12


 ネージュは別荘から帰宅すると、真っ先にロランの執務室へやって来た。書類の山の中に、花のような香りを纏わせた少女が入ってくるなり、空気ががらりと変わったような気がするほど、ネージュは少し見ないうちに一段と美しくなっていた。ブランシュの生き写しのような姿を、ロランは直視することができなかった。
「お母様はまだ少し気弱になっておられるけど、ずっと元気になったわ。毎日お庭で遊んだの。久しぶりに一緒に眠って、ご本も読んでもらったのよ。お父様もお母様のお顔を見に行って差し上げてね」
「楽しんだようでよかったよ。見舞いにはそのうち行くよ。今は仕事が立て込んでいる」
 確認しなければならない書類に目を通しながら言うと、ネージュの高揚した頬は途端に色を無くしていった。
「お母様に、お手紙を書いてあげてね」
「ああ、そのうちな」
「電話もよ」
「ああ、後でな」
 質問がなくなったので書類から顔を上げると、ネージュは不機嫌そうにロランを見つめていた。
「どうした、ネージュ」
「私の話に相づちを打っているだけでしょう。それに前なら、『おかえり、ネージュ』って抱き締めてキスしてくれたわ」
 ロランは立ち上がり、花の匂いをさせる娘を抱き締め、頬にキスをした。
「すまないね、仕事が立て込んでいるんだ。後で使用人におまえの好きなエクレールを作らせよう。お母様の様子は夕食の席でゆっくり教えておくれ」
 そう言って笑って見せると、ネージュは少し機嫌を戻したようで、軽い足取りで執務室を出て行った。

 ロランはブランシュに何度か手紙を送り、実際に別荘にも赴いたが、次第に後ろめたさが募っていった。イレーヌとの関係はずるずると続いていて、離れているブランシュへの思慕からか、一線を越えてしまうと関係を断ち切ることができなくなってしまった。
 やがて、イレーヌは子どもを身ごもった。そのことは屋敷中に知れ渡り、イレーヌは今までの屈辱を晴らすかのように使用人たちをこき使い始めた。ネージュにはロランの口から説明したいと思っていたのだが、ある日、使用人から中庭でイレーヌと言い争っているとの通達を受け、ロランは急いで現場へ向かった。廊下を走っていると、開け放たれた窓からネージュの高い声が聞こえてきた。
「泥棒猫! お母様がいらっしゃらないときに、お父様をたらし込んだのね!」
「ネージュ様、泥棒猫だなんて薄汚い言葉、どこで覚えたのですか? 未だに絵本やおとぎ話しか読んでいらっしゃらないと思っていたのですが。奥様が聞いたらさぞや哀しいでしょう」
「イレーヌ、あなた、本性を出したわね」
「何のことでしょう。もうすぐきょうだいができると言うのに、ネージュ様は喜んでくださらないのですか?」
「私、分かってたのよ。あなたがお母様を嫌っていたこと」
「とんでもないですわ。奥様は幼い頃からわたくしに優しく接してくださいました。わたくしも心からの献身をしてきました。汚い言葉を平然と使うネージュ様は、知性においても品性においても奥様の足下にも及びませんわ。あの方は人を恨むことすら知らないのですから」
「使用人の分際で、お母様を語らないで!」
「その使用人を愛したのは、誰でもない、あなたのお父様なのですよ」
 その時、ロランは二人の間に割り込むことが出来た。ネージュは唇を噛み締め、涙を零していた。
「おい、いい加減にしなさい、二人共」
 しかし、イレーヌはロランの前に出て、なおもネージュに言葉を発した。
「声も出ないのですね。野生児のようなオリヴィエ様なら、わたくしに掴みかかってくるくらいの気概はありましたけれど。ネージュ様、あなたはお二人と比べて、全てにおいて劣っています」
「イレーヌ、止めてくれ。大人げないぞ」
「それでもセドランの血を引く者ですか?」
 この言葉に、ネージュはイレーヌに掴みかかっていった。ロランはネージュを引き離したが、腕の中でなおも暴れた。
「あなたなんか、お祖父様の気紛れで産まれた子どものくせに!」
「残念ながら、何と罵られようと慣れています。わたくしにセドランの血が流れていることは紛れもない事実なのですから。そして子どもを産むのです。奥様が産むことのできなかった男児を」
 イレーヌは勝ち誇るように言い放った。ロランの腕の中でネージュは一層暴れ、イレーヌにかかっていこうとしたが、押さえ付ける力が勝っていた。
「お父様、あの女を追い出して! 今すぐに!」
「落ち着きなさい、ネージュ。イレーヌ、君ももう部屋に戻るんだ。屋敷の中を引っかき回すのは止めてくれ」
「お父様、ですって。いつまでも乳臭さが抜けない娘ですわね」
 イレーヌは捨て台詞を吐き、その場を去っていった。ネージュは途端に力が抜け、その場に座り込んでしまった。
「ネージュ、すまない」
 震える肩に手を触れると、振り払われた。
「触らないで! 嫌い、嫌い! お父様なんか嫌いよ!」
「すまない。イレーヌには厳しく行っておく。ネージュ、お父様のことはいくら嫌っても構わない。しかし、このことをお母様に知らせるのだけは止めてくれ。時が来たら、俺から説明する。その前に耳に入れたくない」
 ネージュはいきなり立ち上がり、今まで見せたこともないような鋭い目でロランを睨んだ。
「分かってるわ。わたし、お母様を哀しませたくない。でも、あの女をのさばらせるのは我慢ならないわ」
 ネージュはそう言って、ロランの前から姿を消した。もう花の香りのする少女を抱き締めることも、ばら色の頬にキスをすることもできないのだろう。ロランは自らの過ちが修正できないことを悟った。
 その日を境に、ネージュはロランと目も合わせないようになった。何を考えているのか、屋敷の至る所でネージュを見かけた。ある日は本に埋もれ、ある日は煤だらけになり、ある日は頬を腫らしていた。ロランが何度も何をしているのかと詰め寄っても、絶対に口を割ろうとしなかった。
 やがて、イレーヌは子を出産した。断言した通りに、元気な男児だった。一人目を出産したあと、イレーヌは再び妊娠した。その子どももまた、元気な男児だった。

