白き毒は天使の種より発芽する




 あの屋敷には、悪魔が棲んでいる。
 そうロランの耳に囁いたのは、同僚の男だった。彼は身を挺し、辞職を伝えるために事務室を出ていこうとするロランを止めた。
「退いてくれ。もう決めたことなんだ。俺には金がいる」
「これまででも生活できているだろう?」
「弟たちにもっと楽な暮らしをさせてやりたいんだよ」
「何て丸め込まれたのか知らんが、それでも駄目だ、あそこは」
 なぜ、と問うと、彼は言ったのだ。身を微かに震わせながら、“悪魔が棲んでいる”と。
 セドラン家の屋敷は、街を一望できる丘の中腹に建ち、鬱蒼と茂る木立に半ば埋もれてはいるものの、近付きがたいほどの荘厳さで人々を拒絶していた。莫大な資産を持っていることで知られており、当主が若くして死んでからというもの、家人は外との交流を絶ち、財産に埋もれながら暮らしているという噂だった。
 錆び付いた鉄の門は、ロランが訪れることを考慮してだろうか、鍵が外されていた。押し開けると甲高い音が響き渡り、頭上でやかましく鳴き交わしていた小鳥たちが驚いて逃げていった。車一台通れるほどの歩道を歩きながら、ロランは以前ここに来たときのことを思い出していた。
 そう遠くはない。その日、郵便配達員として働いていたロランは、体調を崩して休んだ同僚の配達区域を任されることになった。倍の日給を出すというから、二つ返事で引き受けた。その配達区域にはセドラン家の屋敷も含まれていた。しかし、自転車で長い坂道を登ったものの、内側から鉄の門の鍵がかけられていて途方にくれた。しかも、敷地内にいる赤い首輪をつけられた白猫が、ロランの姿を見て威嚇し出した。周囲に人がいる気配はないし、裏手に回るとしても広大な敷地だから、時間がかかってしまう。どうしようか迷っていると、門の向こうの曲がりくねった私道に、一人の少年が現れた。金糸のような癖のない細い髪や、素人目にも上等だと分かる白いブラウスに、葉をいくつもつけていた。年の頃は15、6歳だろうか。まるで絵画のような美しい横顔に、ロランは我を忘れ目が離せなくなった。これほど神聖で美しいものなど見たことがなかった。日々の生活で精一杯の彼に束の間の安息を与えに来た天使だとさえ思った。やがて少年は凝視しているロランに気付き、湖水色の目を見開いた。そのとき、車が坂道を登ってきて、鉄の門の前で止まった。後部座席から降り立ったのは恰幅のいい婦人で、彼女はロランを見で僅かに驚いたあと、茫然と立ち竦む少年の姿を見つけると口元を歪めた。
「あら、郵便屋さん? いつもの人と違うのね」
「今日は人手が足りないのです」
「それじゃあ、勝手が分からなかったでしょう。手紙は敷地内に放り投げてくれていいわ。あとで使用人が取りに来るから。手紙なんて、どうせ誰も読みやしないんだけど」
 婦人は蔑むように笑った。瞳は少年と同じ湖水色で、顔立ちは整っていたが、無駄についた贅肉と人を食ったような眼差しが、それを台無しにしていた。
「オーレリー叔母様、止めてください」
 突然、少年が言葉を発した。その声はまだ変声期前らしく、少女のように澄んでいた。少年は門の側まで歩いてきて、オーレリーと呼んだ婦人を視線で諫めた。しかし、その目には震えが浮かんでおり、相手には効果がないようだった。
「失礼です」
「どうしたの、オリヴィエ。人前で声を荒げて。そんなことより、早く鍵を開けてちょうだい。喉が渇いたわ。先に屋敷に戻って、イレーヌにお茶の用意をさせていて。ああ、ちょっと待って。その猫をどこかへやってからよ」
 オリヴィエと呼ばれた少年は膝を折り、未だ警戒を解かない白猫を撫でた。白猫はまたたびを与えられたように満足げに喉を鳴らし、茂みの中へ消えた。オリヴィエは次に鍵を通したネックレスを首から外し、門を開けた。ロランのずっと低い位置にオリヴィエの頭があり、木漏れ日が長い睫毛をきらめかせていた。ふいに、オリヴィエが顔を上げ、ロランと目が合った。しかしそれは一瞬のことで、身を翻し、曲がりくねった私道を駆けて行ってしまった。彼がいなくなった場所は途端に光を失ったかのように薄暗くなった。
「あなた、どこかで見たことがあると思ったら」
 はっとして隣を見ると、オーレリーが悪戯でも思いついたような顔でロランを見上げていた。
「カフェ・シャンタルのギャルソンでしょう」
 言い当てられて、ロランは驚いた。
