碧い鳥は謳う


パパ、パパ、わたしを見て。わたしだけを見て。
ママ、ママ、泣かないで。ぼくが側にいてあげる。
髪を伸ばすわ。ママみたいに長く伸ばすわ。ねえ、パパ、わたしを見て。
友達なんていらないよ。ママが笑っていればそれでいい。だから打たないで。
歪んだ愛と分かっていても。
本当の笑顔を忘れても。
いずれ裏切られても。
役割を失っても。
わたしは忘れない。受けた傷痕。
ぼくは恨まない。引き裂かれる痛み。
ああ、神様。ぼくたちの世界。
どうか幸せに。わたしたちの願い。

 構わないのです。ぼくたちはどうなっても。あなたたちが幸せならば。この腕はあなたたちを抱き締めるためにあるのです。愛する人よ。罰を纏い、闇を創り出した者よ。愛する人よ。目を逸らすな。闇を見ろ。羊水は真っ暗な海。堕ちていく。手を繋ぎ。羽根が降り注ぐ。引き千切られた翼の褥でぼくたちは眠る。今はまだ、純粋な愛の眼差しの元。



 花の匂いがする。この匂いは知っているのに、思い出そうとすると何かが邪魔をする。目を開けてみる。白い花だ。深い翠色の葉。茎には鋭い棘がある。その花はそこら一帯に咲いていてとても綺麗だ。僕の上を、操られたようなぎこちなさで蝶が飛んでいる。大きくて黒い蝶。ひらひら、ひらひら。僕の顔の上に影が落ちる。ここは明るい。ああ、そうか。僕は目を覚ましたんだ。
 身体を起こす。黒い蝶が一斉に舞い上がる。そのとき初めて、僕には身体があることを知った。腕、脚、髪の毛。胸に手を当ててみる。何も感じない。薄い胸板だ。少年だろうか。ここはどこだろう。蝶に問い掛けてみる。返事はない。光に照らされた翅が虹色に輝く。
 立ち上がり、適当に歩き出した。うるさいほど周りにいた蝶たちが、僕から離れてどこかへ飛んでいく。やがて散り散りになった蝶たちが、同じ方向に向かっていることに気付いた。空中に黒い道ができている。銀色の鱗粉が僕に降りかかる。僕は蝶たちの後を追いかけた。どんどん黒く密集していく。その先には、黒い塊のようになった蝶の群れ。一匹二匹とその何かに留まり、翅を動かす。
 僕が近付くと蝶たちは一斉に飛び立った。覆われていたものは大きな姿見だった。僕の姿が頭から爪先まで映っている。また一歩近付いて鏡面に触れてみる。鏡の中の僕も同じ動作をする。そうだ、僕はこんな姿をしていた。今まで忘れていた。
「何で――をしているんだ」
 どくん、と何かが跳ねた。一瞬、何かが頭に流れ込んできた。僕は鏡に向かってこぶしを振り下ろしていた。同じように掌を握り締めて鏡面を叩いてみる。するといくつもの罅が入る。僕の姿が増える。また叩く。ばらばらと崩れ落ちる。
 やがて蝶たちは再び黒い道を作り始めた。僕はまたそれを辿っていく。さっきと同じように黒い塊が現れ、僕が近付くと蝶たちは飛び立った。
 十字架があった。石で作られていて、僕の背丈より大きい。見下ろされているような、威圧されているような感覚がして、胸がぎゅう、と苦しくなった。何故こんなに痛いのだろう。哀しみ? 怒り? 不安? 分からない。ただただ僕はその痛みを感じている。成す術もなく。矛先はどこだ?
 いきなり、背中が熱くなった。僕は前に倒れ込む。熱さの後には鋭い痛み。
「ごめんなさい、ごめんなさい、――」
 背中の痛みは一瞬で消えた。指先の冷たい感覚に、僕は目を開けた。石碑だ。文字が刻まれている。一つ一つ、指でなぞってみる。けれど僕には理解できない。ずきん、とまた背中が痛んだ。別の生き物を背負っているみたいに重い。
 蝶たちが移動を始めた。僕は立ち上がり、また後を付いていく。やはりまた黒い塊があった。僕が地面に膝を着くと、蝶たちが剥がれていく。そして次々と地面に落ち、消えていった。彼らに啄ばまれていたものは、僕。
 偽者めいた世界に、偽者じゃない君がいた。僕であって僕ではない、同じだけれど別の身体と別の魂。彼女はゆっくりと目を覚まし、僕を見た。海のように深くて、空のように澄んだ瞳。まだ何も知らない僕たちは、出逢ってしまった。

