セレスティス(第18回ゆきのまち幻想文学賞応募作品)


 昔々のお噺です。一年中雪に覆われたこの小さな村には、とある言い伝えがありました。それはこの村には雪の精が棲んでいる、というものでした。村で生まれた子供は、幼いころからこう言い聞かされてきました。
「いいかい、よくお聞き。北の森に行ってはいけないよ」
 どうして、と子供たちは当然のように口を開きます。少年もその一人でした。母親は薪のはぜる暖炉に視線を向けながら、哀しそうに呟きました。
「雪の精は、若い男を嫌うのさ」
 母親はたった一人の子供である少年を抱き締め、涙を零すのでした。
 年月が流れ、少年は家業である宝石店を手伝えるまでに成長しました。鉱夫であった父親が生きていたころは、父親が採掘した鉱石を母親が加工して装飾品にしていましたので、少年も大きくなったら鉱夫になろうと心に決めていました。しかし、それを打ち明けると母は猛反対をします。その理由は少年がまだ幼いころ、父親が北の森へ足を踏み入れ、凍死してしまったからでした。村の人々は言い伝えを忘れるはずがないのに、どうして足を踏み入れてしまったのか不思議でなりませんでしたが、北の森には未開の鉱山があるとの言い伝えもありましたので、それを探しに出かけたのだろうと噂されました。少年は元々大人しい性格で、絵を描いたり手作業をしたりすることの方が得意だったので、いつしか鉱夫になりたいとは口に出さなくなりました。
 ある吹雪の夜のことです。朝から降り続けていた雪は日が暮れるにつれて激しさを増し、ごうごうと獣の唸り声のような音を立てながら村を襲いました。冬になれば、吹雪はそれほど珍しくもありません。けれど村の人々は吹雪になると家に鍵をかけ、板で窓を打ちつけ、神に祈りながら早々とベッドにもぐるのでした。なぜなら吹雪の夜は、北の森から雪の精が降りてきて、村を練り歩いているという言い伝えもあるからです。ですので若い男たちは特に、吹雪の夜を怯えて過ごすのでした。
 その日、店を休みにせざるを得なかった少年は、多くの人々がそうするように早々とベッドに横になりました。まだ眠るには早い時間でしたが、打ちつけた板の僅かな隙間から見える外は、インクを零したように真っ暗でした。息を潜めて風の音を聞いていると、自分がたったひとり世界に取り残されたかのような錯覚を覚えて、ますます身を丸くしました。少年は正直、雪の精の存在を信じていません。けれどこうして目を閉じて五感を研ぎ澄ましていると、幼い頃から言い聞かされてきた言い伝えが現実味を帯びてきて、恐ろしさに身を振るわせるのでした。
 どのくらいの時間が過ぎたのでしょうか。少年はふと目を覚まし、驚きました。眠る前まであれほど荒れていた天候が治まっているのです。雪が積もった朝のようにしんと静まり返っている様子に違和感を覚え、窓の外を見てみました。外は相変わらず真っ暗闇でしたが、ちょうど分厚い雲が途切れ、僅かに月の光が降り注ぎました。その途端、少年は驚きの声を上げました。
 一人の少女が、雪の上を歩いていたのです。白く輝く長い髪、石膏のような肌、薄い服からむき出しの腕も脚も寒々しく、けれどその異常さには似合わないほど幼く、無害に感じられました。少年はこれが言い伝えの雪の精なのかと好奇心が疼いて、その後ろ姿をじっと見つめました。気付かれないだろうと思っていたのも束の間、その少女は少年の方を振り向き、一瞬大きく目を見開きました。遠目でも分かるほどに澄んだ灰青の瞳に、少年はまるで身体に電気が流れたかのような衝撃を受け、少女から目が離せなくなってしまいました。少女は今までに見たどんな少女よりも美しく、銀の光に包まれて天の使いと見紛うばかりでした。けれど次の瞬間、少女は急に不安げに眉をひそませて視線を外し、いきなりどこかへ走り出しました。少年は無意識のうちに身体を起こし、寝ている母親を起こさないよう気をつけながら外に出ていました。風もなく、ただただ張り詰めている空気の中、少女が通った道は銀の光が糸のように続いていて、それは北の森に向かっているようでした。禁忌を承知の上で、少年は糸を手繰り寄せるように歩き出しました。さくさくと、雪を踏み締める自分の足音だけが少年の耳に届きました。もう一度あの少女に会いたい。声を聞いてみたい。そればかりが頭の中を占めています。こんな気持ちは初めてでした。そして息もつかせぬほど苦しいものでした。
 村を抜け、真っ白い雪を被った北の森の中にとうとう足を踏み入れると、銀の糸が更に輝きを増し、少女が近くにいることを物語っていました。少年は焦る気持ちを抑えながら奥へ奥へと進んで行き、やっと少女の姿を見つけました。開けた場所には凍った湖があり、その畔に少女は佇んでいました。追い付くのを待っていたのか、少女は息を弾ませた少年を振り向きました。その表情はやはり哀しげでした。
「どうして、哀しそうなの」
 少年は静かに囁きました。すると少女は目を伏せました。髪と同じ白い睫毛が、灰青の瞳に翳って震えています。
「あなたを殺したくないから」
 小鳥のように耳に優しい声でした。少女は顔を上げ、再び口を開きました。
「私と目が合うと、男の人は引き寄せられてしまう。ママも同じよ。そうして命を取られてしまうのよ。あなたのパパもそうだったわ。ママと目が合ってしまったばっかりに」
 少年は驚いて声も出ませんでした。父親は少女の母親に殺されたという事実は、少年の心に突き刺さると同時に、ここまで来てしまった理由に納得できる自分もいるのでした。
「君も僕を殺すの」
「殺さない。私はママじゃない」
 強い意志がこもった口調でした。その時、どこからか白いうさぎが飛び出してきて、少女の足元に纏わりつきました。しゃがんでうさぎを優しく撫でると、紅玉のような瞳を細めます。少女は、静かに息をうさぎに吹きかけ始めました。するとうさぎは眠るように息を引き取り、少女の腕の中で完全に動かなくなりました。
「動物と若い男の命で私たちは生きている。女や老人は駄目。coelestisになってしまう」
 聞き慣れないそれは、神様に捧げる言語でした。
「あなたは生きて。でもまた会うことがあったら、その時は私があなたを殺すわ」
 その言葉は甘美な誘惑のようでもあり、呪いのようでもありました。少女は少年に背を向け、凍った湖の上を歩いて行くと、やがて見えなくなってしまいました。満ちていた銀の光も消え失せ、森には月の光だけが降り注いでいました。

