13


 暗闇の中でも、重い雲が立ちこめているのが分かった。ロランは雨が降り出す前に屋敷に着こうと、運転手を急かした。
「お帰りなさい、あなた」
 正面玄関を開けると、ブランシュが立っていた。その美しい姿は、ロランが今まで暗闇の中で這い回っていたことに気付かせるほど眩く、女神のように見えた。
「ブランシュ、帰ってくるならそう伝えてくれ。驚いたよ」
「急に話があると言ってネージュに呼び戻されたのよ。そんなことよりお夕食は?」
「済ませてきた」
 言うなり、ロランはブランシュを抱き締めた。壊れそうなほど細い身体も、甘い匂いも、何もかもが愛しかった。この光なしに生きていくことなどできない。そう強く思った。
「ブランシュ、すまなかった。俺の過ちもおまえの過ちも水に流そう。もう一度やり直そう」
「……居間へ参りましょう。皆お待ちかねよ」
 何の感動もない声に、ロランは身体の力が抜けていくのが分かった。目を覗き込もうとしたが先に逸らされ、すたすたと居間へと歩き出した後ろ姿に従う他、選択肢が見つからなかった。
 居間にはネージュとイレーヌがお互いに顔を背けながら座っていた。
「お帰りなさい、あなた。急にネージュ様に呼び出されたものだから、子どもたちはオーレリー夫人に見ていただいているの。あの方、子どもがいないのになかなか子守りが上手でしたわ。乳飲み子が増えたからどうしようかと思っていたけれど、乳母を雇う必要はありませんわね」
 そう言いながらロランに近寄ってきたイレーヌに、何かが投げ付けられた。身体に当たった瞬間に白い粉が舞い、イレーヌは咳き込み、座り込んだ。
「何なの、これは」
 イレーヌは床に落ちた包みを取り上げ、絶句した。
「あなたが隠し持っていた薬よ。見覚えがあるでしょう?」
 16歳になったネージュは、怒りに声を震わせながら言った。その横で、ゆったりと椅子に腰掛けたブランシュは、無表情で事の成り行きを見守っていた。
「あなたが使っていた部屋の壁の中から見つけたわ。今日、かつてこの屋敷で医者として勤務していたクレマンという方に会って、この薬を見せてきたわ。そして昔この家で起こった哀しい出来事も聞かせていただいたわ。彼は嘆いておられたわよ。あの気の弱いイレーヌが、こんな恐ろしいことをするなんて、と」
「何なんだ、この薬は? イレーヌ、君はこれを何に使っていた?」
 イレーヌはしばらくの間、俯いていたが、やがて肩を揺らして笑った。
「何をこそこそ嗅ぎ回っているのかと思えば、こういうことだったのですね。いいでしょう、白状いたします。奥様のお食事に混ぜていましたわ」
「やっと本性を出したわね。お父様、私の言った通りでしょう。この女はお母様を憎んでいたのよ。わたし、小さいときにあの女がスープに何かを加えて、丁寧に混ぜているところを見たことがあったの。そのときは少し疑問に思ったくらいだったけれど、こういうことだったのよ」
「一体、この薬は……」
「子流しの薬ですわ」
 イレーヌは平然と言い放った。
「何だって?」
「お母さまの度重なる流産は、この女の仕業だったのよ。自分が妻になるときを虎視眈々と狙っていたんだわ。それもお父様とお母様がご結婚される前から、少しずつ少しずつクレマン医師の薬棚から盗んで……」
「ええ、そうよ。いっそのこと毒薬でも盛って殺してやりたかったわ」
 ロランはこの状況に頭が付いていかなかった。イレーヌは昔から手際は悪いが、仕事を懸命にこなす少女だった。少なくとも、ロランの目にはそう映っていた。しかし、毒薬と聞いてロランは思い出す節があった。ブランシュが別荘へ旅立った夜、イレーヌはロランに服毒自殺をすると言って脅したのだった。一切外に出ることの叶わないイレーヌは、どこでそんなものを手に入れたというのか。答えは既に、ネージュの口から語られていた。
