オリヴィエと会えない日が続いた。ロランが足繁く面会に行っても、その度にクレマンによって面会を拒否された。それはブランシュも同様だったが、オーレリーとイレーヌだけは頻繁に出入りしているようだった。
「そんなに悪いのですか」
 ロランはもう何度目かになる問いを、クレマンにぶつけた。
「命に別状はないと、何度も申し上げましたでしょう。ただ少し、精神的に弱っているのです」
「精神的? なぜ?」
「彼は、跡取りですからね。とにかく、今はあなたやブランシュ様に会わせるときではありません」
 クレマンはそう断言し、部屋に引き返していった。一般家庭で育ったロランにはさほど気に病むことではないように思えたが、名家の長男ともなれば重みが違ってくるのだろうか。兄がいたなら、と苦しそうに微笑んだオリヴィエの表情を、ロランは思い出した。まだ声変わりもしていない、頼りない肩の、繊細な少年。会えない時間が更にロランの心の中でオリヴィエの存在を美しく儚いものへと変えていった。
 ブランシュは、オリヴィエと会えないことで日々苛立ちを募らせていった。午前中の勉強も頬杖をつき、ペンを弄び、上の空だった。
「オリヴィエとこんなに離れたのは初めてだ」
 身の入らない勉強を早々に切り上げると、ブランシュは怒ったように言った。
「くそばばあもやぶ医者も、どうかしてる。部屋にずっと閉じ込めておいたら、治るものも治らないだろ」
 本を乱暴に閉じた様子からして、ロランは部屋を追い出されたことが相当怒りに触れたようだと感じた。双子は未だに同じ部屋、同じベッドで寝ていたらしく、一人部屋に移されたブランシュは一人で眠るのが慣れないのか不眠が続いているようだと、クレマンはロランに囁いた。以前のように森を走り回っていれば心地よい眠りにつけるだろうが、ブランシュはオリヴィエが床につくようになってから苛立ち、時には塞ぎ込むようになった。そのせいで一緒に過ごすことはあっても、木漏れ日の中で眠り込んだり、苛立ちをロランに向けてきたり、逆にべったりと甘えてきたり、以前までの活発さはどこかへ行ってしまった。これではブランシュまで病気になりそうだが、オーレリーもクレマンも、歳の近いイレーヌでさえ、過保護なほどオリヴィエにかかりっきりなのだった。
「ブランシュ、午後は何をするんだ? またオリヴィエに何か持っていくか? オリヴィエは甘いものが好きだったな。街へ降りて、エクレールでも買ってこようか。そうだ、街にサーカスが来ているらしい。気分転換に見に行ってもいいな。オリヴィエが元気になったら、どんな出し物だったのか二人で話して聞かせよう」
 ロランなりに気を利かせたつもりだったのだが、ブランシュにはなぜか勘に障ったようだ。机に勢いよく手をつき、立ち上がってロランを睨み付けた。
「何だよ、ロランまでオリヴィエ、オリヴィエって! それに僕は街へは行かないよ! サーカスなんて獰猛な動物がいるところ、頼まれたって行くもんか。ロラン、あんた、異常じゃないの。他人のくせに、何でそこまでオリヴィエを心配するんだよ」
 言い方が悪かったと、ロランは内心溜息をついた。
「弟を見てるみたいだからだ。3人の中でも年上だった弟は、下2人に泣き顔すら見せないで無理して笑ってた。そいつに似てるんだよ」
「どこまでも弟想いなんだな」
「君だってそうだろう。弟が心配で、苛ついてる」
 ブランシュは唇を噛み締め、憤然と扉へ向かった。
「ブランシュ、どうしたんだ。最近おかしいぞ」
「うるっさいな。今日は一人で過ごしたいんだよ。僕に構う暇があったら、可愛いオリヴィエの部屋への進入方法でも考えてれば」
 誤解も解けないまま、ブランシュは部屋を出て行ってしまった。ロランはオリヴィエだけではなくブランシュも心配しているのだが、卑屈になってしまっている彼女には結局何を言っても逆効果なのかもしれない。ブランシュも自分も、少し頭を冷やす必要がある。ロランはそう思い、少し距離を置いてみることに決めた。
 昼食を終え、一人で街へ下りて双子にエクレールを買ってこようかと考えていると、廊下でクレマンとはち会った。
