激しい猫の鳴き声が、木立を引き裂くように響いた。ブランシュの姿を探していたロランは不穏な空気を感じ、すぐさま物音のした方に駆けていった。やがて何度か双子と訪れたことがある湖に出た。そこに、ブランシュがいた。ほっとしたのも束の間、ロランの身体を戦慄が駆け抜けた。ブランシュはナタンを仰向けに押さえ付け、裁ちばさみを振り翳していたのだ。
「止めろ!」
 ロランは今にも振り下ろす直前だったブランシュの腕を捕らえた。ナタンはその隙にブランシュの手から逃れ、草むらに消えていった。ナタンが行ってしまうと、ブランシュは力を無くし、手から裁ちばさみが滑り落ちた。
「ブランシュ、どうしてあんな残酷なことができるんだ。何をしようとしていた?」
 思わず語気が強くなってしまった。
「男なんて嫌いだ。すぐに余所に子どもを作る! 畜生と一緒だ! ロラン、あんただって!」
 強く睨み上げられた瞳には涙が滲み、赤々とした憎しみの炎が燃え上がっているように見えた。今の発言から察するに、オリヴィエが可愛がっているナタンを殺すとは考えがたいから、去勢を施そうとしていたのだろうか。ロランは草の上に転がった裁ちばさみを取り上げた。ブランシュはその間も、嫌い、嫌い、と低く呟き、暴れ続けていた。
「ブランシュ、落ち着くんだ。どうしたんだ。何があった」
 肩を押さえ付けても、ブランシュは頑なにロランから逃げようともがいていた。
「ブランシュ、俺には話せないか? 頼りないかもしれないが、俺を信じて欲しい。君の力になりたいんだ」
 ロランの声には力がこもり、身体が熱く痺れているのを感じた。その感情は、憤りだった。ブランシュを厭う周囲が、こんなにも彼女を追いやり、哀しみという狂気を爆発させている。ブランシュは双子の弟に縋り付くことも許されず、こうして一人で泣いている。一瞬の衝動だった。ロランはブランシュを引き寄せ、胸にかき抱いた。
「君は一人じゃない」
 やがて人形のようにぐったりとした身体に少しずつ力が行き渡り、ブランシュはロランの背中に手を回し、爪を立てた。
「ロラン、僕はあなたを愛している」
 ロランの心臓は強く掴まれたように痛み、呼吸ができなくなった。甘い言葉が、脳内で麻薬のような高揚感をもたらした。ロランはブランシュを解放し、その表情を見た。オリヴィエのような幼さや繊細さ、儚い雰囲気はまるでなく、猫のようなしなやかさと匂い立つ芳香、そして悪魔的とも言える湖水色の瞳の強さがそこにあった。禍々しいとオーレリーが評し、怖いとイレーヌが怯えた意味が、ロランには僅かだが理解できたような気がした。しかしだからこそ、ロランはブランシュに引き寄せられた。
「俺も、愛している」
 ブランシュは目を瞠り、ロランの袖にしがみついた。
「本当に? 誰よりも?」
「ああ、本当だよ」
「この家の奴らが僕を疎んでいても?」
「そんなの関係ない」
 しばらくの間、ブランシュは難しい顔でロランの目を見つめ続けていた。そして、妖艶に微笑みながら言った。
「キスしてよ」
 ロランはその強い眼差しに戸惑いを隠せなかった。ブランシュは名家の娘だ。ブランシュはロランの戸惑いに気付きながらもなお、試すかのように顔を近付け、頬に触れた。ここで拒絶したら、本当にブランシュは心を開かなくなってしまうというのは建前で、ロランは促されるままにブランシュの唇に軽いキスを落とした。するとブランシュはあからさまに顔をしかめた。
「違う。あんた、恋人はいた?」
「いたよ」
「恋人にするようなキスをしてよ」
 ロランを軽い眩暈が襲った。頭を押さえ、息を吐いた。
「君は、俺が怖くないのか。俺は君が嫌いな男だぞ」
「あんたは怖くない」