「なぜそこまでブランシュを憎む? 姉妹であり友であると語ったのは嘘だったのか?」
 ロランは縋るような気持ちで尋ねた。今まで一度だってイレーヌがブランシュに刃向かうところなど見たことがなかったし、自身でもそんなことは口に出さなかった。
「旦那様は人が良すぎます。騙されていてもそれに気付かない、愚かな方」
 イレーヌは顔を上げ、ロランとネージュを見遣り、そしてブランシュを睨んだ。
「旦那様もネージュ様も、そこの女に騙されているのですわ」
 ブランシュは何も言葉を発さなかった。ロランは薬を盛られていたというあまりの衝撃的な発言に言葉も出ないのだろうと痛ましく思った。ロランもブランシュも、子どもを望み、落胆することを繰り返してきた。それがイレーヌによって故意に行われていたという事実は、紙が燃え広がるようにロランを怒りに燃やした。
「この期に及んで責任転嫁か。見苦しいぞ、イレーヌ」
「旦那様はあくまでも奥様の肩を持つのですね」
「当たり前だ」
「分かりましたわ。全てをお話します。それを聞いたら、きっと旦那様もネージュ様も騙されている自分に気付くはずですわ」
「これ以上、何を語るって言うの? お母様がお父様や私を騙していた証拠なんて、どこにもないじゃない」
「いいわ。お話しなさい、イレーヌ」
 憤慨するネージュを諫めたのはブランシュだった。その少しも取り乱していない様子は、ロランとネージュだけではなく、イレーヌにまで強い衝撃を与えたようだった。沈黙が流れ、外から地を這うような雷鳴が轟いた。オリヴィエが死んだ日も酷い雷雨だったことをロランが思い出した瞬間、雨が窓を叩き出した。それに導かれるように、イレーヌは震える声で語り出した。
「わたくしはオリヴィエ様とブランシュ様と共に、この屋敷で育ちました。母は早くに死に、親族の家に引き取られる予定でしたが、父はそれまでわたくしのことなど見向きもしなかったくせに、お二人の遊び相手としてこの屋敷に置いたのです。お二人は幼いころより天使の皮を被った悪魔でしたわ。わたくしは幾度泣かされたでしょう。幾度怪我を負ったでしょう。特にブランシュ様は、わたくしに手酷い仕打ちをなさいました。上面はあのように取り澄ましておりますが、幼いころはオリヴィエ様に負けず劣らず野生児のようで、悪知恵が働きました。家庭教師としてやってきた男たちは、お二人の悪魔的な悪戯に耐えられずに出て行ったのです。そのことからでも、どんな酷いことをしたのかが想像できますでしょう。
 けれど旦那様が家庭教師としてこの屋敷にやってきてから、ブランシュ様は途端に大人しくなりました。旦那様の前では庇護欲をかき立てようと、人一倍繊細な少年を演じていたはずです。しかし旦那様の目の届かぬところではどうです。ブランシュ様は旦那様に恋をし、女としての自我が目覚め、初潮を迎えました。突然の身体の変化に戸惑ったブランシュ様は、鬱憤を晴らすかのようにわたくしの身体を痛めつけました。自ら花瓶を割り、その破片を強く握らせたり、何の前触れもなく頬を叩かれたりいたしました。わたくしはブランシュ様が怖かった。憎かった。ある日、いずれ旦那様と結婚されることを漏れ聞いたわたくしの心は、遂に壊れてしまいました。わたくしは、唯一わたくしに目を留めてくださった旦那様に淡い想いを抱いていたのです。いつかブランシュ様に復讐をする日がくるかもしれないと、クレマン先生の薬棚から子流しの薬を少しずつ懐に収めました」