「その容姿なら、どこかの金持ち娘とでもすぐ結婚までこぎ着けられるでしょうに、昼も夜も働き詰めなのね。どうして?」
 ロランは言うか言わないか迷い、結局自分をまじまじと凝視する強い視線に負けた。
「両親が死んでしまったので、歳の離れた弟たちを養わなければならないのです」
「あら、そういう事情があったの。あなた、大学は出ていて?」
「いえ、途中退学をしました。授業料を支払えなくなってしまったものですから」
「それなら十分だわ。うちで家庭教師をしてくださらない?」
 突然の誘いで言葉を発せずにいるロランをよそに、オーレリーは更に言い募った。
「と言っても、あの子たちは聡明だから、遊び相手と言った方が正しいかしら。お給料は今のあなたの1日分の稼ぎより、遙かに高いことを保証するわ。住み込んでもらうから、弟さんたちは寄宿舎のある学校に入れましょう。心配しなくていいのよ。学費はセドラン家で負担するから」
「ちょっと待ってください。話が飛躍しすぎています」
「弟さんたちのこと、あなたのこれからのことを考えたら、悪い話ではないと思うけれど。簡単な仕事よ。さっきの子どもの相手をすればいいだけだもの」
「子ども……」
 思わず、先ほどの少年が心に浮かんだ。オーレリーはロランの心が揺れ動いた瞬間を見逃さなかった。
「弟のオリヴィエと、姉のブランシュ。天使のような双子の姉弟よ。二人は訳があって、学校には行けないの。そう言えば、あなた、お名前は何ておっしゃるの?」

「ロラン・アンデルソン?」
 ふいに名前を呼ばれて、ロランは立ち止まった。聞き覚えのある少女のような声に、オリヴィエだろうかと思った。周囲を見回すも、私道を取り囲む林は風にそよぎ、その声の名残をかき消してしまった。ふいに、くすくすと笑う声が耳に届いたと思うと、前方の草むらからオリヴィエが出てきた。
「ふうん、悪くないな」
 いや、オリヴィエではなかった。金糸のような癖のない髪は長く、ゆったりとしたくるぶし丈の白いワンピースを着ていた。ロランを興味深げに窺う湖水色の瞳には、僅かな好奇心が見え隠れしている。
「君は……オリヴィエじゃないね。ブランシュ?」
「そう。僕はブランシュ・セドラン。オリヴィエの姉さ」
 ロランに近付いてきて顎を上げ、微かに笑ったその顔と仕草は、少女らしからぬ喋り方と相反して、こなれた女の色気があった。
「僕とオリヴィエはよく似ているだろう? オリヴィエはまるで女の子のようだから。ロラン、あんた、オリヴィエに一目惚れしたんだろ」
「な、何を言ってるんだ」
 一度大きく跳ね上がった心臓は、今や忙しく動き出した。突然、ブランシュが吹き出した。
「冗談だよ」
 身体を折り曲げひとしきり笑ったあと、目に浮かんだ涙を人差し指で拭いながら、ブランシュはそう言った。そのとき、遠くでブランシュを呼ぶ声が木々に木霊した。やがて声の主はブランシュを発見し、腕を捕らえた。
「ブランシュ、何をしているんだい、こんなところで。客間でじっとしているように、オーレリー叔母様に言われていただろう。今日は……」
 そこまで言いかけて、オリヴィエはやっとロランの存在に気付いたようだった。はっと息を飲み、数秒ロランを凝視したあと、視線を落とした。
「オリヴィエ、あんなくそばばあの言うことなんか気にするなって、いつも言ってるだろ」
「ブランシュ! 言葉遣いを直すんだ。オーレリー叔母様に聞かれたら、また部屋に閉じ込められる」
「今でも十分、閉じ込められてるじゃないか。こんな檻の中にさ。あのくそばばあ、いつまで実家に通い続けるつもりなんだ。離縁でもされて出戻って来られちゃ、こっちが困るっての」
「ブランシュ、お願いだから言葉遣いを直して」
 勢いよく言葉を発していたブランシュも、オリヴィエの泣き出しそうな声には言うことを聞かざるを得なかったようだ。困ったような複雑な表情をしたあと、短い溜息をついた。
「分かったよ。分かったから。ほら、屋敷に戻ろう。君まで客間にいなかったら、あいつは大騒ぎだ」
 ブランシュはオリヴィエの手を取り、二人は私道を風のように駆けて行ってしまった。一人取り残されたロランは少しの間茫然としていたが、やがて風のように去った二人の甘い軌跡を辿っていった。

 家人との顔合わせが済んだあと、ロランは双子と共に庭に出た。早く打ち解けるようにとのオーレリーの心配りだった。一足先に跳ねるように外へ飛び出したブランシュはくるりと後ろを向き、オリヴィエを呼んだ。後ろから付いてきていたオリヴィエは、ロランを追い越し、ブランシュの手を取った。微かに笑い合った二人の頭上から木漏れ日が降り注ぎ、小鳥たちは一斉に美しいソプラノを披露した。双子は同時に、ロランの方へ顔を向けた。
