オリヴィエが、床に伏せるようになった。微熱が続き、軽い肺炎を起こしたようで、医師のクレマンが付きっきりで看病にあたった。事態を聞きつけたオーレリーは、ベッドサイドでオリヴィエの手を握るブランシュを押しのけ、自分が手を握り締めた。
「大丈夫なの、オリヴィエ。命に関わることはないんでしょうね。この子はたった一人の大事な跡取りなのよ、クレマン」
「大丈夫ですよ。ただ……」
 クレマンは言葉を濁し、オーレリーと共に部屋を出て行った。
「くそばばあが枕元にいたら、治るもんも治らないっての」
 オーレリーの消えた扉に向かって舌を出したブランシュは、無反応なオリヴィエを振り返って眉根を寄せた。
「オリヴィエ?」
「……何だい」
 呼びかけに、オリヴィエは酷くゆっくりと反応した。熱があり、夢と現をさまよっているのだろう。頬はばら色で、湖水色の瞳は普段より一層青く潤んでいた。
「……ゆっくり休んで」
 ブランシュは唇を噛み締め、部屋を出て行った。ロランは目を伏せ、ゆっくり規則正しく呼吸し始めたオリヴィエの額にキスを落とし、静かに部屋を出た。廊下にはブランシュが、壁に背中を預け、俯いていた。
「風邪なんか僕にうつってしまえばいいんだ。僕だと誰も心配しない。オリヴィエが苦しんでいるところなんて、見たくない」
「何を言ってるんだ。心配するだろう。オリヴィエだって、クレマン先生だって、オーレリー夫人だって。俺だってそうだよ」
 ブランシュは弾かれたように顔を上げ、オリヴィエと同じ湖水色の瞳を見開いた。
「ロランは心配する? もし僕が寝込んだら? 本当に?」
「当たり前だろう」
 言い切ると、ブランシュは頬を染め、柔らかく微笑んだ。そしてロランの手をぐいぐいと引っ張り出した。
「キイチゴを摘みに行こう、ロラン。オリヴィエはキイチゴが大好きなんだ。プラムもそろそろ収穫できるって、イレーヌが言ってた」
 その無邪気な様子を見ていると、気分が沈んでいたロランまでつられて笑みが漏れた。籠を持って、森へと勢いよく駆けだしたブランシュは、まるで森の精のようだった。木立の中をひらひらと翻る白いスカートを追い、やっとロランが追いつくと、眩しさに眩暈がした。頭上高くから差し込む木漏れ日の中、座り込んで赤い実を丁寧に摘むブランシュの様子は、普段の荒っぽい気性を隠し、少女らしい少女に見せていた。そんな様子を今まで一度も見てこなかったからか、ロランは久しく忘れていた胸のときめきを覚えた。
「君はやっぱり女の子なんだなぁ」
 ブランシュは振り向いて、しみじみと自分を見つめるロランを見ると、ぎょっとしたような仕草を見せた。
「何だよ、突然」
「いや、普段は言葉も粗野だし、行動も破天荒だしさ」
「悪かったね。くそばばあに反抗するうちにこうなったんだよ。どうせ僕は大事な跡取りじゃないさ」
 ブランシュは摘んだキイチゴを口へ放り投げた。その仕草はやはり少女にしては粗野で、ロランは思わず苦笑してしまった。元々品は備わっているのだから、少し言葉遣いや行動を直せば、どこの女にだって負けないのにと口惜しく思う。
「うん、甘い。あとはプラムを取りに行こう」
 連れ立って、プラムが群生する辺りまでやって来ると、辺り一面に甘い匂いが立ちこめていた。
「ロラン、肩車」
「女の子だろう、君は」
「大丈夫だったら」
 そう言って袖を引かれたロランは、渋々腰を屈めた。肩に乗ったブランシュの、長いスカートに覆われた膝を掴み、ゆっくりと立ち上がった。ブランシュは興奮した子どものように騒いだ。
「ロラン、重くない?」
 上から身体を曲げて尋ねてきたブランシュに、ロランは苦笑を返した。ぱらぱらと垂れてきた細く長い髪が首筋に当たってくすぐったかった。
「重い」
「うそ!」
「嘘だよ」
 ブランシュは頬を膨らませ、ロランの頭を太鼓のように叩き、足をじたばたと動かした。
「こら、危ないからやめろ」
「嘘吐きロラン! 狼少年みたいに、狼に食べられて死んでも知らないからな」
「あいにく、俺はもう少年じゃないんでね」
 二人で笑い転げたあとは、プラムを籠いっぱいに収穫し、木の根本で休憩をした。冷たい風が、汗をかいた身体に心地よかった。
「いつもは僕がオリヴィエに肩車をしていたんだ。される方って、あんなに気持ちいいものなんだな。巨人になった気分だった」
「君が肩車をしていたのか?」
「そうだよ。こう見えて力はあるんだ」
 そう言って、ブランシュはプラムにかぶりついた。プラムから流れ出る果汁が、口元を伝って白いワンピースの僅かに膨らんだ胸元に落ちた。ロランはハンカチを取り出し、口元を拭いてやった。
「あんたって世話焼きだよな」
「幼い弟が3人もいるんだ。自然とそうなっちまう」
「子どもと一緒にするなよ。僕はもう16だ」
「何言ってるんだ。まだまだ子どもだよ、君は」
 突然、ロランは強く肩を押され、仰向けに倒れた。腹の上にブランシュが跨り、覆い被さってきたと思った途端、ロランの唇に柔らかいものが押し当てられた。
「子どもはこんなことするかい、ロラン」
 ブランシュはすぐに上体を起こし、意地の悪い笑みをしてみせた。所詮、子どものキスだ。頭ではそう思っているものの、ロランの心臓は激しく胸を叩いていた。それを悟られないように、ロランはゆっくりと溜息をついて呆れたような素振りをして見せた。
「全く、そういうところが子どもって言うんだよ」
「キスをされても余裕だなんて、やっぱりあんたは大人だな」
 ブランシュは声を上げて笑い、ロランの胸の上に頬をつけた。心臓が一層高鳴った。
「オリヴィエがあんたを好きだから、僕もあんたが好きだよ、ロラン」
「俺も好きだよ。天使の顔をした悪魔たちが」
「ロランみたいな歳の離れた兄さんがいたらよかった。でももう、あんたは僕らの兄さんみたいなもんだよな」
 ブランシュはほう、と息をつき、頬をすり寄せ、安心したように言った。その言葉と、じゃれるような仕草に、ロランの中で何かがすっと消えていった。ブランシュは、自分を兄のように思っているのに、急に情けなくなったのだ。この無邪気な少女に抱いた想いは、忘れかけていた恋の兆候だということは分かっていた。だからこそ、これ以上の感情を持たないようにしなければならない。ロランは弟たちを、そして自分を信頼してくれたオリヴィエのことを思う。不貞はあってはならない、絶対に。
「そう言えば、オリヴィエにも『あなたのような兄がいたなら、どんなに心強かっただろう』って言われたよ。嬉しいね。俺の存在を認めてくれる人がいるってことは」
 ブランシュは弾かれたように身体を起こした。
「オリヴィエが、そう言ったの……」
 ブランシュは呟き、立ち上がると、籠を持ち上げて屋敷へと続く道を歩き出した。
「ブランシュ!」
 ロランの制止にも答えず、ブランシュは木立の中に消えた。熟した果実の匂いが、爛れるほどに甘かった。



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