「ああ、ロラン、ちょうど良かった」
「何かご用でしょうか」
「オリヴィエの調子が良くなってきたのですよ。面会を許しましょう。ただし、あまり刺激をさせないこと。二言三言会話するだけでいい気晴らしになります」
 突然の申し出に、ロランの心は久しぶりに喜びと安堵で満たされた。
「本当ですか。ならば今、ブランシュも呼んで……」
 クレマンは眉根を寄せ、痛々しそうに首を横に振った。
「残念ながら、今回はあなたのみです。今から、私がブランシュを診察するのですよ。最近のブランシュはオリヴィエと会えないこと以外にも、何か思い悩んでいる様子が窺えます。ロラン、一緒に過ごしていて、何か気付いたことはありませんか?」
「いえ、特には。やはりオリヴィエと離れているからだと思うのですが」
「しかし、今のオリヴィエをブランシュは受け入れるだろうか」
「え?」
「とにかく、いいですね、ロラン。オリヴィエに刺激は禁物です。とにかく優しく接するようにお願いしますよ」
 クレマンは難しい表情を崩さないまま念を押し、唸りながらその場を去ってしまった。一人取り残されたロランは、オリヴィエの部屋へと歩きながらクレマンの言葉の意味を反芻した。今のオリヴィエは、前のオリヴィエとは違うのだろうか。ブランシュが衝撃を受けるほどに変わり果ててしまったのだろうか。あんなに仲が良い二人のことだ。例えば極端にやせ細ってしまったせいで、ブランシュに与える衝撃の強さを考慮して、面会を許されないのではないか。
 オリヴィエの部屋の近くまで来ると、ちょうどドアから箒とちり取りを持ったイレーヌが出てきたところだった。ロランに気付いても、困ったような表情を和らげることはなかった。
「どうかしたのか、イレーヌ」
「あ、いいえ。面会に来られたのですね」
「ああ。オリヴィエなんだが……」
 どこか変わってしまったのだろうかと言いかけて、ロランはぎょっとした。イレーヌの前掛けに血がついていたのだ。イレーヌはロランの視線に気付き、大仰に手を振った。その手のひらにも赤い血が滲んでいた。
「これは、わたくしが花瓶を落として割ってしまって……片付ける際に切ってしまったのです。大した傷ではありません」
「大変だ。破傷風になったらどうする」
 ロランはハンカチを取り出し、強引にイレーヌの手を引いた。突然のことで息を飲んだイレーヌだったが、ゆっくりと手のひらを開かせハンカチで傷口を縛ると、ほっと息をついた。
「ありがとう、ございます」
「こんなものは応急処置だ。すぐにクレマン先生に看てもらうんだ。いいね?」
 ロランが意気込むと、イレーヌは気圧されたようにこくこくと何度も頷いた。
「ロラン様は、お優しいのですね」
 イレーヌは箒とちり取りを抱え直したあと、俯いたまま、蚊の泣くような小さな声でそう言った。
「今、オリヴィエ様は落ち着いておられます」
 目を合わせないまま軽く礼をし、イレーヌはその場を去っていった。
 ロランは気を取り直し、オリヴィエの部屋のドアをノックした。返事は聞こえなかったが、そっと扉を開け、部屋に足を踏み入れた。レースの天蓋の影が、僅かに動く。
「オリヴィエ?」
「……ロラン?」
 天蓋越しではよく表情が分からなかったが、オリヴィエは身体を起こしているようだった。ロランはそっと、花びらに触れるように天蓋をめくった。湖水色の潤んだ瞳と目があった。髪は相変わらず砕いた星のようにきらめいて、頬は陶器のように白かった。見た目が変わってしまったのかと妄想が飛躍していたが、僅かに痩せただけで極端な変わり様ではなかったので、安堵の長い溜息が出ていた。
「やっと面会の許可が下りたんだ。心配していたよ」
 レースを束ねてベッドサイドの椅子に腰掛けると、オリヴィエは無表情のまま目を伏せた。
「あなたが、心配してくれるなんて」
「当たり前だよ。君たちはもう、他人とは思えない」
 オリヴィエは表情を窺うように、不安げにロランを見上げた。真っ直ぐに強く見上げてくるブランシュとは違い、オリヴィエの瞳はいつもどこか痛々しく、何かを押し込めているような危うさを感じた。
「体調はもう大丈夫なのか?」