「いつだったか君は、ブランシュが怖いと言ったことがあったな。それはブランシュの振りをしていたオリヴィエのことではなく、オリヴィエの振りをしていたブランシュのこと……ややこしいな、つまり、本当のブランシュのことを言っていたのか」
「当時のわたくしは混乱していましたから、そんなことを口走ったかもしれませんね。旦那様は、オリヴィエ様のことだと勘違いなさったのですね」
 ロランの脳内で、昔の小さな出来事が途切れ途切れに再生された。イレーヌがブランシュを怖いと言ったとき、ロランは複雑な思いを抱えていた。オーレリーがロランの部屋にやって来て、オリヴィエのことを呪われていると言ったからだ。ロランは窓の外から走っていったオリヴィエを追いかけた。その途中でイレーヌと鉢合わせになったのだった。そのときのイレーヌの様子は、確かにおかしかったと記憶している。しかし、ロランは何か大事なことを忘れているような気がした。
「そんな作り話、信じないわ! お父様、耳を貸しては駄目。お母様、何とか言ってやってよ!」
 ネージュの金切り声が、ロランの思考を遮った。両親に救いを求めるような目で訴えたネージュだったが、ロランは何かを言えるような状況ではなく、ブランシュも黙ったままだった。
「旦那様、オリヴィエ様が亡くなった日のことを覚えておいでですか?」
 ロランの心臓は、いきなり掴まれたように痛んだ。いよいよ雨が本格的に降り出し、冷気が足下から身体に這い登ってきた。
「突然、何だ。あの日のことは関係ないだろう」
 ロランは平静を保とうとしたが、出た声はあまりにも頼りないものだった。イレーヌはゆっくりと首を振って否定した。
「いいえ、あるのです。あの日、わたくしは旦那様のお部屋に忍び込み、アニエス様の日記を他の本に紛れ込ませました。ブランシュ様の命令で」
「何だって?」
 一際大きな雷が鳴った。突然、ロランの中を何かが貫いたような感覚がした。あのとき、イレーヌが赤い革表紙の本を持っていたことを思い出した。ロランが拾い上げると、慌てて奪い取ったのだった。あれがアニエスの日記だったのだ。ロランはどうして今までそのことに気付かなかったのだろうと、恐ろしい合点に眩暈がしてきた。しかもそれがブランシュの命令だったとは、ブランシュがイレーヌをあんなに怯えさせていたとは、想像もしなかった。
「ブランシュ様は、あなたとオリヴィエ様の関係を察し、嫉妬に駆られたのです。セドラン家の真実を追究せずにはいられなくなるよう、しかも何が起こっても自分は責任を免れるよう、アニエス様の日記を旦那様の目の届く範囲に置いてこいと、その頃はまだお二人の関係を知らなかったわたくしに何の説明もなく命令したのですわ。旦那様とオリヴィエ様の仲を引き裂くために」
 ネージュが息を飲んだ。ロランのこめかみを、汗が流れ落ちた。
「拒絶すると、わたくしは頬をぶたれました。わたくしは仕方なくアニエス様の日記を受け取り、しかし、すぐには実行に移せずに迷っていたのです。わたくしがぼんやりと歩いていると、オリヴィエ様とぶつかりました。オリヴィエ様はそれは苦しそうな表情で、外へ出て行ってしまいました。クレマン先生のお部屋の前を通り過ぎると、僅かに開いた隙間からオーレリー夫人と話し合っている声が聞こえてきました。そこで、いずれ旦那様とブランシュ様を結婚させるという話し合いが持たれていたのです。わたくしは大きな衝撃を受けました。恐らくオリヴィエ様も偶然そのことを聞いてしまい、混乱してしまったのでしょう」
