 ブランシュは更に身体を乗り上げてきて、ロランの上に四つん這いになった。長い髪が檻のようにロランの顔を包み込んだ。
「僕は男にも女にも属さない。でも、あんたが弟を愛するみたいに僕を愛してくれたら、もう何もいらない。一緒に逃げよう、ロラン。僕とあんたは同罪だ」
 頭痛と、吐き気がしてきた。ロランの中で、セドラン家に来てからの様々な出来事、双子と過ごした日々が、フィルムを巻き戻すかのように流れ出した。ブランシュは活発な少女だった。家人から疎まれ、泣く姿にロランの自制心は崩れた。しかし、ブランシュはオリヴィエで、男で、男ではない存在。禍々しいと言ったオーレリー。怖いと言ったイレーヌ。それは彼が奇形だからか。
 ロランの身体は、心よりも早く動いていた。身体の上に跨るオリヴィエをなぎ倒し、立ち上がった。恐ろしい程青い目が、ロランを射抜いた。
「ロラン……」
 伸びてきた手から、ロランは離れた。
「ロラン、僕を愛しているんだろう? 哀れだと思うんだろう? そう言ったじゃないか」
 ロランは、無意識のうちに首を横に振っている自分に気付いた。予想だにしなかった事実は、ロランの中でオリヴィエを拒絶していた。
「一命を取り留めたはいいものの、僕は辛かった。哀しかったよ、ロラン。呪われた身体で生きることを、想像したこともないだろう? 何度も死のうと思った。でも幼く知識もない僕は何度も死に損なった。お母様に必要とされるようになってからは、死ぬことも許されなくなった。僕は、女じゃないのに女みたいに生きていくことしかできなかった……!」
 オリヴィエの瞳が、ロランに訴えかける。それでも、一度失ったロランの心は戻らなかった。
「でも君は、女じゃない」
 雷鳴が轟き、茫然としたオリヴィエの姿を映し出した。
「女が、女のような僕を愛すはずないじゃないか。僕は女を愛したくても愛せない。ならば男に愛してもらう他、僕は誰にも愛されないじゃないか」
 再び部屋中が白く映し出された。オリヴィエは自らが雷を生み出しているかのようにわななき、静かな怒りと絶望を放っていた。
「何度も何度も、あんたは僕を抱き締めた。キスをした。そうして優しい声で愛を囁いたじゃないか」
 ロランはこれまでの自分の行為を、深く後悔した。オリヴィエを哀れだとは思う。しかし、全てを知らなかったときのように愛することはもう、できなかった。
「気の……迷いだ」
 酷く残酷な言葉だと思った。しかし、これ以上の適切な言葉が見つからなかった。気の迷いだった。オリヴィエに誘惑されて、自制心が陥落し、目の前の少女を愛しているなんて錯覚をした。アニエスの死も、利用されただけで自分には何も非がない。ロランは、オリヴィエに騙されていたのだという考えに行き着き、途端に心が軽くなっていくのが分かった。
 今や雷雨は激しさを増し、部屋は幾度となく強い光に照らされ、暗闇に戻ることを繰り返した。オリヴィエはベッドの上で蹲っていたはずなのに、再び部屋が照らされたとき、ロランの目の前に立っていた。暗闇のうちに立ち上がったのだとしても、ロランにはその一瞬の移動に恐ろしさしか感じなかった。脚が力を失い、その場に座り込んだ。見上げたオリヴィエの目は恐ろしいほど青くぎらつき、表情は怒りに歪み、まるで天使の羽衣を脱ぎ捨てた悪魔のようだった。
「嘘吐き。許さない、許すもんか」
 一際大きな雷鳴が轟いたと思った途端、オリヴィエは部屋を飛び出していった。
「ブランシュ……オリヴィエ!」
 引き留める資格がないと分かっていても、ロランは思わずそう叫んでいた。部屋を出ると、廊下の明かりが全て消え、屋敷は暗闇に満ちていた。雷が落ち、停電したのだ。ロランは壁伝いに進み、オリヴィエの名前を呼び続けた。しばらくの間、位置を把握できないまま歩き続けていると、蝋燭の明かりが遠くに見えた。
「オリヴィエか?」
「ロラン? 大丈夫ですか」
 慌てて駆け寄った相手は、オリヴィエ、いや、ブランシュだった。燭台を翳し、お互いの姿を確認すると、ほっと深い安堵の溜息が漏れていた。
「君はどうしたんだ、こんなところで。体調は? 歩き回って大丈夫なのか?」