 何十年もの月日が流れました。少年から老人へと歳を重ねるうちに、いつしか鉱山は廃鉱になり、村からたくさんの人々が仕事を求めて出て行きました。幼いころ、あれほど言われていた言い伝えも、時代の変化と共に忘れられ恐れられなくなっていました。老人の受け継いだ宝石店も売れ行きが悪くなり、やがて趣味だった絵を描いては売る生活に変わりました。老人の描く絵はほとんどが雪景色と美しい少女で、その儚げな画風は人の心にひやりとした何かを落とすのでした。
 ある朝、突然、老人は悟ってしまいました。夜中に積もった大雪が透明な光を受けて宝石のように輝いている、特別な朝でした。老人はしばらく窓から見える北の森を眺めていましたが、やがて椅子に座り、来客を待ちました。すぐにトントン、と控えめに扉が叩かれ、誰かが家に入ってきました。老人は何十年か振りに、その人物と向き合いました。
「ありがとう」
 呟くと、あの日のままの美しい少女は微かに笑いました。髪も肌も全てが白い中で、灰青の瞳の美しさは特に際立っていました。吸いこまれると分かっていても、湖に映った空の底に落ちていきたくなるのでした。
「還りましょう。一緒に」
「なぜ、君まで」
 老人は尋ねました。少女は老人の節くれだった手を包み込みました。冷たいけれど温かな手でした。
「ママはずっと昔に死んだの。私はママじゃない。あなたしか、殺さない」
「今まで生かしてもらったこと、感謝している。幸福だった」
 老人は呟き、ゆっくりと目を閉じました。少年の日から、少女にまた会えることを、命を奪われる日を待ち望んできたのです。少女の冷たい息が吹きかかると、目蓋の裏に美しい灰青の色が広がり、次第に意識が遠退いていきました。老人が完全に眠りにつくと、少女もまた崩れるように倒れました。
 何日も老人を見かけないことが心配になった村の人々が家にやって来ると、椅子に座って幸せそうに微笑んだまま眠っている老人の姿がありました。そしてその側には、見たこともない美しい灰青の鉱石が、落ちて砕けたように転がっていたということです。その日を境に、村には四季が訪れるようになりました。村の人々は雪の精が死んだに違いないと喜び、村を復興させようと、北の森にあるという鉱山を目指しました。その鉱山では、老人の足元に散らばっていたものと同じ、美しい鉱石を採掘することができました。人々の目にはそれがいつか必ず還る天上の青のように見えたので、 天国 ( セレスティス ) と名付けたそうです。


2008/01/19



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