11


 ブランシュはもう子を産める身体ではないと、医者はロランに告げた。度重なる流産により、身体にも心にも負担がかかっていて、無理をさせない方がいいとのことだった。
「しかし」
 ロランが苦渋を滲ませると、医者は諭すように肩を叩いた。
「奥様を愛してらっしゃるのでしょう。一番傷付いているのは奥様なのですよ。気遣って差し上げなさい」
 医者はそう言い残し、屋敷を後にした。ロランがブランシュの部屋を訪れると、ネージュがベッドサイドに膝をつき、母親の手を握り締めていた。
「お母様、お父様がいらっしゃったわ。わたし、森でお花を摘んでくるわ」
「ネージュ、湖に行ってはいけませんよ」
「分かってるわ。心配しないで」
 ネージュは立ち上がり、部屋を出て行った。ロランはベッドサイドに腰を下ろし、ブランシュの手を握った。その手はネージュが握っていたにも関わらず、ひんやりとして頼りなかった。
「ブランシュ……」
「ロラン、見えるのよ。わたしが産んであげられなかった子どもたちが、庭で遊んでいるわ。背中に天使の翼を持っているの」
 湖水色の瞳を細め、ここではないどこかを見ているような目で、ブランシュは呟くように言った。ロランは繋いだ手を強く握り締めた。
「あの子たちはネージュを守ってくれるかしら。たった一人の私たちの娘を」
「ああ、守ってくれるさ。ネージュは誰よりも幸せになるだろう」
「あなた、愛してるわ。今も昔も」
「俺もだよ、ブランシュ。さあ、少しお休み」
 ブランシュは目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。すっかりと気持ちが落ち込んでしまったブランシュに、ロランは歯痒い思いを噛み潰した。
 この事態を一番嘆いたのはオーレリーだった。医者に、何とかもう一人くらい産ませられないかと詰め寄ったが、ブランシュの命に関わると知ると大人しくなった。しかしある日、オーレリーはロランの部屋にやって来ると、思いがけない提案をした。
「イレーヌに産ませればいいわ」
「どういうことです?」
 ロランは驚愕半分、怒り半分で椅子から立ち上がった。
「あの子も兄の子どもよ。兄が使用人に産ませた子」
 思いも寄らなかった回答に、ロランは泥沼に足を踏み入れたような感覚がして、椅子の背に手を付いて身体を支えた。
「そんなこと、聞いていません。でたらめだ」
「でたらめじゃないわ。イレーヌにセドランの血が流れていることは事実よ。ブランシュが子を産めない身体になってしまったからには仕方がないわ。ロラン、イレーヌに男児を産ませるのよ」
「そんなことはできない。俺が愛しているのはブランシュだけです」
 半ば叫ぶように言うと、オーレリーは泣き笑いのような表情を作り、ロランに近付いてきた。
「ロラン、私に対する恩を忘れたの? 私があなたを家庭教師として雇わなかったら、あなたはきっと今でもあくせくと働くだけの毎日だったわよ。こんな贅沢な暮らしもできなかったでしょうね。覚えていて? あなたはシルクの服にも袖を通したことのないような貧乏人だったのよ」
「しかし、イレーヌの気持ちというものも考えてください。ブランシュだって許さないはずです」
「私は考えた上で言っているのよ。ただ跡継ぎのことを考えているなら、無理にでも政略結婚を押し進めたわ。そうしなかったのはブランシュを思ってこそ」
「仰ることがよく分かりません」
「好きでもない男に抱かれるなんて、女としては耐え難いことだからよ。地獄以外の何ものでもないわ。結果がこの私。子を産まずに醜く歳だけ取ったわ」
 ロランは少なからず衝撃を受けた。オーレリーに子どもがいないことは人づてに聞いて知っていたが、夫婦間に少しも愛情がないとは初めて知らされた事実だった。
「イレーヌはね、何度も使用人を辞めたいと言ってきたの。私は私生児と言えどセドランの血を手放したくなかったから許さなかった。でもロラン、あなたが来てから、イレーヌは辞めたいと言ってこなくなったわ」
 心臓が跳ねた。オーレリーはその瞬間を見逃さず、弱った獲物を仕留めるような湖水色の強い瞳でロランを見上げた。
「あの子はあなたが好きなのよ。ブランシュのものになってなお、忘れられないでいる」
 ロランは囚われた。無駄な足掻きは仕留められたら命を削る行為となることを、頭の隅では理解していた。オーレリーに恩はある。昔のロランなら、こんな生活ができるなんて夢にも思わなかっただろう。しかし、美しい妻の姿が目蓋の裏に焼き付いている。
「女に好かれて悪い気持ちはしないんじゃないかしら。いつも同じ女ばかりだと飽きるのでしょう? 兄も夫もよくそう言っていたわ」
 オーレリーは恨みを込めるかのような冷ややかな口調でロランに留めを刺し、なおも心臓を抉る言葉を吐き、出て行った。