 ロランは今まで、先に双子の絆を裁ち切ったのはオリヴィエの方だと思っていた。しかし先に裁ち切ったのはオリヴィエではなくブランシュの方だったのだ。オリヴィエは恐らく、ブランシュが変わっていってしまうことに衝撃を受けたのだろう。そして傷心の彼は、近付いていったロランに縋り付いた。イレーヌがロランに優しく接してもらったことで好意を抱くようになったのなら、オリヴィエにもまたロランが救世主のように見えたのだろう。何も知らないロランは、捨て猫のような様子のオリヴィエに理性を失ったのだった。
「わたくしはクレマン先生の薬棚から薬を盗むことで、報われない想いを慰めていたのかもしれません。一方で、わたくしは迷っておりました。なぜ旦那様と結婚することが決まっているブランシュ様がそんなことをなさるのか分からなかったこともありますけれど、それよりもわたくしはブランシュ様の思惑の片棒を継ぐことなど死んでも嫌だったのです。しかし、あの日、オリヴィエ様が亡くなった日、わたくしは見てしまったのです。どこからか激しい音がしたので様子を見に来てみると、旦那様とオリヴィエ様が廊下の隅で抱き合い、激しい口付けを交わしていました。その瞬間、わたくしはブランシュ様の思惑を知りました。そして旦那様の部屋へ赴き、アニエス様の日記を置いてきたのです。わたくしもまたブランシュ様と同じように、オリヴィエ様に激しい嫉妬の念を抱いたのですわ。どうあがいてもロラン様がわたくしのものになるはずがないのに、そのときはただただ、オリヴィエ様が憎かった……」
 もし、ロランとオリヴィエを目撃しなかったなら、イレーヌはアニエスの部屋へ行っただろうし、発見が早ければ助かったかもしれない。しかしイレーヌは目の前の光景に我を忘れ、ロランの部屋へ向かったのだ。ロランは今更ながら、あのときの行動を深く悔やまずにはいられなかった。
「お二人の秘密を知った旦那様がオリヴィエ様を拒絶し、オリヴィエ様は旦那様に拒絶されて自らを殺す。そのこともブランシュ様の計画のうちだったのです。何せ、お二人は双子。ブランシュ様はオリヴィエ様の思考が手に取るように分かったのでしょう。そしてこれもまた思惑通り、オリヴィエ様の死後、旦那様はブランシュ様になびいたのです。家族を一度に失い、憔悴しきった美しい少女を、オリヴィエ様と同じ顔をした本当の女を、旦那様が放っておくはずがないと考えたのです。そうでしょう、ブランシュ様」
 何と恐ろしい告白なのかと、ロランはこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。イレーヌの言うことは的を射ていた。ロランはオリヴィエからブランシュへなびいたのだ。ブランシュと愛し合い、ネージュが産まれ、仕事が軌道に乗った。運命だと思っていたそれらの出来事は、全てブランシュが仕組んだことだったのか。それとも今ここでの告白は、オリヴィエが男だったからからブランシュへ心変わりをしたという不誠実な事実から目を逸らし続けたことへの報復なのか。
 雷鳴が轟き、ランプが明滅を繰り返した。ブランシュは伏せていた目蓋をゆっくりと開けた。
「そうよ」
「ああ、ネージュ様、おかわいそうに。わたくしの本性なんて、奥様の本性に比べたらかわいいものでしょう?」
 ネージュはがたがたと震え、ブランシュを凝視していた。ロランもまた、ブランシュから目が離せなかった。この17年間、ロランは美しい妻の何を見てきたのだろうと自分を責めた。
「可哀相なイレーヌ。父の一時の気紛れで産まれてしまった、哀れな子。あなたは父に愛して欲しくても愛されなかったから、私が妬ましかったのでしょう? ロランに愛情を注がれたネージュが羨ましかったかしら? けれど、私は父に深く愛されていることが苦痛だったわ。あの人は、幼い娘を女として見ていたんだもの。知らなかったでしょう?」