 永い眠りから覚めた僕たちは、いつも手を繋いでいた。離れられない。離れたくない。同じ魂に戻ってしまえばいいのに。何度も語り合った。片割れでしかないのだ。僕と彼女はお互いの半神であり続ける。
 “それ”に気付いたのは彼女だった。
「始まりの終わりの音がする」
 そう呟いて繋いでいた手を強く握り返してきたので、僕は彼女を振り返った。硝子のような瞳が何かをじっと見ている。耳に届く、生きている水の音。僕ははっとした。いつかどこかで聞いた、始まりの終わりの音がしている。僕は恐る恐る振り返った。
 美しい人だった。どんな例えも追いつかないくらいに、ただただ美しい人だった。その人は白い服を着て、風になびく長い髪を押さえながら、嬉しそうに白い砂を踏んでいた。足元に規則正しく寄せて返しているのは、波。背後から浮かび上がる碧が滲む。繋がった手から、彼女の鼓動を感じる。どくん、どくん。僕は胸に手を当ててみた。どくん、どくん。小さくてか弱い。まるで今にも止まってしまいそうな。けれど確かな音を感じた。見る見るうちに涙が溢れ出す。ああ、この人だ。嬉しいのか哀しいのか? 絶望か希望か? どちらでもあってどちらでもない。唯一の温もりを強く握り締めた。彼女もまた泣いていた。
「どうして泣いているの」
 僕たちに気付いたその人は、そう声をかけてきた。
「あなたに出逢ってしまったから」
「あなたが美しいから」
 その人はにこりと微笑んだ。
「わたし、とても幸せなの。あなたたちにも、この幸せが届くかしら」
 華奢な腕で、その人は僕たちを抱き締めた。そして僕たちはいっそう泣いた。再び歩き出したその人の姿が見えなくなるまで。許しを請うみたいに。
「そろそろ、行かなくちゃ」
 僕の言葉に、彼女は眉を潜めた。
「行きたくない。ずっと一緒にいたい。あんなの、いや」
 僕たちは悟ってしまった。これから僕たちがどうなってしまうのか。
「でも、行かなきゃ。もう壊れ始めてる」
 空が燃えていた。焼け爛れて剥がれ落ちてしまいそうなほど。それでも波は怖いほど緩やかに、僕たちの足元を浚っている。
 一歩一歩、沖へと進む。真っ赤な水の中へ。進むたびに鮮明になる、僕たちの記憶。いや、僕たちの未来。それでも進まなければ。鼓動が大きく強くなっていく。記憶が身体中を駆け巡る。もう少ししたら全てを忘れてしまう。少しでも繋ぎ止めておきたい。僕と彼女の覚悟。そして呪いについて。けれど記憶はどんどん零れ落ちていく。脆い硝子みたいに、とても綺麗で残酷だった。きらきらの何かは水に溶けて渦になる。僕たちに残ったのは、虚無。全てを超越した暗がり。
「君はだれ?」
「あなたはだれ?」
 僕たちは同時に問い掛け、同時に首を傾げた。まるで鏡のように。どうして手を繋いでいるのだろう。海に浸かっているのだろう。分からないことだらけなのに胸が跳ねていた。急かすみたいに。
「僕、行かなきゃ」
「わたしも、行かなきゃ」
「どこに?」
「光の方へ」
「一緒に行こうか」
「うん。二人だと怖くない」
「手をしっかり握っていよう」
「絶対に離さないで」
「何があっても」
「何があっても」
 僕たちは赤い海に潜った。水の中から水面を見上げてみる。赤い色はどんどん暗く染まって行き、ついに真っ暗になった。僕たちは漂った。手を繋いでいるから怖くなかった。吐き出した泡が水面に向かって伸びている。ぱちん、ぱちんと割れる音が聞こえる。急に身体が浮かんできた。水面に向かって押し上げられている。無数の泡が僕たちの周りを囲っている。すると一つ、一際明るい粒が見えた。身体が持ち上がると、それもどんどん大きくなる。
「光だ」
 何故だか怖くなって、僕は彼女を見た。このまま行ってもいいのだろうか。大事なことを忘れている気がする。
「これから、どうなってしまうの」
 彼女が不安げに呟いたときだった。きらきらとした渦に巻き込まれた。渦の中は星が輝いているように綺麗だった。けれど嵐のように激しかった。ばらばらになってしまわないように、僕たちは固く手を握る。固い何かが僕たちを容赦なく傷付ける。これは何だろう。破片のようなそれらには僕たちの姿が見える。僕たちの周りをぐるぐる廻る。そして見た。最大の呪いを。僕たちの始まりの終わりを。
 その瞬間、握り合っていたはずの手が離れた。はっとした。一瞬のうちに僕たちは渦に飲み込まれた。上へ上へと。彼女がいない。どこにもいない。それは世界の終わりを意味しているかのように、暗くて長い道の始まりの終わりなのだ。そして僕は薄れゆく意識の中、光に弾かれた。
 こうして、僕たちは堕ちてきた。

 夏の光が眩しくて、少年は顔を顰めた。首元でしっかり結ばれていたネクタイを、慣れた手付きで緩める。冷徹な、それでいて憂いと青い炎を持ち合わせたかのような、独特の雰囲気を持つ少年だった。彼は街路樹の日陰を歩き出した。夏の光が強い分、影は濃く、境目もはっきり浮かび上がっている。暗い暗い道のりだった。少年は何かを諦めたかのような瞳をして、操られているかのような人形めいた規則正しさで、背筋を伸ばして歩いている。
 少年はまだ知らない。夏の光が何であるか。この先、何が彼を待ち受けているのか。運命の扉はすぐそこにある。出逢いも別れも再会も、全て意味がある。潮風に乗って、呪いの歌が聞こえる。パパ、ママ、と。哀れなこどもたちの魂の叫び。
「神様。あなた方はどうして僕たちをお作りになった」


2008/07/06



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