ピノッキオ


 七島が僕を嘘つき呼ばわりするので、過去を少し振り返ってみた。
 小学生のとき、学芸会で演劇をすることになった。色めき立つクラスメイトの騒がしい声を聞きながら、僕は机に肘をついて窓の外を眺めていたような気がする。白雪姫がいいね、などと話している女子を、ピーターパンがいいと男子が非難して言い争いになっていた。せっかく静かなところに身を置いていたのに、何故か僕を気にかけていた女子の一人が話しかけてきた。
「ねえ、美山くんは何がいいと思う?」
「何でもいいよ」
 僕は視線を逸らさずに答えた。だが女子は怯むことなく、更に言い募ってきた。
「じゃあ、白雪姫とピーターパン、どっちがいい?」
「何でもいいって言ってるだろ。うるさい」
 僕の刺々しい言い方は今も昔も変わっていない。睨み付けながらそう言うと、周りで僕たちのことを傍観していたクラスメイトも一瞬騒ぎを止め、やがて所々固まってぼそぼそとした声で何かを話し始めた。馴れ合うのが嫌いな性格で、陰口を言われることには慣れていたから気にならなかったけれど、僕の頭を占めていたのは演目ではなく劇そのものだった。
 僕は演劇が嫌いだ。だからと言って振り当てられた役を放棄したり、大根役者並みの演技をしたりはしなかったけれど、我慢ならなかった。本番だけは、確実に演じ切らなくてはならない理由があったからだ。
 演目は白雪姫でもピーターパンでもなく、ピノッキオに決定した。各々が意見を言い出して纏まらなくなったので、先生があみだくじで決めたのだ。そして役もまたそれで決められ、不運なことに僕が主役になってしまった。そう、木で作られた人形で手に負えない悪戯好き、そのくせ嘘つきのピノッキオ。
「美山に適役じゃん」
 そこまで話すと、七島はいつもへらへらとしている顔を更に歪ませ、声を上げて笑った。
「ほんとだよ」
「あれ、やけに素直。雪でも降るかな」
 窓の外を見遣った七島に釣られて、僕も視線を移動させた。これから夜に向かって日が傾き始める時間帯で、茜色の空に蜩の鳴き声と、金属バットでボールを打ち返す音が混ざって聞こえた。外の明るさに反して、教室内には濃い影がそこら中に存在している。
「結局やったんだろ、ピノッキオ。でもお前、練習とかすごい嫌がっただろうな」
「練習は棒読みだった。本番はちゃんとやったけど」
「母親が見に来るから、か」
 呟くような七島の言葉に、僕は無言で肯定した。
 母は、僕が主役に選ばれたことをとても喜び、学芸会を楽しみにしていた。僕は何があっても母を失望させるようなことがあってはならないと、自主練習に励んだ。クラスでの練習にも渋々参加して、クラスメイトにやる気のなさを指摘されたこともあったけれど睨み付けて黙らせた。本番さえ上手い演技ができればよかった。母の前で本当の自分を見せないで、いい子のように振舞っている僕にとって、練習と言えども利益のない演技をするのは嫌だったのだ。
 演じることは、疲れる。神経を擦り減らす。そんな思いをするのは家庭内だけで十分だったから、学校では躊躇もなく仮面を脱ぎ捨てていた。誰にどう思われようと構わなかった。母にさえ見捨てられなければ、心を許せる友達なんて必要ない。上辺だけの付き合いで十分だ。
 学芸会は成功に終わった。普段、やる気のない演技をしていた僕が、そのときばかりは豹変したので、内心ひやひやしていただろう担任も胸を撫で下ろしたに違いない。母は大喜びで、何度も僕を抱き締めた。そして言うのだ。
「自慢の息子だわ」
 ぞくりと違和感が駆け巡った。思えば僕はその当時、自分が途轍もなくおかしいことをしていると薄々感づいていた。みんなとは何かが違っている。歪んでいる。はっきりとは分からなかったけれど、他人との間に透明な膜のようなものを感じていたのは確かだ。けれど言葉にするのも、認めてしまうのも恐ろしくて、ずっと見ない振りを続けてきた。
 高校生になった今は、自分がどれだけおかしなことをしているのかを理解していて、それでも尚、生き方を変えることはなかった。今更まともになろうとしたって、長年母の前で仮面を被り続けてきた僕が、それを脱ぎ捨てるなんて出来るはずがない。そんなことを言うと、七島は言ったのだ。