 イレーヌは口を覆った。ブランシュは、ほんの僅かに口角を引き上げた。
「オリヴィエを奇形にしたのも、死に追いやったのも、母を狂わせたのも、父を殺したのも……全て私よ」
 突然、明かりが消えた。ロランの視界に暗闇がなだれ込み、一歩足を踏み出せば奈落の底へ落ちていくかのような錯覚をした。ネージュが声を詰まらせ、しゃっくり上げる音が聞こえたので何とか混乱を押さえることができたが、やがてそれも自身の心臓の音にかき消されてしまった。
「このことはお墓まで持っていくつもりだったけれど、電気が復旧するまでに時間がかかるでしょうし、いい機会だからイレーヌの素晴らしい告白に極彩色の花を添えましょうか」
 暗闇から聞こえてきたブランシュの声は、冷たい湖の底のような計り知れない恐怖を湛えていた。ロランは今になって悟った。引きずり込まれてしまう、いや、17年前、この屋敷に足を踏み入れた瞬間から引きずり込まれていたということを。
「私はなぜか昔から、動物に好かれる性質だったわ。野犬たちも大人しくなるくらいだったから、家族には内緒で餌を与えて可愛がっていたわ。両親に言うと叱られるだろうし、オリヴィエとイレーヌに危害が加えられたら大変だから秘密にしていた。けれどある日、私が屋敷内に入れてしまった野犬が、オリヴィエに襲いかかってしまったのよ」
 光り輝く湖で遊ぶ天使のような双子と、その場に居合わせたオーレリーとアニエスの姿が、ロランの目の前に浮かび上がった。穏やかな空気は、草陰から野犬が飛び出してきたことで一変する。そして野犬は、オリヴィエに襲いかかっていった。赤い血が、青い水面に滲んでいく。
 同時にロランは、ナタンを思い出していた。昔からブランシュにだけよく懐いていた猫だったが、数年前に死ぬまでロランに警戒を解くことはなかった。新たな符合に、ロランは再び眩暈を覚えた。
「母が我を失い、オリヴィエが大怪我をして生死の境をさまよっているとき、父は私の部屋へやって来たわ。一緒にお母様とオリヴィエの無事を祈ろうなんて言いながら、家人が二人に付ききりなのを利用して、嫌がる私を無理やり押さえ付けて欲望の捌け口にした。以前から様々な虐待はされていたけれど、抱かれたのはその日が初めてだった。私は朦朧とした意識の中で、父と同じようにオリヴィエも憎んだわ。同じ顔をしているのに、男であるが故に父から求められない。女だから求められる私。私は一人きりの乱れたベッドの上で考えたのよ。私のせいでオリヴィエは死んでしまうだろう。ならば一緒に憎い父も葬ろう、一人も二人も一緒だと。もみ合っているとき、父が首から提げていた鍵を引きちぎってしまったの。それは父が街へ下りるときに使う鍵だったから、すぐに計画が出来上がったわ。
 数日後、オリヴィエは身体の一部を失ってもなお生還した。私のせいで呪われた身体で生きていくことになってしまった兄を、自分のことよりも父に犯された私の身を案じてくれた兄を、私はどうしても恨むことができなくなったわ。けれど父に対しての気持ちは変わらなかった。野犬が入り込んだことで戸締まりがきちんとなされるようになったけれど、私は鍵を隠し持っていた。深夜、父が街から帰ってきたときを見計らって、正門を再び開けた。あらかじめ手懐ずけておいた野犬は、父を狙って一直線に走っていったわ。私は苦しんで助けを求める父を置いて、屋敷の中へ戻った」
 まるで映画を見ているかのように、ロランの目には暗闇の中で野犬に襲われる男が見えた。そして虫の息の父親を見下ろす、天使のように美しくも残酷な幼いブランシュの姿も。