 ブランシュの心身が回復しないまま、3年が過ぎようとしていた。屋敷内は以前とは変わってしまった。イレーヌが主導権を握るようになり、使用人に留まらずオーレリーにまで口出しをするようになった。ネージュは未だに不審な行動が目立ち、ロランと視線を合わせようとも、会話をしようともしなかった。ロランはこの状況に耐えられず、かと言って打破する気力もなく、本社で全ての仕事をするようになり、帰宅も自然と減っていった。
 それが日常になりつつあったある日、長期休暇を取っていた秘書のアナトールが出社してきた。
「アナトール、有意義な休暇だったか?」
 アナトールは有給休暇を取ったこともないような勤勉な男だったので、ロランは素直に長期休暇の理由を尋ねた。するとアナトールは冷たい目をロランに寄越した。眼鏡の奥からでさえ、その冷え冷えとした氷のような視線はロランを射抜いた。
「奥様を慰めて差し上げました」
 一瞬、何を言っているのか分からなかった。ロランの手から煙草が落ちた。
「何だって?」
「ですから、奥様を慰めて差し上げました」
「ふざけるな!」
 気が付いたときには、アナトールは床に倒れていて、手が燃えるように痛んだ。アナトールは身体を起こし、罅の入った眼鏡の奥で目を光らせた。
「あなたは、私ばかりを責められる立場ですか? 奥様が療養している最中に使用人を孕ませ、のさばらせ、その状況に一切関与しようとしない」
「黙れ!」
「奥様は全てを知ってらっしゃいましたよ。それでもあなたを責めましたか? 奥様はあなたを求めていたのに、あなたは何度別荘へ足を運びましたか? 足が遠退いているのは後ろめたさがあったからでしょう。ならばなぜ、あんな過ちを犯したのです」
「おまえに何が分かる」
「あなたは変わってしまわれた。人をいうものは有り余る富や名声を手に入れると、健全な精神を失ってしまうのでしょうか」
「人の妻に手を出したなら、おまえも同じだろう」
「そうですね。しかし奥様は、あなたにかけられた魔法から覚めたようですよ」
 その時、電話が鳴った。無視を決め込んだが、けたたましいベルの音が神経を逆撫でるようだったので、仕方なく受話器を取った。
「お父様?」
 受話器から漏れてきたのは、久々に聞くネージュの声だった。
「ネージュか?」
「今夜は屋敷に帰ってらして。お話があるの。絶対よ」
「おい、ネージュ、ネージュ」
 感情のない声で用件を伝えただけで、電話は切れてしまった。ロランは受話器を置き、息を整えた。
「……一つだけ教えてくれ。妻に今の屋敷の状況を教えたのは誰だ」
「ネージュ様が、逐一手紙で報告していたようです」
 少しの間のあと、アナトールは言い切った。ロランは頭を抱えた。
「分かった。今日限りでおまえは馘首だ」
「……この会社は元はと言えば誰のものなのか、今一度お考えください」
 そう言って、アナトールは部屋を出て行った。



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