 そう言ってブランシュは美しい湖水色の瞳でロランを見上げ、ゆっくりと微笑んだ。熱い指先。誘うように艶めく唇。そして湖水色の瞳の青さ。水の中へ落ちていくように、溺れた。
 やがてブランシュは、ロランの胸に額を預けた。大きく上下する背中をさすってやりながら、ロランもまた自身の熱を静めた。
「どうして変わっていってしまうのかな」
 ブランシュは今まで聞いたことのないか弱い声で沈黙を破った。
「人は変わっていくものだよ。時代や環境や人に流されて。でも変わらないものだって確かにある」
「ロランは変わらないでいて。ずっと僕を愛していて」
「俺の覚悟も認めて欲しいもんだな」
 必死で見上げてくる表情に苦笑を返すと、ブランシュは嬉しそうに笑った。
「そう言えば、イレーヌの頬は、君が?」
「僕といるときにイレーヌの話なんかするなよ」
「ああ、ごめん」
 頬を膨らませた様子に、思わず謝罪すると、ブランシュは苦笑した。しかし、その笑顔はすぐに沈んで行った。
「突き飛ばしたときに、何かに当たったかもしれない」
「乱暴だな、君は。少し淑女のように振る舞ってごらんよ」
 だから怖いと言われるんだ、と思わず口に出しそうになって、寸でのところで留まった。ブランシュは不安げにロランを見上げた。その様子はオリヴィエを思い起こさせ、心が軋んだような気がした。オリヴィエが自分とブランシュの関係を知ってしまったらどうなるのだろうかと、ロランは急激に現実へ引き戻されたような気がした。
「勝ち気な僕は嫌い?」
 しかし、ブランシュが弱々しい声でそう言うものだから、ロランの心はまたもや揺らいだ。ばら色に染まった頬には幾筋もの涙が伝い落ちた跡が残っていて、唇は赤く熟れるように艶めいていた。頬に張り付いていた細い髪をかき上げてやると、くすぐったそうに湖水色の目を細めた。
「どんな君も好きだ」
 ブランシュはロランの胸に顔を埋め、細い腕をきつく背中に回した。
「ロランがいればいい。オリヴィエも、イレーヌも、お母様もいなくても」
 ロランは自分にしがみつく少女をきつく抱き締めた。ブランシュにここまでの覚悟をさせてしまったのに、なんと情けない男なのだろう。ロランは心に誓った。どんなに周囲を傷付けようと、ブランシュを愛し抜こうと。

 ブランシュの奇行はあの日以来、ぴたりと治まった。以前のように無邪気に、時には無茶をし、よく笑った。ブランシュのその変わり様に、オーレリーもクレマンも驚き、ロランに殊更深く感謝をした。しかしロランの耳にはどことなく、オリヴィエに精一杯で、わがままなお転婆娘に関わっていられなかったから事を収めてくれて感謝している、というように聞こえたので、更にブランシュへの同情心が湧いてくるのを止められなかった。
 相変わらずロランもブランシュもオリヴィエとの面会は許されず、オーレリーもクレマンもイレーヌも掛かり切りだった。必然的に、ロランとブランシュは一緒にいることが多くなり、しかしだからと言って咎められることはなかった。ロランはブランシュとの甘い時間を密かに楽しんでいた。
「ロランの心臓を食べて、一つになってしまいたい。なれればいいのに」
 夏が深まってきて、ロランとブランシュは湖で過ごすことが多くなっていた。ある日、ブランシュはそう言ってロランの胸に頬をすり寄せた。
「怖いことを言うな、君は」
「ものの例えだよ」
 ブランシュは肩を震わせて笑ったが、すぐに俯せになり、両肘をついて顎を支えた。
「そう言えば、お母様が同じことを言ってた。移ってしまうものなのかな」
 娘の前で恐ろしいことを言う。ロランはまだ見ぬ双子の母親に恐怖を覚えた。ブランシュは寂しげに表情を曇らせた。
「どうした、ブランシュ」