「今日は、比較的楽です」
「そうか。早く良くなればいいな。治ったら、また三人で過ごそう」
「……ブランシュは、元気ですか」
 ロランは真実を言おうか言わまいか迷い、結局双子の片割れに嘘をついても無駄だろうと、真実を話すことに決めた。
「ブランシュは、君と会えないことで苛ついているよ。街にサーカスが来ているから、気分転換にと誘ったんだが、きっぱり断られてしまった」
「すみません、ロラン。ブランシュは子どもなんです。あなたに対して、乱暴な態度を取ったのではないですか?」
 まるで見てきたかのような言い方に、ロランは苦笑した。
「俺にとっては猫に引っ掻かれた程度のことだ。気にすることはないよ。君と一緒なら行くだろうからな」
「それでもブランシュは、サーカスには行きませんよ。動物が嫌いなんです。サーカスどころか、街にも下りたがらない。街には人の目があるし、動物もいるでしょう」
 ロランは先ほどのブランシュの言動と、ナタンに対する態度を思い出した。
「そう言えば、そんなことを言っていたな。オリヴィエ、君は街に下りたいとは思わないのか?」
「僕もさほど興味がありません。僕たちはこの環境でずっと育ってきましたから、外の世界をよく知らないんです」
「でも、いつかは外を知らなければいけないよ。外はたくさんの人がいて、こことは違った楽しみがあると思うがな」
「……そうですね。お母様のように、夢の中で暮らすわけにはいきません。お父様が亡くなった今は、僕がたった一人の跡取りなのだし……」
 オリヴィエは深い溜息をつき、窓の外を眺めた。群生するプラムの赤い色が鮮やかだったのか、目を細めつつもナタンが蝶々を狙って飛び上がる様子をじっと見ていた。
「君たちのお父さんは、どうして亡くなったんだい」
 思わず湧いた疑問を口に出してしまい、ロランは内心焦った。しかしオリヴィエは無表情で窓の外を眺めたまま、躊躇もなく口を開いた。
「どこからか入り込んだ野犬に襲われたんです。父は浮気性で、よく屋敷を抜け出しては街へ下りていました。帰宅する際、扉をしっかり閉めないままにしておいたことが祟ったのでしょう。母は父が死んでから、僕を必要としなくなりました。妄想が激しく、癇癪を起こすこともあるようです。世話係のイレーヌが不憫でなりません。ブランシュも、気違いの相手は疲れるでしょう」
 その言葉に、ロランは胸を痛めた。自分の母親を気違いなどと称する少年を咎めたい気持ちに駆られた。しかしオリヴィエは気怠く瞬きをし始め、ベッドに横になってしまったので、時機を失ってしまった。クレマンが、オリヴィエは体調も優れないが精神的にも弱っていると言ったことは事実だと、ロランは実感した。まだ完治していないのに、重い話をさせてしまった自分が情けなくなった。それに、オリヴィエは以前、母親のことで泣いたのだ。本心で言ったのではなく、根底にある寂しさがそうさせるのだろうと、ロランは強く思った。
「疲れたかい、オリヴィエ。何か俺にして欲しいことはあるか?」
 オリヴィエはゆっくりと目を瞬き、手をベッドサイドへ滑らせた。その動きがあまりにもおぼつかなかったので、ロランは先にベッドサイドに乗っている本を取った。
「詩を、読んで欲しいです」
 そう言って、オリヴィエは目を閉じた。ベッドサイドに置いてあった本は、授業で使ったシェリーの詩集だった。ロランはひとりでに開いたところから読み始めた。

心がひとつに結ばれると
愛はまず、うまくつくられた巣を離れ
弱い方だけが、かつていだいた想いを忍ぶ
おお、愛よ! この世の全てのものの
移ろいやすいことを嘆くものよ
なぜおまえはこの上なく移ろいやすいものを
おまえの揺りかご、棲み家、柩とするのか

 次のページをめくろうとしたとき、オリヴィエの微かな寝息がロランの耳に届いた。本を閉じ、目にかかった髪を退けてやると、指先に触れた額が熱いような気がした。ロランは上掛けを整え、そっと部屋を出て、クレマンを探しに行った。



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