10


「嫌だ、ブランシュ。あなた、痩せたんじゃなくて?」
 久しぶりに屋敷にやってきたオーレリーは、挨拶もそこそこにブランシュに駆け寄った。
「そんなことないわ。オーレリー叔母さまこそお痩せになったわ」
「何を言っているの。私はいくら太ったって痩せたっていいのよ。問題はあなたよ、あなた。ロラン、滋養のあるものをきちんと食べさせているの?」
「ええ、オーレリー夫人。言われた通りのものを使用人たちに作らせています」
「確認してくるわ。イレーヌ!」
 オーレリーは扇子を勢いよく閉じ、勝手知ったる態度で調理場へ入っていった。
「叔母様ったら、昔からああなんだから」
 呆れた様子のブランシュをよそに、ロランはオーレリーの言うことも一理あると思った。
「しかし、君は本当に健康そうな印象を受けないよ。そんな状態だと……」
 ロランは危うく口から出そうになった言葉を慌ててつぐんだ。ブランシュは苦しそうな笑みを浮かべ、腹をさすった。
「早くネージュの弟か妹が欲しいわね」
「……そうだな」
 ロランはブランシュの肩を抱き寄せた。オーレリーはセドランを背負う男児の跡取りを切望していて、せっつかれなくともロランとブランシュも子どもを望んでいるのだが、なかなか恵まれない。もしブランシュが子どもの出来にくい体質だったなら、ネージュをもうけたのは恵まれていることなのかもしれない。ネージュはあの湖で授かった子どもだった。まさかブランシュの死んだ家族が子を宿してくれたのだろうか。
 ロランはそこまで考えて、否定をした。そんなはずはない。父親も母親も娘を穢れなき天使として扱っていたし、オリヴィエはロランがブランシュに触れることを嫌がった。ブランシュが母になることなど、誰一人として望んでいなかったのだ。

 時は流れた。ブランシュはここ数年で二度妊娠したものの、流産してしまった。現在、三度目の妊娠が発覚し、家人も本人も今度こそはと願い、大事を取って室内で過ごすようになった。ネージュは13歳になっていた。日に日にブランシュの影を宿してくる少女に、ロランは嫌でも昔を思い出すようになっていた。
「ねえねえ、お父様」
 ネージュはソファの後ろからロランの首に腕を絡み付けた。
「森で詩を読んでくださらない? お父様の声は、まるで吟遊詩人のようなんだもの」
「構わないよ。誰の詩だい?」
「シェリーよ。お母さまの本棚から持ってきちゃった」
 ネージュが本を掲げた途端、古ぼけた紙がひらひらと落ちた。それを拾い上げると、ネージュは驚きの声を上げた。
「わたしにそっくり」
「どれ、見せてごらん」
 その写真には、オリヴィエとブランシュが写っていた。
「初めて見たわ。この人がオリヴィエ伯父様? 女の子みたいね?」
 ネージュは髪の短い方、オリヴィエと名乗っていたころのブランシュを指差した。ネージュはこの家で起こったことを知らないし、今はまだ知らせるには幼すぎる。ロランは仕方なく頷いた。
「そうだよ。こっちがお母様だ」
 オリヴィエを指差すと、ネージュはまじまじと写真を見つめた。
「これが若い頃のお母様……。でも、おかしいわ」
「何がおかしいんだい?」
 一瞬、ひやりとした。
「わたし、この人に会ったことがあるような気がする。お母様だけど、お母様じゃなかった」
 ロランは思わずソファから立ち上がった。ネージュは目を瞬かせ、ロランを見上げた。その表情が記憶の中のオリヴィエと重なり、思わず寒気が走った。
「どうしたの、お父様」
「いや、何でもないよ。会ったことがあるような気がするとは、どういうことだ?」
「分からないわ。何となくそんな気がしただけ。でも、きょうだいって素敵ね。お母様とオリヴィエ伯父様はきっと、ヘンゼルとグレーテルみたいに、強い絆で結ばれていたんでしょうね」
 ネージュも自分にきょうだいができることを心から望んでいた。しかし、強い絆と称したものを、まるで美しくない嫉妬の感情で裁ち切ったのは、オリヴィエの方だった。ブランシュは自分が裏切られたことを知らず、今でもオリヴィエが写った写真を大事にしている。その事実に、ロランは胸が疼いた。
「オリヴィエ伯父様。生きていたなら、どんなお話をしてくださったかしら」
 ネージュは写真に語りかけるように、うっとりと言った。ロランはその写真の中からオリヴィエが話し出すかのような錯覚を覚え、頭を振った。
「ネージュ、その写真と本は、お母様の大事なものだ。戻してきなさい。違う本を読んであげよう」
「嫌よ。シェリーの詩集がいいわ。読んでくださるって言ったのはお父様よ」
「わがままを言うんじゃない。おまえが返さないなら俺が預かろう」
「嫌よ!」
 ロランはネージュの手から本を奪った。途端、古びた本はばらばらと床に散ってしまった。慌ててしゃがみ込み拾い集めていると、黄ばんだ紙に印刷された文字が、嫌でもロランの目に入ってきた。

静かに、静かに! 彼は死んではいない 彼は眠ってはいない
彼は生の夢から目覚めたのだ
激しい夢想に溺れ、幻影と虚しい戦いを続け
我を忘れて狂ったように魂の刃で
傷付くことのない無を撃つのは我ら
その私らこそが、納骨室の屍の如く朽ちていくのだ
恐怖と嘆きは日々私らを悶えさせ
私らを焼き尽くし、冷たい希望は
私らの肉体のうちに蛆虫どものように群がる

 ロランは気分が悪くなり、部屋を飛び出した。
「お父様! お父様!」
 ネージュの声を振り払うように廊下を駆けた。オリヴィエの存在も振り払うことができるならいいものの、死んでもなお心の中に根を下ろし黒々と咲き続けていた。
「ぐずぐずすんじゃないよ!」
 その激しい叱責の声と共に、調理場からイレーヌが廊下へ倒れ込んできた。ロランは危ういところで足を止め、蹲るイレーヌを抱えた。
「どうしたんだ、イレーヌ」
「この、のろま! 何度言ったら分かるんだい。奥様の幼なじみだからって、何でも許されると思ったら大間違い……だ、旦那様」
 調理場から出てきた使用人頭は、ロランの姿を見るなり、目に見えて萎縮した。
「どうしたんだ。イレーヌが何をしたっていうんだ」
「いえ、あの、この子は食事の用意も遅く、要領も悪いものですから……」
「イレーヌは昔からよく仕事をしてくれている。そんな風に口汚く罵るのは金輪際止めるように。さもなくば暇を出すぞ」
「しょ、承知いたしました、旦那様」
 使用人頭は慌てて室内に戻っていった。ロランは溜息をつき、イレーヌに視線を戻した。
「申し訳ございません、旦那様」
「いや。君はいつもあんな風に罵られているのか」
「慣れていますわ。昔からですもの。でも、旦那様は昔からお優しかった……」
 綻びそうになる顔を、イレーヌは慌てて引き締めた。そして立ち上がり、ちらりとロランを見て、調理場へ戻っていってしまった。
 その日、再びブランシュは流産した。



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