「翌朝、父の死体が湖で発見された。私はショックを受けた振りをしたわ。オリヴィエの事故現場を見てしまって精神が不安定になっていた母は、更に錯乱した。私を見て、こう言ったの。『おまえはブランシュではない。ノワールだわ』。今になって考えてみると、母は私が父と寝たこと、殺したことを知っていたのかもしれないわね。母は以前から私の身体中に残った鬱血を、見て見ぬ振りをしていたんだもの。白く美しい少女、だなんて、真実を見ようとも確かめようともしないで、私に執着していたわ」
 停電が治まり、部屋は再び光に満ちた。イレーヌは座り込んだまま顔を青くさせ、ネージュは今にも倒れそうに揺れながら泣いていた。ロランも、壁に背を預けなければ頽れてしまいそうだった。しかしブランシュだけは、この告白劇が始まった当初から少しも乱れず、椅子にゆったりと腰掛けていた。イレーヌは頭を抱え、半狂乱になりながら叫んだ。
「何て残虐な……! あなたは正真正銘の悪魔ですわ!」
「喜々として私の食事に薬を盛っていたあなたが、よく悪魔なんて口に出来たものね。あなただってセドランの呪われた血が流れている悪魔よ」
 イレーヌは窓が砕けるかのような、言葉にならない鋭い叫び声を上げた。ロランの目には、平然としているブランシュよりも取り乱すイレーヌの方が圧倒的に人間らしく映った。
「イレーヌの告白も、君の告白も、本当のことなのか」
 やっとのことで、ロランはそう口にした。ブランシュは雷鳴が轟く窓を背に、湖水色の瞳を眇めてロランを見た。
「ええ、そうよ。私はオリヴィエを奇形にし、身体に傷を付けた父を殺し、母を狂わせ、男なのにロランに愛されたオリヴィエを憎み死に追いやった。でも、母を殺したのは私じゃないわ。オリヴィエとロラン、あなたたちはあの日、母の部屋へ行き、激昂させたのね」
 イレーヌがまた、短い悲鳴を上げた。ロランの心臓は今や破裂しそうなほど胸を叩き、身体中から冷や汗が流れた。
「待ってくれ。俺はオリヴィエに利用されただけだ。オリヴィエは俺に同じ罪を着せて、自分から離れられないようにしようと考えたんだろう。俺は本当に知らなかった。アニエス夫人の精神状態も、まさかあんなことになるなんてことも……!」
「百歩譲って、母を殺した直接の元凶はオリヴィエとしましょう。けれど私がオリヴィエを死に追い込んだあと、留めを刺したのは、ロラン、あなたなのよ」
 ロランは震える足で何とか立ちながら、無意識のうちに違う、違う、と呟いていた。しかし、ブランシュの湖水色の瞳は否定し続けるロランを真っ直ぐに射抜いた。
「俺は、知らなかったんだ。オリヴィエが男だったなんて。一時でも男を愛しいと思っただなんて、少女のような姿に惑わされた、気の迷いだったと……」
「そう、オリヴィエにそう言ったの。気の迷いだと」
 ロランは遂に壁をずるずると滑り落ち、床に座り込んでしまった。逆に、ブランシュはゆったりと立ち上がり、ロランの目の前まで歩いてくると、冷たい瞳で見下ろした。
「結局、女ならどちらでもよかったのね」
「違う。俺は、本当に君を愛している。君だけを」
 縋るように言ったロランに、ブランシュは冷たい瞳を和らげ、無垢な少女のように微笑んだ。
「嬉しいわ、ロラン。私がしてきたことを知っても、そう言ってくれるなんて。そうよね、どんな女を抱いても、私から離れられるわけがないわ。同じお墓に入るの。だって私たちは同じ穴の狢だもの」
 ロランは完全にブランシュの手中に落ちていった。恐ろしいほど美しいブランシュの微笑は、セドランが作り出した闇そのものだった。
「あなたたちみんな、オリヴィエ伯父様も、人殺しなのね」
