宛われた部屋はロランの家全体よりも大きく、オーレリーが買い揃えた衣服はあまりに滑らかで袖を通すのを躊躇してしまうほどだった。高い窓から差し込む朝の日差しを浴びると、場違いな自分が更に浮き彫りになっていくようで、自然と溜息が漏れた。セドラン家に住み込むようになってから一週間が経ったが、未だにこの環境に馴染めなかった。
「おはようございます」
 広間に降りていくと、既にオーレリーが食卓についていた。朝から念入りに化粧を施したらしく、中でも唇は燃えるような赤々とした色だった。
「おはよう、ロラン。冴えない顔ね。美しいものを見ると、自然と笑顔になるものよ」
「ええ、そうですね」
 ロランは無理やり笑みを作り、席に座った。オーレリーは嫁いだ人間であるのに、ロランが住み込むようになってからほとんどを実家で過ごすようになったらしい。ブランシュはそんな叔母が余程気に入らないらしく、裏で散々オーレリーに悪態をついていた。オリヴィエは初めこそロランを気にして諫めていたが、やがて止めてしまった。ロランがブランシュの悪口に思わず吹き出してしまったせいだ。
「どうしたの、ロラン」
 思わず思い出し笑いをしてしまったらしい。化粧をしたブルドッグ。向けられた顔にまた笑いが込み上げてきたが、必死で緩んだ頬を引き締めた。
「おはようございます」
 オーレリーの視線は広間に入ってきたもう一人の人物に向けられ、ロランは胸を撫で下ろした。幼い弟たちの顔が浮かぶ。ここで全てを台無しにするわけにはいかない。
 オーレリーの向かいの席に腰掛けた初老の男は、ロランに柔和な笑みを向けた。クレマンはセドラン家に召し抱えられている医師であり、幼いころに父を亡くした双子の父親代わりのような存在でもあった。いつも自室に籠もっているか、庭で薬草を摘んでいるかで、あまり関わったことのない人物だったが、穏やかなクレマンはロランにとって安心できる相手だった。
「オリヴィエとブランシュは遅いわね。一体いつまで待たせるつもりかしら。きっとまたブランシュが駄々をこねているんだわ」
「おはようございます。遅くなってすみません」
 オーレリーが痺れを切らしたとき、オリヴィエとブランシュが広間にやってきた。案の定、まだ半分目が開いていないブランシュの手を、オリヴィエが引いていた。二人はロランの向かいの席に腰掛けた。背後にある窓から降り注ぐ光で、二人の髪は絹のようにきらめいた。
 朝の祈りを終え、使用人のイレーヌがスープを運んできた。そばかすが浮かぶ少女はそそっかしく、よくオーレリーに叱られているところを見たことがあった。スープを口に運びながらロランが気の毒に思っていると、オーレリーの甲高い声が響いた。
「やもりよ! やもりが入ってるわ! イレーヌ! これはどういうことなの?」
 ナプキンをテーブルに叩き付け、調理場まで憤然と向かっていったオーレリーのスープには、肉や野菜に紛れて、確かに爬虫類の手のようなものが見えた。調理場から漏れ聞こえてくる声に、遂にブランシュが笑い声を上げた。
「見たか、オリヴィエ、あの顔。あいつ、まんまとやもり入りのスープを飲みやがった」
「やっぱりイレーヌがかわいそうだよ。あの子、仕事中も泣いてるんだよ」
「イレーヌには後でお菓子をたんまり持っていくさ。そういう手はずになってる」
 溜息をついたオリヴィエをよそに、ブランシュは満足げにテーブルに両肘をつき、パンをちぎって口に入れた。その仕草は粗野だが、下品だと感じさせないあたりは名家の娘だとロランはいつも感心していた。しかし、今の仕打ちは名家の娘がすることだろうか。
「陰湿だな。感心しない」
 ロランは食欲が減退していくのを感じ、思わず呟いていた。もしそそっかしいイレーヌが間違えて、自分にやもり入りのスープを宛っていたらどうなっていただろうかと考えて、ぞっとした。
「あなたのスープには何も入っていないから大丈夫ですよ。イレーヌには、オーレリー叔母さんのスープにだけやもりを入れるよう言っておきましたから」