「お前は母親に嘘をついてるんじゃなくて、自分に嘘をついてるんだよ」
 なるほど、と、口には出さなかったけれど目から鱗が落ちた。僕は考えを巡らせる。そして心の中で鮮明に焼き付いている出来事を、何を思ったのか自分でもよく分からないけれど話し始めていた。本当は話すつもりもなかったし、いつの間にか七島の口車に乗せられたことが癪で、途中で帰ってしまおうかとも思ったけれど、無理やり引き止められてあまりに熱心に諭されたものだから、とうとう僕は観念したのだった。
「お前が話せって言ったんだからな。つまらなかったって文句言うなよ」
 僕は溜め息をついて、既に書き終わっていた日誌を閉じた。本当に、何でこんなことを話してしまったのだろう。
「話し始めたのはお前だろ」
「途中でやめようとしたよ」
「いや、面白かったぜ。美山はピノッキオなんだって分かった」
 時々、七島はこちらが理解できない価値観で話すときがある。今もそうで、僕は訳が分からなかった。どういうことなのか問い質そうとしたとき、教室の扉が開いて担任が顔を出した。
「そろそろ閉門の時間よ。あ、日誌書いたなら預かるわ」
 職員室に届けなければならなかったのだけれど、運良く手間が省けた。日誌を手渡すと、何故か担任は僕を見て微笑んだ。
「美山くんと七島くん、仲がいいのね」
「別に仲良くないです」
 即座に否定すると、担任は目を瞬いた。確かに誰もいない教室でこんな時間まで話をしていたのだから、そう思われても仕方がないのかもしれないけれど、本当にそれだけは、違うのだ。だが七島はそんな僕とは裏腹に、にかりと笑みを見せる。
「先生、嘘も方便って言うでしょ。それと一緒ですよ」
「あ、なるほどね」
 七島と担任は共犯者の笑みを交わした。面白くない。僕は鞄を持って立ち上がる。
「先生、さようなら」
「はい、気をつけて帰るのよ」
 まるで小学生のような会話を交わし、教室を出ると、騒がしい音を立てて僕の後を追いかけてきた馬鹿がいる。廊下には誰もいないから、余計耳についてうるさかった。
「待てよ、美山。話すだけ話して、さっさと帰るなんて卑怯だぞ」
 隣に並んだ七島の鞄からは教科書やイヤホンが飛び出していて、焦って詰め込んだのだと分かる。
「勝手に残ってたやつに言われたくないね」
「美山が何か話したいような雰囲気だったから残ってやったんだよ。感謝しろよ」
「あっそ」
「素っ気ねえの。ま、それがお前の性格だからな」
 言われなくても、そんなことは僕が一番良く知っている。どうしようもない、人には好かれない性格だということも理解している。だから今まで出会った人とは友達というより知り合い程度の関係しか作れなかったし、勿論嫌われることも多かったけれど、これからもそれでいいと思っている。人付き合いなんて、所詮は自分を良いように見せる仮面を被ったまま騙し合いをしているようなものなのだから、そうまでしていい関係を築くなんてごめんだ。
 正門を出て、帰路に着く。あともう少ししたら、僕はまた、いい子を演じなければならない。あらゆる感情を押し込んで、何より大切なものを守るために。
「なあ、知ってるか、美山」
 突然、隣を歩いていた七島が問い掛けてきた。七島との下校は、いつの間にか違和感を覚えることがないほど習慣になってしまっていた。独りでいる方が性に合っていたし、誰かを言葉で傷付けることもないし、何より楽だった。それなのに七島はいくら僕が理不尽な言動をしようと、拒絶しようと、おもしろいの一言で片付けてしまう。
「知ってるよ」
「聞く前から分かるかよ。ほんと、おもしろい性格してるよな」
 ほら、まただ。何かおもしろいのか全く分からないのだけれど、七島は笑っている。変なやつだ。何かと付き纏われるようになってからも、七島に対するイメージは変わらない。
「ピノッキオってさ、最後にじいさん助けて死ぬよな。身体がばらばらになってさ。でも結局、人間にしてもらうんだぜ」