 神経質な声に、その場にいる全員の視線がネージュに集まった。ネージュは三人の顔を見渡し、否定するように首を横に振りながら少しずつ後退していった。
「わたし、この家の家系を遡って調べたわ。たくさんの愛人に、みだらな関係。望まれない子どもに、拷問の記録。毒殺、絞殺、刺殺、そんな歴史ばかり!」
「ネージュ、あなたは私が産んだ正当なセドランの後継者よ。いずれあなたも、この業を背負って行くことになるわ」
「いや……いやよ、お母様。助けて、お父様」
 ネージュの視線がロランに注がれた。怯えきった目は涙で潤み、哀れなほど弱々しかった。ネージュはブランシュのような悪魔には決してなり得ない。なぜならオリヴィエのように陰惨な事故に遭ったわけでもなく、ブランシュのように心身共に支配されたわけでもなく、両親の愛情に包まれて一点の濁りもなく成長したからだ。
「ネージュ、すまない。汚い俺たちを憎んでくれ。そしてもう二度と、この屋敷に血が流れるようなことをしないでくれ。ネージュ、おまえだけが天使なのだから」
「嘘よ。わたしもいずれ悪魔のようになってしまうんだわ。わたしは人殺しの悪魔の血を引き継ぐなんて嫌!」
 雷鳴が轟き、再び電気が消えた。暗闇の中、ロランの耳には扉が勢いよく開かれる音が聞こえてきた。ネージュが部屋を飛び出したのだ。オリヴィエが死んだ夜と状況が合致し、ロランは奇妙な感覚に囚われた。深く傷付いたネージュを追わなければならない。オリヴィエのように死なせるわけにはいかない。
 ロランは立ち上がり、手探りで扉を見つけ、廊下を駆けた。途中、使用人が応接間にランプを届けようとしているところに出くわしたので、奪い取って先を急いだ。雷鳴と雨音に混じって、正面扉が開閉する音が聞こえた。ロランは急いで玄関へ向かい、激しい雨が降りしきる外へ足を踏み出した。硝子が割れるように雷鳴が轟き、空に大きな亀裂が走った。一瞬の明かりで、ロランは視界に金に棚引く長い髪を捕らえた。
 雨の中、我を忘れて時折光る金色を追いかけて、どのくらいの時間が経ったのだろう。ロランは、ふいに拓けた場所に出た。その瞬間、凄まじい雷鳴と共に光の鎌が振り下ろされた。大地を切り裂くような地響きと唸りを感じ、ロランは地面に倒れ込んだ。雨が身体を容赦なく叩いたが、ロランは身体を起こしてランプを掲げ、周囲を見回した。すると、十字架が光に照らし出された。この場所は湖なのだと理解した途端、ロランの心臓は跳ね上がった。ランプを右に移動させていくと、一番端のオリヴィエの墓の十字架が砕けて原型を留めていなかった。恐らく、ここに雷が落ちたのだろう。ふいに、ランプの弱い光の中に白い腕が浮かび上がった。
「ネージュ!」
 ロランは叫び、地面に俯せに倒れていたネージュを抱えた。ランプで顔を照らすと、頬は色を無くし、目蓋は閉じられ、少しも動かなかった。目に映る現実にロランの頬を焦げるほど熱い涙が伝い、喉から言葉にならない慟哭が漏れた。ネージュが死んでしまった。この呪われた屋敷の中で、ただ一人の天使を、娘を、死に追いやってしまった。
 ネージュの身体の上で泣き喚くロランの頬に、雨とは違う、何か冷たいものが触れた。ぼんやりと顔を上げると、ネージュの瞳がうっすらと開き、指を頼りなくロランの頬に滑らせていた。ロランの心は途端に喜びで満ち溢れた。
「ああ、奇跡だ。よかった。生きていたんだな」
「お父様は、オリヴィエ伯父様を愛していたの?」
 ネージュの口から、思いも寄らない言葉が漏れた。
「どうしたんだ、こんなときに」
「答えて」