「最近、お母様からの呼び出しがないんだ。イレーヌがオリヴィエに掛かり切りだからかもしれない。でも、こんなに長くお母様が僕を呼ばないなんて」
 ブランシュの口からアニエスの話が出てくるのは初めてだった。ロランは身体を起こし、金糸の髪が流れる柳腰を見下ろした。
「君は母親が好きか? 手を上げられたりしていないか」
 以前クレマンが、アニエスは酷い癇癪持ちだと言っていたので、ロランは急に不安になった。しかし、ブランシュは不安を吹き飛ばすようにけらけらと笑った。
「何言ってるんだよ、ロラン。そんなことされるわけないだろ。お母様はいつだって優しい。でも、好きかどうかは、分からない」
「父親は?」
「嫌い」
「なぜ?」
「お母様を苦しめた」
「君は母親が好きか分からないのに、母親を苦しませた父親が嫌いなのか」
「そうだよ。男だからね」
「オリヴィエは? 男だろう」
「オリヴィエは別だよ。僕の分身なんだから」
 ブランシュは突然立ち上がり、座り込むロランを見下ろした。そしてロランの唇に唇を落とし、微笑んだ。
「あと、あんたも別」
 これには苦笑を返すことしかできなかった。愛しいと、ロランは素直に思った。
「ねえ、今から、お母様のところへ行こうよ。ロランを紹介したい」
 突拍子もない提案に驚いたが、ロランは一度も会ったことのないアニエスが気になっていることは紛れもない事実だった。
「許可がなくてもいいのか?」
「多分、大丈夫」
 ロランとブランシュは連れ立って、屋敷の奥へとやって来た。一度扉に手をかけたブランシュだったが、思い止まったのかロランを振り向いた。
「僕が先に行くから、ロランはここで待ってて。呼んだら入ってきて」
 ロランは頷き、ブランシュは扉を開け、中に入っていった。
「お母様、わたしです。ブランシュです。お加減はいかがですか」
 ロランは聞こえてきたブランシュの丁寧な言葉遣いに、思わず驚きの声を上げてしまうところだった。
「まあ、ブランシュ。白く美しい少女、私の大切な娘。どうしたの、突然なのね」
「突然すみません。最近、めっきり呼んでくださらないので、自分から来てしまいました」
「ごめんなさい、寂しい想いをさせてしまったのね。イレーヌはこの頃、オーレリー義姉様にこき使われているのかしら。あまり姿を見せてくれないの。ああ、それにしても、相も変わらずおまえのなんと美しいこと。ふふ、頬がばら色よ。走ってきたのでしょう。おまえは小さいころからお転婆で、よく手を焼いていたものね。あら、痣がないわ」
「クレマン先生がよい塗り薬をくださったのです。前にもお教えしたでしょう。これがよく効いて、痣を消してしまったのです」
「そうだったかしら。嫌ね、わたしったら。でも良かったわ。美しいおまえの姿の中で、唯一気にかかっていたのが痣だったのだもの。あの人も、それはそれは悔やんでいたわ」
「……お母様、わたしはお父様を恨んでいます。お母様を哀しませるお父様を、そしてわたしに傷を作ったお父様を恨んでいます。でも、お母様。お父様のような男性ばかりではないと気付いたのです」
「どうしたの、ブランシュ。何を言っているの? あの人はおまえに手を上げたことはなかったでしょう」
 扉から、ブランシュが顔を出した。ロランは意を決し、ゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。ベッドに横たわったアニエスは、ブランシュの生き写しだった。ロランの身体を戦慄が走った途端、にこやかに微笑んでいたアニエスの顔から笑顔がすっと消え去った。
「紹介します、お母様。彼はロラン・アンデルソン。わたしの家庭教師です。わたしは彼を愛しています。そして彼も、わたしを愛していると言ってくれました。ねえ、お母様。ロランは真面目な方です。お父様のように何人もの女に手を出したりしません。こんな方もいるのです。だからお母様、お父様のことなどお忘れになって……」