 僕は立ち止まった。七島は少し前を歩き、やがて僕の方を振り返った。
「だからお前も、一回死ねば、人間になれるよ」
「僕は元から人間だし、死んだらそれで終わりなんだけど」
「比喩だ、比喩。お前はまだ、嘘つきの人形なんだよ。いつか、本当の人間になるための試練みたいなのがやって来ると思う」
 僕のむき出しの腕を生暖かい風が撫でていった。夕暮れの空が熟れた果実のように真っ赤に染め上げられ、七島の背後で強烈な光を放っていた。そのただ中に立つ七島の姿は黒く影のようで、どんな表情をしているのか分からない。耳元で鳴いているわけでもないのに、蜩がうるさかった。訪れる夜を恐れているかのようにも聞こえるそれに、僕は背筋を震わせる。痛いだろう。苦しいだろう。ピノッキオのように身体がばらばらにならない代わりに、心がばらばらになってしまうだろう。近い将来、訪れるであろうそれによって。
 途轍もなく大きな、予感だった。
「だから、知ってるって。学芸会でやったって言ったろ」
「でも、そんときは俺が助けてやるからさ。心配すんな」
 動じていないように装った僕の言葉を聞き流して、七島はさらりと言ってのけた。僕は顔をしかめて呟く。
「何で」
「何でって、友達だろ」
 助ける? 友達? 何故恥ずかしげもなくそんなことが言えるのか、理解不能だった。けれど、僕が七島に対して違和感を覚える理由は、本当に人間と人形の差なのかもしれないとも感じる。僕は再び歩き出し、七島の表情が見えるところまで行くと、視線を真っ直ぐ向けて尋ねた。
「それじゃあ七島は、人間なのかよ」
「お前よりは、人間だと思うぜ。人って何かしら演技してるけど、美山の場合、それが極端なんだよ。そんな生き方してると、どこかに無理がくる。自分に嘘つきながら、思うように生きていけないだろ」
 七島は何の衒いもない笑みを浮かべ、僕の肩を叩いて歩くよう促した。血のように赤い空に向かって、僕たちは歩き出す。
「つうかさ、俺ら真面目すぎ。小難しい話なんて性に合わないんだよな。なあ、普通の高校生らしい会話しようぜ。今からカラオケ行く?」
「いいね、賛成」
 途端に、七島は短い驚きの声を上げた。僕がのってくるなんて考えてもいなかったのだろう。その反応を見て、僕は内心ほくそ笑んだ。
「嘘だよ。行くなら一人で行けよ。僕は帰る」
「ほんと、性質悪いぜ。何でこんなやつとつるんでんだろ、俺」
 言葉とは裏腹に、七島は苦笑しながら空を仰いだ。七島は普段からありのままの姿を見せ、演技をしてしまうことなんてないのだろう。あったとしても僕のように性質の悪いものではないのだろう。怒るときは怒る、泣くときは泣く。それを素直に表現できる七島は、とても人間らしいと思った。
 試練が訪れて、乗り越えることができたら、僕も少しはまともになれるだろうか。嘘をつき続けた代償がどんなに辛いものであっても、耐えられるだろうか。近いうちに来るだろうとは思っているけれど、何も準備ができていない。無防備のまま、たった一人で、僕は戦わなくてはいけないのだ。恐ろしくないわけがないけれど、ずっと先延ばしにしてきたことだ。いつか、向き合わなければ。
「友達か」
 僕の呟きが聞こえなかったらしく、七島は歩きながら器用に首をかしげた。
「やっぱ行くのか、カラオケ」
「だから行かないって言ってるだろ」
 思わず笑ってしまいそうになった。笑顔なんて他人の前では絶対に見せたくないのに、それすら制御できなくなる危険が潜んでいるなんて驚いてしまう。こいつには敵わない。そう思わされる相手に出会ったのは初めてだった。けれど七島は気付いているだろうか。過去を他人に話すなんて、以前までの僕なら絶対にしないということを。認めたくないけれど、七島のことを友達として意識し始めていることを。
 嵐の予感は拭えない。それでも、僕は人形を演じ続けるだろう。その日が来るまで、壊れる危険性を孕みながら滑稽なまでに踊り続けるのだ。人間になれるときを渇望しながら。


2007/7/01



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