 狼狽する心を射抜くかのように、湖水色の瞳は微塵も動かずにロランに注がれていた。ロランは、今や砕けてしまった十字架を見遣った。天真爛漫な少女の皮を被った少年は、今もなおロランの心に強烈な印象を残している。しなやかな身の動き、甘えるような仕草、怒りのような哀しみ、そしてロランを見上げる湖水色の力強い瞳。目を閉じなくても、よく思い出すことができた。
「今になって思えば、愛しいと思ったことは気の迷いではなかった。オリヴィエが一番純粋で澄んだ心を持っていたのかもしれない。あのとき、俺はなぜ拒絶してしまったのだろう。事故であんな身体になってしまった少年に、どうしてあんな仕打ちができたのだろう。オリヴィエと逃げていれば、全てを包み込んでやれる広い心があれば、俺は今、富も名声もなくても、貧乏でも、穏やかな日々を送れていたかもしれない。罪を背負うこともなかっただろう」
 ロランは視線をネージュに戻し、冷たい頬に触れた。
「しかし、ネージュ、おまえが産まれてきてくれたことは、生きていることは、今の俺にとって唯一の光なんだ。もう誰も失いたくない。生きていてくれて、本当によかった」
 ロランはネージュの身体を抱き締めた。水の湿った匂いに混ざって、昔に嗅いだことのある熟した果実の匂いが鼻孔をくずぐった。そのとき、ネージュが微かに笑った気配がした。
「そう、光も届かない湖の底で、ずっと生きていたよ」
 いつものネージュとは僅かに違う声の調子に、ロランは違和感を覚えた。しかしそれも、ネージュが生きていたことの喜びにかき消された。
「ネージュ、どうした。夢でも見ているんだな。気分が悪いんだろう。待っていろ、すぐ医者を呼んで……」
 ネージュは立ち上がりかけたロランの手首を押さえ、身体を起こした。そして強い湖水色の瞳でロランを見上げると、唇を綺麗に引き上げた。
「久しぶりだね、ロラン」
 その悪魔的な笑みは、今までネージュが見せたことのない表情だった。ロランはぞっとした。まるでオリヴィエが、目の前にいるかのようだった。
「ネージュ、どうしたんだ。何を言っている」
「ねえ、ロラン。あんたとブランシュはこの場所で番ったね。そしてネージュが宿った。この忌まわしい血の娘を」
「なぜ、そのことを……」
「なぜって、僕はあんたたちの下に埋まっていただろう?」
 ロランの身体は衝撃で打ち震えた。思わず、砕けた十字架を見遣った。下、それは土の下に埋めた柩のことを言っているのか。ならば、柩の中に眠っていたのは。
「オリヴィエ……?」
 口に出すと、目の前の娘は湖水色の瞳を輝かせ、ロランの首にしがみつき、甘えるように顔を擦り付けた。
「やっと気付いてくれた。でもネージュだよ、今は。いい名だね。ねっとりと絡み付くようで」
 確かにネージュであるのに、声の調子、行動、表情の動かし方が微妙にロランの知っているネージュとは違い、記憶の底に刻まれたオリヴィエの癖そのものだった。
「ふふ、訳が分からないって顔だね。この娘は死んだんだよ」
 ネージュはロランにしなだれかかり、くすくすと笑った。
「おとぎの国に行ったのさ。湖の底の」
 僕の代わりに。ネージュはロランの耳元で、そう囁いた。ネージュが、ネージュではなくなってしまった。悪魔に、乗っ取られてしまった。全身がわななき、頽れた。ロランは自身の心がばらばらと崩れ落ちていく音を聞いた。
「女の身体なら愛してくれるんだろう? さあ、呪われた子どもを作ろうか。父と娘の間に産まれた子どもこそ、本当の悪魔だ」
 この屋敷には、悪魔が棲んでいる。


<fin>



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