 数日後、ブランシュは心身共に休息が必要だということで、セドランが保有する別荘へと旅立っていった。数週間の予定でネージュも付き添い、屋敷の中は途端に明かりが消えたようになった。
 その夜、ロランが眠っていると、息苦しさで目が覚めた。目蓋をこじ開けると黒い影が覆い被さり、唇を覆っていた。恐怖が湧き上がり、影を払い、ランプを付けた。床に倒れ込んでいたのはイレーヌだった。
「イレーヌ、どうしてこんなところに……。何のつもりだ」
「……夜のお供をさせていただくために参りました」
 その言葉に、ロランは頭を抱えた。
「必要ない。出て行ってくれ」
「旦那様、わたくしなら健康な男児を産むことができますわ」
 イレーヌは身体を起こし、立ち竦むロランの脚に縋り付いた。
「奥様に囚われた、哀れな旦那様。一時、子を産むことのできない奥様などお忘れになって。わたくしを思い出してください。私生児だと蔑まれ、お父さまには疎まれ、監獄のような場所で使用人として身を粉にして働いてきました。誰もわたくしに目も止めませんでした。けれど旦那様は違いましたわ。わたくしの怪我を本気で心配してくださったのです」
 一瞬、ロランは何のことを言っているのが分からなかったが、遠い記憶の彼方でそんなことをしたような自分を思い出した。ブランシュへの面会許可が下りて、部屋へ向かったときだった。
「あのとき巻いてくださったハンカチはお返しできずに時が経ってしまい、今ではわたくしの心の支えになっております。わたくしを見てくれた、ただ一人のお方。どうかわたくしを抱いてください。あなた様が望むなら何だって致します」
「イレーヌ、君のことは哀れだとは思う。しかし、俺が愛しているのはブランシュだけだ。彼女を裏切るようなことはできない。帰ってくれ」
 ロランは諭すような優しい口調でイレーヌをこんな奇行に走らせてしまった原因を落ち着かせようと思った。しかし、イレーヌは脚に絡み付いたまま、強い瞳でロランを見上げてきた。色こそ違うものの、オリヴィエやブランシュ、オーレリーを彷彿とさせる印象的な瞳に、ロランの背筋は一気に凍り付いた。
「頑なに拒むのでしたら、奥様に言いますわ。旦那様によって身体に傷を付けられたと。オーレリー様にもお口添えをお願いしますわ。奥様は昔からわたくしを蔑んだり疎んだりはしませんでした。わたくしは奥様と腹違いの姉妹であり、ただ一人の友なのです。旦那様と出会うずっと以前から、わたくしたちは一緒だったのです。その友が自分の夫に傷付けられたと知ったら、奥様はどう思われるでしょう? 変わらず旦那様を愛するでしょうか? わたくしは哀れぶって言いますわ。助けてください、奥様。旦那様が無理やりわたくしの衣服を剥ぎ取り、冷たい床に縫い付け、手荒く手込めになさいました。そのお顔はいつものお優しい旦那様とは違い、まるで獣のような形相で――」
「もう止めろ! 止めてくれ!」
 息が上がったロランとは逆にイレーヌは表情一つ変えず、冷静に懐から小瓶を取り出し、栓を抜いた。
「旦那様が抱いてくださらないのなら、わたくしはここで命を絶ちます。そうして呪いますわ。旦那様を、この家を」
「何を言っている。冗談はよさないか」
「これが冗談を言っているような顔に見えますか。わたくしは本気です。あなたを愛しています」
 月が雲間から姿を現し、イレーヌの顔を照らし出した。そこにはかつてのそばかすが浮いた少女の面影はなく、セドラン家の美しくも破壊的な容貌が浮かんでいた。ブランシュは旅立つ前、イレーヌが側仕えとして同行しないと分かると、残念がった。ブランシュは今の精神状態で、イレーヌの死までも聞かされたらどうなってしまうのだろう。ロラン自身の罪はまた深くなるのではないか。ロランは唇を噛み締め、唸るような声で言った。
「……このことはブランシュの耳には絶対に入らないように」
「もちろんですわ、旦那様」
 窓の外の木々が風に揺れ、二人の青白い身体に不吉な影を落とした。



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