 淡々としたオリヴィエの声に、ロランは溜息が漏れるのを押さえられなかった。
「ロラン、あんた、僕だけが悪者だと思ってるだろう。本当はオリヴィエが裏で糸を引いてるんだ」
「人聞きの悪いことは言わないで欲しいな。スープに仕込もうと言ったのは君だよ、ブランシュ」
「やもりがいいんじゃないかって提案したのは君だろう、オリヴィエ」
「捕まえたのは僕じゃない」
「殺したのは君さ」
 二人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。邪気の欠片もない、日向の笑顔。会話さえ聞いていなかったなら、そう感じただろう。ロランはまた小さく嘆息した。
「天使の顔をした悪魔の笑顔。全く、しょうもない二人です」
 クレマンは苦笑しながらそう言った。

 午前中、ロランは双子に勉強を教えた。大学に通っているときは、生活の負担をなるべく減らそうと家庭教師の仕事を経験したこともあったので、戸惑うことは少なかったのが救いだった。久しぶりの勉強は懐かしくも切ない気持ちになったが、やはり嬉しさが勝った。双子は無駄口を除けば手のかからない優秀な生徒で、教えたことはすぐに覚え、逆に間違いを指摘されることもあった。理由は分からないが、今まで一度も学校に通ったことがないというのに双子は聡明だった。だとしたらよほどいい家庭教師がついていたのだろうとロランは思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「あんたの教え方はうまいよ」
 勉強が終わったあと、ブランシュはそう言ってロランを上目遣いで見た。
「詩を朗読するときの声もいい」
「何だよ、褒めても何も出ないぞ。それに君たちは今まで、もっといい家庭教師に見てもらってたんだろう?」
「家庭教師なんか、しょっちゅう変わったよ。みんな駄目なやつばっかりだった。何せ……」
 ブランシュはちらりと、二人分の教科書を片付けているオリヴィエを見遣った。
「まあ、いいや、そんな話は。ロラン、午後は何をする? 今日もルリビタキを探す?」
「俺は何にでも付き合うよ。君たちの家庭教師兼遊び相手だからな」
「じゃあ、そうしよう。天気がいいから、森でお昼を食べようよ。ライ麦パンにチーズとハムを挟んでさ。オリヴィエ、いいだろう?」
 勢いよく椅子から立ち上がったブランシュは、オリヴィエに同意を求めた。オリヴィエは顔を上げ、微かに笑った。
「もちろん」
 その笑顔はブランシュにとってなぜか余程嬉しかったようで、咲いた花のように可憐な微笑みを返した。
「あのう」
 その時、部屋の扉が開いて、イレーヌがおずおずと顔を出した。
「ブランシュ様、アニエス様がお呼びです。昼食を食べたらすぐにでも、と」
 華やいだブランシュの笑顔は、途端に萎れていった。ブランシュに比べたら感情表現が乏しいオリヴィエでさえ、凍り付いたように表情を固めた。
「……分かった」
 イレーヌが出て行ったあと、ブランシュは無理やり笑顔を作った。
「オリヴィエ、午後はロランと二人で遊んできなよ」
「でも……」
「オリヴィエには、早くロランと打ち解けてもらわないといけないから」
 オリヴィエは少しの間ブランシュを見つめていたが、やがて、そうだね、と小さく呟いた。
 双子の母であるアニエスは身体が弱く、屋敷の奥で暮らしている。ロランはそうオーレリーから教えられたが、挨拶に行くことも許されず、姿を見たこともなかった。普段の双子の会話の中でも両親に関することは話題に上ることはなかったので、ロランも敢えて深く追求せずにいた。
「オリヴィエ、どうしてそっちに座るんだ? こっちに来いよ」
 屋敷の周囲に広がっている森にやって来て、大木に背中を預けて座ったロランは、まるで避けるように反対側に座ったオリヴィエに尋ねた。
「嫌です」
 その返答は、少なからずロランを動揺させた。この一週間でブランシュとは打ち解けたと思っていたが、オリヴィエとはまだ大分距離があるように感じていた。しかし、嫌われてはいないと思っていた。