「どうする、オリヴィエ」
「まだ様子を見よう、ブランシュ」
 そんな囁きが聞こえたあと、ブランシュだけが器用に口元を引き上げた。
「ロラン、僕たちについてこられる?」
 突飛な発言に聞き返す間もなく、強い風が吹いて木々が揺れ、ロランの視界を覆い隠した。風が収まったときにはもう、双子の姿は消えていた。しかし、微かに聞こえる笑い声と、白く糸を引くような気配、そして甘い匂いが残っていた。ロランは木立を駆け抜け、時折緑陰に幻影のように浮かぶ白い服を夢中で追いかけた。やがて手で草木を払うと、ぽっかりと拓けた湖に出た。湖畔には双子が座り込んでいた。
「君たちはエコーか」
 木の幹にもたれかかり、ロランは息を整えながら言った。ブランシュはオリヴィエの胸に顔を埋め、肩を揺らしていた。
「何がおかしい?」
「もう息が上がってるの。体力がないなあ。僕たちが鍛えてやらなくちゃ。まあ、ついてこられただけで合格かな」
 ブランシュは悪巧みをしている子どものようにオリヴィエを見上げた。するとオリヴィエもまた微笑み返した。ロランには無表情だが、ブランシュには笑顔を見せるらしい。そのとき、草陰ががさがさと動いたと思うと、甘えたような鳴き声と共に白猫が現れた。ロランが最初にこの屋敷を訪れたとき、威嚇された猫だ。
「ナタン」
 オリヴィエは立ち上がり、白猫を抱き上げ、ロランに向き直った。
「紹介が遅れました。彼はナタン。ロラン、あなたは動物がお好きですか?」
「好きだよ。昔、猫を飼っていたことがある」
「昔?」
「猫は死期が分かると言うだろう。いつの間にかいなくなって、それきりだ」
 ナタンが気持ちよさそうに喉を鳴らし始めた途端、ブランシュが立ち上がってロランの後ろに隠れた。そして腰の辺りの服を掴み、顔だけを出して抗議し出した。
「オリヴィエ、そいつを早くどこかにやっちまえよ。気が気じゃない」
「どうして怖がるんだい。僕がいればナタンは大人しいよ」
「いいや、そいつはいつでも臨戦状態さ。そうやって油断させておいて、襲いかかってくるつもりなんだ」
 オリヴィエは地面にそっとナタンを放し、名残惜しそうに頭を撫でた。ナタンは別れが惜しいとばかりに鳴いたが、やがて茂みに消えた。ロランは大仰に溜息をついたブランシュを振り返った。
「君は猫が嫌いなのか」
「そう。ナタンは凶暴なやつだから、あんたも気を付けた方がいいよ。オリヴィエは時々寝室にまでナタンを入れるんだ。酷いだろ?」
 ブランシュはロランを見上げ、口を尖らせた。
「ナタンが一緒に眠りたいって言うんだよ」
「冗談じゃない。君の隣は僕のものだ。あの雄猫になんかやるもんか」
 ブランシュはオリヴィエに手を取り、半ば本気で執着心を見せた。オリヴィエはふっと顔を綻ばせた。
「ナタンより、君の方が大事だよ」
 ブランシュは少しの間をあけて、照れ隠しをするかのように胸を張った。
「まあ、当然かな」
「仲がいいな、君たちは」
 率直な感想を漏らすと、同じ顔が同時にロランに向けられた。
「あなたも弟さんたちと仲がいいのでは?」
「弟たちのために働き詰めだったんだろう?」
「いや、弟たちから見れば、俺は兄と言うより親みたいなものだと思うよ。君たちのような対等なきょうだい関係ではないかもな」
 つい最近まであれをしろ、これをしろと、口うるさく言っていた弟たちがいなくなったことで、ロランの心に僅かな寂しさが生まれていることを実感してしまった。弟たちにとって、口うるさいだけの兄だったかもしれない。初めて弟たちと離れてみて、ロランは親のいない彼らのために自分が親となって何とかしなければと意気込んでいたことに気付いた。
「ふうん。じゃあ、今日からは僕たちの兄さん代わりになってよ。僕たちには兄がいないからちょうどいい」
 ブランシュの提案に、それはそれで大変そうだと思わずにはいられなかった。湖の潤むような水面を背景に、返事を待つ二つの同じ顔、四つの湖水色の瞳がロランをじっと見つめていた。くらりと視界が揺れた。その感覚は恐ろしさにも似て、ロランを非日常へと引きずり込んでいくかのようだった。



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