グラフィウム


 朽ち果てた屋敷の中で、少年は天を振り仰いだ。毛足の長い絨毯に溜まっていた埃が彼の歩みによって舞い上がり、天窓から差し込む薄い光の中できらきらと散っている。片側だけ外れた女性の絵画の薄気味悪さも、破れた緞帳の惨たらしさも、それに包まれるとこの場所を禁域と呼ぶにはあまりにも不釣合いに思えてきて、少年は緊張で止めていた息を静かに吐いた。
 再び足を踏み出し、そこここを注意深く見渡す。どこもかしこも人が生活している様子がなく、少年は仕方なく別棟へと続く粗い石造りの廊下へと足を踏み入れた。庭を横切るように作られたその廊下は薄暗く、そして終りが見えないほど長く感じられた。両脇には石を刳り貫いただけの硝子が嵌められていない窓が等間隔に並んでいて、翡翠色の空が不気味なほど滲んで見えた。
 少年は漆黒と翡翠色に彩られた空間を歩き続けた。確かに歩いているはずなのだが全く代わり映えのしない景色に、本当に自分は進んでいるのか、終わりがあるのか不安に駆り立てられる。コツコツと定期的に響く足音に反して、何かに責め立てられるように息はどんどんあがっていく。その感覚に身体がしっとりと汗ばんだとき、漆黒の先に針で穴を開けたような終わりを見た少年は、弾かれたようにその光の中へ飛び込んだ。
 あまりの眩しさに瞼を閉じ、少しして恐る恐る開く。眼前に広がっていたのは見事な庭園だった。今までの埃を被った薄暗さから一転して色鮮やかな薔薇が咲き乱れ、香りに誘われた蝶が乱れ飛ぶ。新鮮な空気を肺に取り込みながら薔薇のあわいを縫うように続く小道に入ると、すぐに開けた場所に出た。そこには東屋があり、車椅子にのったひとりの少年がこちらを見据えていた。
「久しぶりだね、兄さん」
 言葉を噛み締めるようにゆっくりと言った少年は、以前と変わらない綻ぶような笑みを湛えていた。兄と呼ばれた少年はそっと彼のそばへ歩み寄り、何年か振りに再会した弟に哀切な眼差しを向けた。弟の年相応の薄い胸板や細い手足、何よりまだ丸みを帯びた柔らかそうな頬が、車椅子という現実に凌駕されているように思えてならなかった。
「僕、兄さんが来てくれるの、ずっと待ってたんだよ」
 兄を見上げて微笑む弟の頬を、金色の一房が滑って顎の下で揺れた。
「ずっとずっと、兄さんを想わない日はなかった」
「ごめん」
 眉根を寄せて精一杯の言葉を搾り出した兄を見て、弟は小刻みに震える彼の手を強く握り締めた。しかし兄は弾かれたようにその手を振り払う。弟同様少年らしい細い身体つきだったが、彼より数年長く生きている分、振り払うのは容易かった。
「どうしたの、兄さん。僕のこと、嫌い?」
 翡翠色の瞳が、同じ色をしたそれに注がれる。兄は射竦められたように身体が強張るのを感じた。弟の瞳は揺らぐことなく、真っ直ぐ標的を狙っている。
「まあ、いいや。久しぶりに会えたんだし、緊張してるんだろう。兄さんだって僕のことを忘れられなかったよね? 嫌いになれるはずないよね? そう顔に書いてあるもの」
 ふふ、と可憐な笑みを見せる弟の瞳が急に翳った。
「そうだ、兄さんにいいものを見せてあげる」
 明るい声と共に身を屈め、足元から銀で出来た虫籠を取り上げた。中にはさほど大きくないが美しい蝶が縁に大人しく止まっている。
「今からこのグラフィウムを展翅しようと思ってたんだ」
 そう言うと弟は慣れた手つきで蝶を捕まえ、人差し指と親指で腹を押さえると、もう片方の手に注射器を構えた。軽く親指に力を入れて空気を抜くと、針先から透明な毒薬が零れ落ちた。それを翅を激しく動かして抵抗する蝶へ、容赦なく突き立てる。
「本当はお腹を潰しちゃえばいいんだけど、僕はこっちの方が好きなんだ」
 動きが鈍くなった蝶を今度は展翅版にのせ、背中から虫ピンを刺した。それでも翅が動いている理由は、致死量を与えられなかったからに他ならない。苦しむように翅を動かす蝶を楽しそうに見ている弟の様子は、兄を身体の芯から震え上がらせた。
「面白いだろう、兄さん。もう飛ぶことも蜜を吸うこともできないのに、生きてるんだよ」
「殺すなら苦しませないように殺さなくちゃ、蝶が……」
 途切れた言葉を促すかのように、再び弟の視線が兄に注がれる。
「蝶が、なに?」
 兄は喉から出掛かった言葉を飲み込んだ。視線を落とすと、蝶の翅の模様が先ほど通ってきた廊下の光景を彷彿とさせることに気付く。等間隔に並んだ翡翠色の窓、終わりのない漆黒の道筋。
「優しい兄さん。素直に言ったって、僕は怒らないよ」
 弟が手を伸ばし、兄の頬に流れた涙を拭った。生きているのか死んでいるのか、曖昧な場所にあるような生暖かい指が愛しむように撫でる。だが次の瞬間、弟はゆっくりとした動作で兄の頬に爪を立て、強く掻いた。
「ここは禁域なのに、足を踏み入れたのはあなた自身だよ。兄さんはやっぱり、僕のことが好きなんだね。忘れられないんだね」
 無邪気な笑みのその下に、弟は漆黒を培っている。ひりひりとした痛みと共に頬から流れ出た血が、顎を伝って弟の剥き出しの膝に落ちた。
「もう、逃げられないね」
 まるで、展翅されたグラフィウムのように。

※グラフィウム=アオスジアゲハ


2007/3/27



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