 そのとき、皿が落ちて弾けたような音が室内に響き渡った。アニエスが手を振り上げ、ブランシュの頬を叩いたと理解するまで数秒の時間を要した。それほど、ロランはアニエスの豹変ぶりに驚いた。
「出てお行き! 男の匂いがするわ! ブランシュ、ああ、私の美しい娘。白くはなくなってしまったのね!」
「何てことを! 何てことをするのです。ご自分の娘でしょう」
 床に座り込みそうになったブランシュを支えると、アニエスはわなわなと震えだした。
「穢らわしい。ブランシュ、男に身体を触らせるなんて!」
 ロランは驚愕した。支えただけで、触ったことになるのか。
「愛しているですって? そんな感情、妄想よ! 錯覚よ! 目を覚ましなさい、ブランシュ。おまえは白く美しい少女、私の大切な娘。男の穢れに染まってはならない! せっかくあの人が死んで、おまえは白く生まれ変わったというのに!」
 ブランシュは顔を上げ、強くアニエスを睨んだ。
「この、石頭! あばずれ女!」
 アニエスに突っかかっていこうとするブランシュを、ロランは押さえ付けた。アニエスは怒りを抑えきれず、がたがたと震えた。
「何て乱暴な! その男に吹き込まれたのね! ああ、ブランシュ。私の、私とあの人の娘。大切な……唯一の……私の支えだったのに……! その男に汚されてしまった!」
 アニエスは混乱し、髪を掻きむしった。
「出てお行き! 出てお行き! おまえなどもういらない! 私のように醜くなればいい!」
 その血気迫る様子に、ロランはブランシュを部屋から引きずり出した。扉を閉めたあと、内側から何かが当たったような音が響いた。物音は激しい罵倒とともに勢いを増し、ロランはブランシュの手を取って廊下を駆け抜けた。
 しばらく走って、物音が聞こえない場所まで来ると、ロランは荒い息を吐いているブランシュを抱き締めた。
「酷い、何て酷い母親だ」
「お母様は病気なんだ。仕方がないよ」
「君は何とも思わないのか。あんな風に言われて……」
 抑揚もなく言い放ったブランシュの身体を解放して、ロランは言葉を失った。ブランシュは静かに涙を零していたのだ。弟に会うことも叶わず、家人に疎まれ、母にまで拒絶された少女を、ロランは心の底から哀れだと感じた。胸の痛みに従うまま、ブランシュに口付けた。ブランシュもまた泣きながら、腕を絡めてそれに応えた。
 日が落ちるにつれ雲が雲を呼び、あっという間に重くのし掛かるまでに広がっていった。ロランはベッドに寝転がり、時折窓の外で薄く光る空を身ながら、ブランシュのことを考えていた。あの後、アニエスをあのまま置いてきてよかったのかと尋ねると、ブランシュはいつものことだから大丈夫だと言い切った。ロランももう、アニエスとは関わり合いたくないと思っていたので、それに従ったのだった。それよりも、アニエスが望むままに家に縛られ、そのこと以外には意味を与えられなかった少女を思えば思うほど、今すぐにでもブランシュの部屋へ飛び込んで行きそうになる自分を感じた。ロランは気を取り直そうと考え、本を選ぶために机の前に立った。何気なく一番上に積み上げられた赤い革表紙の本を手に取ると、それには題名がなかった。手当たり次第持ってきたわけではなかったので、ロランは不審に思い、その本を開いてみた。
――私たちの元へ、二人の天使が舞い降りた。
 その一文で始まる本は、手書きの日記だった。裏表紙を見ると、掠れた文字でアニエス・セドランと記してあった。



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