「なぜ?」
 返答はなかった。ロランは少し考えたのち、素早くオリヴィエの隣へ移動した。案の定オリヴィエは逃げようとしたので、腕を捕らえた。
「触らないで!」
 その瞬間、まるでロランを拒絶するかのような甲高い声が、オリヴィエの口から漏れた。ロランが手を放すと、オリヴィエは少し息を整え、その場に座った。
「すみません、ロラン」
「いや、俺が悪かったよ。調子が悪いのか?」
 オリヴィエは膝に顔を埋めたまま、首を横に振って否定した。そのとき、オリヴィエの首筋に薄桃色の何かがついていた。花びらだろうかと手を伸ばしかけたロランだったが、たった今の状況を思い出して留まった。
「オリヴィエ、首のところに何かついているよ」
 顔を上げ、首に手をやったオリヴィエは、ああ、と呟いた。
「痣です」
「ああ、そうか」
 オリヴィエは襟を正し、痣を隠した。
「幼い頃は、よくブランシュとお互いの服を取り替えて遊びました。ブランシュには痣がないから、お母様にはすぐばれてしまって……」
 そのとき、オリヴィエの頬を透明の涙が伝った。我慢していたものが決壊したかのように、膝に顔を埋めて、肩を震わせ始めた。ロランは狼狽した。両親が死んでしまってから、弟たちもよく泣いていた。そんなとき、ロランは弟を抱き締めて宥めていたのだ。しかし、先ほど拒絶されたオリヴィエに同じことをしてもいいのか分からなかった。ロランは少しのあいだ迷ったが、どうしても放って置けず、肩にそっと手を置いた。
「大丈夫か、オリヴィエ。泣きたいときは泣けばいいさ。心に留めておくのが辛い現実だってある」
 感情が高ぶったのか、オリヴィエの嗚咽は激しくなったが、拒絶はされなかった。ロランはオリヴィエの背中をさすった。すると、嗚咽に混じってオリヴィエが何度も同じ言葉を呟いているのが聞こえた。すみません、すみません、と。ロランは急にオリヴィエを愛しく感じた。気付いたときには、ロランはオリヴィエを抱き締めていた。オリヴィエは身体を強ばらせたが、ロランが背中を叩くと徐々に緊張が解けていくのが分かった。
「お母様にとって僕は、いない子どもなんです」
 感情が落ち着くと、オリヴィエは遠い目をしてそう言った。
「お母様の目には、ブランシュしか映らない」
「どうして?」
「……分かりません」
 深く追求したい気持ちに駆られたロランだったが、思い詰めているオリヴィエのあまりに弱々しい横顔を見ていると、それは酷だと思った。時が来たら、教えてくれるかもしれない。今はその時ではないのだ。ロランはそう自分を納得させた。
 やがて木漏れ日の中、イレーヌが用意したライ麦パンを食べ、それぞれが本を開いた。オリヴィエはロランが隣にいても、もう拒絶しなかった。
 日が傾いてきたころ、風が冷たくなってきたので、ロランとオリヴィエは屋敷に戻ることにした。並んで歩きながら、ロランは横目でオリヴィエを見た。俯きがちな少年の横顔を見ていると、3人いる弟の中でも一番年上の弟を思い出した。親が死んでから涙さえ見せず、下の弟たちの面倒を見ていた姿に切なくなったものだった。その時と同じ感情が、ロランの胸に去来した。
「俺のこと、嫌いか?」
 突然の問い掛けに、オリヴィエは足を止め、弾けるようにロランを見上げた。泣いた目元は赤く、瞳も未だ潤んでいた。
「いいえ、いいえ、ロラン」
「ありがとう。俺も好きだよ、オリヴィエ。だから自分をいない子どもだなんて思わないでくれ」
 強い風が吹き、どこからか甘い匂いを運んできた。まるでミルクのような匂い。それはオリヴィエを抱き締めたときに感じた匂いだった。
「あなたのような兄がいたなら、どんなに心強かっただろう」
 どこか苦しそうに微笑んだその顔は、どこまでも儚く透き通っていた。



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