「体調は落ち着いてきました。突然、停電したので驚いて。それに何だか良くない胸騒ぎがしたんです」
 ブランシュは辺りを見回した。蝋燭の明かりに照らされた頼りない姿形は紛れもなく少女だった。知ってしまったら、ロランの中である感情が生まれてきた。
「母親のことは聞いたか?」
「いいえ」
「先ほど、亡くなっているのが見つかったそうだ」
 ブランシュは息を飲んだ。
「どうして?」
「はっきりしたことは分からない。俺は今、ブランシュ、いや、オリヴィエを呼びに行って……全てを聞いた。君はオリヴィエじゃない。ブランシュなんだろう?」
 ブランシュは目を見開き、やがて俯いた。
「騙していて、すみませんでした。驚かれたでしょうね」
「いや、大丈夫だよ。元々、ブランシュの振りをしたオリヴィエを少女とは思えなかったから。言葉遣いも行動も粗野だったし」
 本心では全く大丈夫ではないし、オリヴィエを少女だと思い込んでいたのだが、ロランは思わずそう口走ってしまっていた。オリヴィエを貶すようなことを言ったロランだったが、ブランシュは不機嫌になることもなく穏やかな湖水色の瞳を真っ直ぐ向けてきてくれたので、ほっと胸を撫で下ろした。
「言ったでしょう。オリヴィエは子どもなんです。ロラン、あなたの気を引きたくて、破天荒なことをするんですよ」
「しかし、オリヴィエをアニエス夫人のところまで連れてくるように頼まれたんだが、事情を説明すると気が動転してどこかへ行ってしまった。クレマン先生なら『放って置いて大丈夫、いつものことです』なんて言いそうだが……」
「こんな真っ暗な屋敷の中を? まさか、外に出て行ったんじゃ……。ちょっと前、玄関のドアを開け閉めする音が聞こえました」
 窓を叩く雨は、さきほどよりもずっと強く激しくなってきていた。まさか、こんな雨野中出歩くなんて、通常の精神なら考えられない。しかし、あのときのオリヴィエは完全に正気ではなかった。怒りに任せて外に出たのだとしたら危険すぎる。まさか、死んだりしないだろうか。ロランはオリヴィエが最後に自分に向けた言葉と表情を思い出し、背筋が凍った。ロランとブランシュは顔を見合わせた。
「とにかく、アニエス夫人の部屋へ行こう。クレマン先生とオーレリー夫人に知らせなければ。そして街から捜索隊を呼ぼう」
 ブランシュは決意に引き締まった表情で頷いた。ロランは燭台を受け取り、離れ離れにならないようにブランシュの手を取った。一瞬強ばったが、ロランが強く握り返すと、ブランシュもまたゆっくりと握り返してきた。

 街からやってきた捜索隊に混ざって、ロランもずぶ濡れになりながらオリヴィエを探した。しかし、雨足が強く、雷に当たったら危険だと言うことで、捜索は一時中止になった。屋敷へ帰るとブランシュが洗い立てのタオルで身体を拭いてくれ、温かい湯も湧かしてくれていたので、ロランは湯船に浸かりながら一時期オリヴィエを忘れ、ブランシュに想いを馳せた。アニエスが、神経が細やかで優しい、天使のような子だと称した理由が分かった気がした。今まで強烈な印象を放つオリヴィエの後ろに隠れて見えなかったが、ブランシュは破天荒でも乱暴でもない、たおやかな美しい少女なのだった。
 朝方、小雨になってきたころ再び捜索を開始した捜索隊が、オリヴィエを発見した。その一報を聞き、家人たちは見つかったという湖まで急いだ。オリヴィエは敷布の上に仰向けにされ、目を閉じていた。
「オリヴィエ! オリヴィエ!」
 駆け寄ったブランシュが名前を呼び、身体を揺すっても、オリヴィエは目を覚まさなかった。ロランはゆっくりとオリヴィエに近付いていった。長い髪は色をなくした頬に張り付き、何度も重ねた唇は青ざめて、強い瞳はもう開かれることはなかった。オリヴィエは死んでしまった。大きく震えだしたブランシュの肩を抱えると、ロランの胸にしがみついて泣き出した。ロランはブランシュの、本当の少女の身体を抱き締めた。
 クレマンは、アニエスの死因は脳溢血であると診断を下した。元々酷い癇癪持ちだったアニエスは、いつそういう状況に陥ってもおかしくなかったと、悲痛に顔を歪ませた。オーレリーは引き留めたのだが、クレマンはこの事件を期に職を辞した。
 オリヴィエは母の死を聞いたことにより混乱し、湖に落ちてしまったことによる水死として扱われた。オーレリーは葬儀の準備やら警察の対応やらで忙しく立ち回りながらも、落ち込むロランに気にすることはない、あの子はああいう運命を辿る子だったのだと献身的に諭した。
 あっという間にアニエスとオリヴィエの葬儀が済み、セドラン家は元の静寂を取り戻した。同時に二人の命が失われたとは思えないほど、森の緑は輝き、花々も我先にと咲いた。ブランシュは毎日、庭の花を切ってはアニエスとオリヴィエの墓に持って行っているようだった。朝から姿が見えなかったので、ロランはまた墓に行っているのだろうと思い、自分も行ってみることにした。アニエスとオリヴィエの墓は、湖の畔に建てられた。野犬に襲われて死んだ父親の墓もあるのだが、今までは覆い茂る草木の勢力に浸食され、埋もれていたということをロランは初めて知った。
 湖に行くと、ブランシュがオリヴィエの墓の前でぼんやりと座り込んでいた。足音に気が付くと、振り返った。
「ロラン」
 墓に手向けられた白百合の芳香が、ロランの脳髄を痺れさせた。
「またここに来ていたのか」
「ええ。けれどあなたまで来なくてもいいのですよ。オリヴィエが死んだのは、あなたのせいではありません」
「いや……」
 ブランシュの隣に膝を折り、ロランはそれ以上言葉が出てこなかった。もしあのとき、ロランが気の迷いなどとただ拒絶せずにいたなら、オリヴィエは無事だっただろうか。その疑問はロランの胸の奥に燻り続けていた。恐らく一生消えることはないだろう。
「体調は大丈夫か」
「体調はもういいのです。クレマン先生から聞いたでしょう。この歳になって初潮がきたのです。ずっと腹痛が酷かったのですが、それももう治まりました」
 腹痛と言うよりも、精神的な葛藤がブランシュを蝕んでいたのだろう。ロランは草木を取り払われ、姿を現した父親の墓を見遣った。女癖が悪く、幼いブランシュに、実の娘に性的虐待をした父親が、アニエスを狂わし、双子を苦しめた元凶ではないか。ロランはブランシュに視線を戻した。首元に焼け爛れた跡が見えた。
「これから、どうするつもりだ」
 ブランシュは顔を伏せたまま、分からない、と首を横に振った。もし家庭教師を辞めると言ったなら、ブランシュは引き留めることもしないのだろう。自分の心をひた隠しにし、アニエスとオリヴィエの死を一人で受け止めているかのような頼りない横顔に、ロランは胸が締め付けられるような愛しさを覚えた。
「君を愛している」
 生温い風が吹き木々が乱れ、湖が小さく波打った。ブランシュは顔を上げ、湖水色の美しい瞳を見開いた。
「……嘘」
「嘘じゃない。俺は君を愛している。ブランシュ、誰でもない君を」
 ブランシュの顔が、オリヴィエの顔と重なって見えた。以前、この場所でロランはオリヴィエにも愛を誓ったのだった。それを思い出し、内心で首を振った。あのときはオリヴィエが呪われた身体を持つ男だと知らなかっただけで、本心では決してない。本当に愛しているのは白く美しい少女、ブランシュなのだ。
「この業を背負う覚悟が、お有りですか」
 ロランは頷き、ブランシュの頬に触れ、唇を指でなぞった。ブランシュはゆっくりと目蓋を閉じた。ロランはその唇に落ちていった。湿った草の上にブランシュを押し倒し、火照って赤く色付いた火傷の跡に唇を寄せた。ブランシュの身体が強ばったので、ロランは身体を起こしてブランシュの濡れた瞳を覗き込んだ。身体に染み付いているであろう父親の感触を、全てぬぐい取ってやりたい。ロランは強く思った。
「怖いか?」
「……平気」
 ブランシュは自ら前を開き、胸を晒した。僅かではあるものの、紛れもない女の証はロランを陥落させるのは容易かった。
 そうして、他の家族が眠る神聖な場所で、オリヴィエが死んだ場所で、ロランとブランシュは番った。しっとりと湿った草の上に身を投げ出したブランシュからは、ミルクに混ざった血のような匂いがした。



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